第7話 天正二年 元旦
仙千代が信長に仕えておよそ二年が経ち、
正月を岐阜で迎えるのは二度目となった。
この三年は、将軍、足利義昭の追放、武田信玄の死去、
朝倉義景及び浅井長政討伐と、信長にとっては、
天下布武の総仕上げに一歩も二歩も近付いた歳月だった。
目下最大の懸念は、
昨秋、長島の城を陥落させることが叶わず撤退戦となった、
本願寺勢力、つまり、長島一向一揆衆との対決だった。
織田軍二度目の長島攻めで、
交易、交通の要衝である北伊勢の平定こそ成ったものの、
調略を弄し、船を調達し、海上からも攻め上がるはずが、
思うに任せず、
一ヶ月の遠征の末、信長は大柿城へ退くことに決めた。
谷筋の細い道を行く際、
多芸山で待ち構えていた門徒側は伊賀、甲賀の兵も動員し、
弓、鉄砲を仕掛けてきた。
やがて悪しくも雨が降り始め、
織田軍の鉄砲隊は無力となって白兵戦となり、
仙千代は、主君、信長だけは守り切り、
自分はここで死ぬのだと覚悟した。
この時、仙千代も竹丸も、
生まれて初めて戦闘で刀を抜いた。
だが、信長を取り巻く護りは幾重もあって、
若年の小姓達は屈強な馬廻りに囲まれ、
敵兵と戦うことはなかった。
それでも死の覚悟をしたことは間違いがなく、
何としてでも信長を守り、
いざ斬り込まれた時には主の盾となる決心だけは変わらなかった。
一族郎党、枕を並べて討ち死にし、
冷たい風雨により、下々の人足の幾らかからは凍死者が出た。
惨憺たる有り様で、ようやく夜に大柿へ到着、
翌、神無月の二十六日、岐阜へ帰還した。
心身共、ぼろぼろになって岐阜の城へ帰った時に、
諸情勢により北伊勢出陣が為されなかった信忠の姿を認めると、
安堵なのか、恋しさなのか、理由の知れない涙が流れた。
一瞬、目が合ったような気がした。
信忠の瞳に感情の揺れを見たような気がしないでもなかったが、
仙千代の期待のこもった勘違いなのかもしれなかった。
信長はこの時の出征以降、一段と仙千代への引きを強めた。
実際、仙千代が刀を抜いたのは最後の一日、
しかも一刻に満たなかったが、
仙千代の働きが優れたものであったとして、
扶持がまたも増え、万見家当主である
今年こそ、殿は、長島一向一揆衆を成敗し、
亡き弟君の御無念を晴らされるだろう、今年こそ……
仙千代自身、先の撤退戦では、
時折話した同郷の年若い
倒れた姿を目の当たりにしながら、
どうしてやることもできず、信長に付き従って退路を進んだ。
仙千代とさほど歳の変わらぬ若輩だった。
流れる涙は激しい雨と混ざり合い、視界を一段と悪くした。
その九日後、今度は京へ向かい、およそ一月近く滞在した。
この時は天下の政務の為の上洛で、
負け戦を味わった後であっただけに、
冬だというのに春の花園のようなものにも思われた。
少しばかりの
竹丸を真似て『
他にも鉄砲術や南蛮渡来の文物に関する書を買い求めた。
やがて迎えた元旦は、
京の近隣からも大名、諸将が岐阜を訪れ、年賀の挨拶をした。
信長は宴を催し、三献の作法で酒を召し出した。
客人達が退出すると信長は、
昨年の夏、激しい風雨の中、朝倉攻めで、
信長と共に虎御前山を出て
ごく身近な臣を集めて特別な宴を開いた。
馬廻り衆は皆、小姓出身で、特に武門に優れた者達だった。
前田利家ら、重臣で、馬廻り出身の者は少なくない。
風雨の夜の朝倉攻めでは信長の気が急いて、
信長が先駆けであった為、共に行動したのはこの馬廻り衆と、
彦七郎、彦八郎ら、年嵩の小姓達だった。
諸将が主君の後塵を拝し、信長の怒りを買ったせいもあり、
あの夜に行動を一にした若武者達は信長の印象に強かった。
「竹丸、仙千代」
声が掛かると、二人は、
信長の合図と共に、既に命じられていたとおり、
古今に珍しい「酒肴」を掲げ持ち、座の高貴な位置に据えた。
白木の台を運んだのは竹丸で、
「酒肴」を運んだのは仙千代だった。
台座が置かれると、
仙千代が手渡す「酒肴」を竹丸が
それは、去年、
義景、久政、長政の
箔濃とは漆塗りをしたものに金箔、銀箔を張ったものをいい、
漆の艶めいた深い黒地に金銀が映え、煌めいている。
それぞれの
一、朝倉左京大夫義景、首
一、浅井下野守久政、首
一、浅井備前守長政、首
と、姓、冠位、諱の札が敷かれてあった。
一同、目を向いて、
「これは!」
「世にも珍しい!」
「まさか、斯様なものを見せていただく機会があろうとは」
「末代までの語り草にござる!」
予め、信長から、
「酒肴」の説明を受けていた竹丸、仙千代は、
竹丸から先ず、語った。
「髑髏の箔濃は、元々は古代
敵将に敬意を評し、その武力を自らに取り込むという、
呪術めいたものであったということでございます」
仙千代が続ける。
「岐阜という地名を提案された、
殿の師の御一人であらせられる高僧、
殿に学問をお授けになった折、箔濃という風習をお教えになって、
此度の北国攻めでは馬廻り衆の働きがあればこそということで、
殿の特別な御計らいにより、これら箔濃は供されましてございます」
場に集っていたのは、信長の最側近の若い衆で、
皆、大いに驚き、悦び、その様を見ると信長も相好を崩し、
珍しく酒が進んだ。
この後は、
「めでたい、めでたい」
「これほど斯様に楽しい正月はない」
と皆々、打ち揃って面白可笑しく謡い、遊興し、
信長も存分に満悦した。
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