第16話 ほんとうの裏切り者

 篠崎祐馬は逃げた。

 家老、橘厳慎が乗っていると思い込んでいた駕籠から板野喜十郎が現れたときには肝を潰した。自分が家老暗殺の企てに加担していることが、なにより真っ先に橘を刺し貫こうとしたことが、すべて露見したと分かったからだ。


「戻ってこい。さもないと本物の『裏切り者』になってしまうぞ!」


 そんなこと言ったってもう終わりだよ、板野さん。おれはもう裏切り者なのだ。帰る家はない。青海にいられるかどうかも分からない。それどころか死罪となるかもしれないではないか。そうやって呆然としていたところを突き飛ばされ、篠崎は我に返った。


「篠崎、お前に帰るところなんかねえ! どこまでもおれたちといくのさ!」


 土佐雷蔵だった。土佐は篠崎を庇うように、板野喜十郎と対峙した。そうだ。理由はどうあれおれは引き返せない道をやってきた。どうせ引き返せないのならば、あえてこの道を突き進むまでだ。


 篠崎は逃げた。夜の道を駆けて駆けて――闇に消えていった。


 走り続けてきた篠崎がその足を緩めたのは、城下を一里余り離れた青海川に架かる青海橋のたもとに着いてからだった。道はここで二手に分かれる。


 ひとつは右手。道を辿ればやがて青海山へ向かい、奇妙公の山御殿に至る。もうひとつは左手。青海橋を渡って行けば急峻な山道になる。峠を越えればもう青海ではない。


 ――ここで土佐を待とう。


 土佐が戻って来れば、右手。奇妙公の屋敷へ向かおう。戻ってこなければ、左手。山を超えて領外へ逃げよう。脱藩するのだ。奇妙公の後ろだてなくして篠崎の居場所はない。


 道の脇に佇むと、いままで聞こえてこなかった虫の音に体全体が包まれた。落ち着いて虫の声を聞くことなど、ここひと月のあいだはなかったことだ。篠崎の知らぬ間にか秋は深まってきていた。


 不意に虫の声が止んだ。

 道をこちらへ駆けてくる足音がする。油断なく刀の柄に手をおいた篠崎の前に現れたのは――。


「圭介?」


 幼なじみで斎道場の同門でもある大村圭介だった。


「どうして圭介がここにいるんだ!」


 追ってくるならそれは土佐か、板野であるはずではないか。意外なことに取り乱す篠崎とは対照的に、大村は落ち着き払っているように見えた。


「板野さんから教えてもらったんだ。今夜、青野橋の袂に祐馬がやってくるかもしれないって」

「なに?」


 板野喜十郎は意外に手回しのいい男だ。篠崎の行動が怪しいとみると、もう幼なじみの大村を味方に引き入れている。


「橘家老を襲撃する計画がある――まさかと思ったけど、待っていたら、本当にお前が走ってきて……。祐馬、橘家老を襲撃したって、ほんとか?」

「……」


 ほんとうだ。篠崎はと阿片に籠絡されていた。しかし、それと知っていても大村は篠崎を信じていたいという気持ちに揺れていた。


「そんなこと祐馬がするはずがないよな。板野さんが間違ってるんだ。そうだろう?」


 落ち着いているように見えて、大村の内心は大きく動揺していた。現実は板野が予言したとおり篠崎がここへ現れたにも関わらず、彼が襲撃者に加担していないと信じたがっていた。


 ――圭介は甘い。


 臆病な想像力を信じたいのなら信じさせてやろう。篠崎は大村が怯えていることを敏感に感じ取っていた。いまはそれを最大限利用するのだ。


 ――おれが生き延びるために!


「そうなんだ圭介。板野さんは誤解していて――しかし、その誤解は解けた……」


 ことさら大袈裟な身振りで話しかけた。ほら敵意はない。おれは篠崎祐馬。お前の親友だ――。


「待ってたんだ、圭介。一緒に行こう」


 篠崎が元の城下の方角へ歩き始めると、大村は目に見えて警戒心を解き、うれしそうについて歩きはじめた。それは以前のとおり、篠崎が自分のところへ戻ってきたと安心しきった表情だった。


 ――圭介。


 まったく躊躇しなかったわけではない。

 しかし篠崎は決断した。


 間合いは十分近かった。

 刀の柄に手を掛け、鞘から抜き放つ。

 踏み出した左足を軸に体を回転させると、篠崎の剣先が水平に大村の胸を斬り裂いた。

 なにが起こったか分からないといった様子で、斬られた大村はゆっくりと膝をつき、地面に倒れていった。


「圭介!」


 怒りとも悲しみともつかない表情に篠崎の顔は歪み、刀の柄を握った拳は震えていた。篠崎は気づかなかったが、このとき、彼はになった。

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