第10話 蜘蛛の巣城の虜囚

 土佐雷蔵と名乗ったその男は、徳應寺を出ると城下を抜けてずんずん先へと歩いてゆく。不審に思った篠崎がなにか話しかけても、「うん」とか「ああ」とか生返事を繰り返すばかりでまともに取り合ってくれなかった。時刻は真夜中を過ぎているし、月もない真っ暗闇を青海山へ向かってたどる道は不気味で恐ろしかった。


 細い山道をどれほど歩かされただろうか。折れ曲がりながら上ってきた道と視界を覆ってきた木々の群れが途切れ、ぽかりと開けた空間に出た。瞬く星々を背景に、ぐるりと生垣を巡らせた黒い屋敷が山の中に現れたのだ。


 だれの屋敷だろう。なぜこんな山の中に建てられているのだ?


 土佐雷蔵がそのままずんずん進んでゆくので、篠崎もその後を追いかけた。生垣の外を通用口とみられる門へ回った。門の内へ向かって土佐が何事かささやくと、かんぬきが外れる音がして扉が内側に開いた。


 灯りはなく門の内側も真っ暗だった。そして、そのことがここまできた篠崎をためらわせた。


 なんだこの嫌な感じは? このままこの屋敷に足を踏み入れていいのだろうか。ここに入ってしまうと、取り返しのつかないことになってしまうのではないだろうか。


 吸い込まれていきそうな闇を見つめながら、篠崎は門の前でそんな思いを反芻した。


「どうした? ゆくぞ」


 土佐雷蔵にうながされ、ためらいながらも篠崎は門の敷居を跨いだ。ふたりが門内に入ると静かに扉が閉じられ、閂をかける重々しい音が夜の山に響いた。瞬間、篠崎は祟り神奇妙公虜囚りょしゅうとなった。




 いくつかの廊下を渡り次いでたどり着いたその部屋では、大勢の人間が集まってが行われていた。徳應寺の貧相な賭場とは違い、一面に畳が敷きつめられ、襖絵も見事な座敷ではあったけれど、やっていることは同じである。賽子さいころの目に金を賭ける丁半博打だ。


「肩代わりしてやった金はここで儲けて返せばいい」


 土佐雷蔵は肩代わりした五両に加えて二十両、合計二十五両を賭け札に替えて篠崎に渡してくれた。いまの篠崎にとって大変な額の金である。


「こんなに?」

「ここでは一晩に何千両もの金が動く。これでは少ないくらいだ」


 見回すと確かに、賭場の客層が違う。徳應寺の賭場では町人や武家の奉公人が客層の中心だったが、ここの客はもっと裕福そうに見える。客である町人はその仕立ての良い着物から大店の主人か番頭と分かるし、禿頭を隠そうともしない僧侶の姿も見える。中には、数は少ないが武士もいて、皆が皆、口元まですっぽり覆う頭巾で顔を隠していた。


 徳應寺の賭場つねに殺気だった雰囲気に満ちていたが、ここのは静かで、勝負は淡々と進められていた。壺が開けられるとき、賽子の目に大騒ぎする客はほとんどいない。


 殺気の代わりこの部屋に漂っているのは、濃いタバコの煙とえもいわれぬ倦怠感だ。賭け札を左右にするほか、人びとは酒に酔ったように身体を投げ出し弛緩している。


 賭場の盆を切り回しているのは、驚いたことに女だった。中盆とよばれるの進行役は、襟元から艶っぽくうなじを見せた三十女で、壺振りはまだ十六、七と見える若い女だった。紫煙の揺蕩たゆたうなかで、双肌もろはだ脱ぎにきりりとさらし巻いただけの女は異様になまめかしかった。


「新しい客だ」


 土佐に連れられて盆の脇に陣取った篠崎に向かって、壺振りの若い女が微笑んだ。


「壺振りを務めます。伽耶かやでございます。ごゆっくりなさってください」


 真っ赤に紅のひかれた唇から白い歯が覗くと、篠崎は頭の天辺から爪先までが痺れたように感じて何も言えなくなるのだった。


 ――いかん。これはいかん。


 頭ではそう思うだが、なぜか身体が思うように動かない。部屋を覆う煙のせいだ。手足から力が抜けてゆくと同時に、心は穏やかでこれまで感じたことのない幸福感に満たされてゆく。


 ――ああ、阿片アヘンだ……。


 分かってはいても、篠崎はここから出てゆくわけにはいかなかった。自分はどうやら蜘蛛の巣に絡め取られたらしい。人の血をすする蜘蛛が棲む屋敷に。賭場の夜は、まだはじまったばかりだった。

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