第97話 クルーザー

 綾とミュージアムスタッフたちを無人タクシーで送り出した丈太郎は、いつもの道をマリーナに向かった。

 夏とはいえ22時を回っているので街灯のない夜道はは月明かりだけに照らされている。

 もう少し早い時間だと沈んでしまった太陽に照らされた無数の人工衛星が夜空を横切って賑やかなのだが、この時間になると太陽の光が人工衛星に届かないので夜空には月と1等星ぐらいしか見えない。

 明かりのない夜道は物騒なのかもしれないが、子供時代を田舎で過ごした丈太郎にとってはむしろ懐かしい光景だ。

 田舎では月がなければ無数の星が見えたものだが、月夜は田舎でも都会でも大した違いはない。

 5分も歩けばマリーナの明かりが見えてきた。


 不便な場所だが都会に近いのでプレジャーボートや小型のクルーザーが結構係留されている中で、いちばん奥にマリーナの主のように係留されている中型のクルーザーが丈太郎のねぐらだ。

 元々このマリーナは小型のクルーザーまでしか想定していなかった。

 そのためクルーザーを貸与されたときに自腹で専用の桟橋を1本を増設したので、桟橋からデッキへは側溝を跨ぐ感覚で乗り移れる。


 丈太郎がデッキに足を載せるとセンサーが感知して船外灯が燈る。

 デッキ正面のメインハッチのガラスに向かって


「ただいま。姫。」


 と言うと。


「おかえりなさい。薫兄様。」


 という少女の声と共に船内の明かりが灯り、ハッチのロックが解除された。

 もちろんユミの妹の姫の声だが、丈太郎が設定したのではない。ユミの仕業だ。

 認証は声紋と虹彩の2段階で、登録されているユミが「ただいま。姫。」と言えば「お帰りなさい。お姉ちゃん。」と言って鍵を開けてくれる。

 この船が来たのは姫の死後だが、生前に姫はユミと一緒に自分の音声データベースを収録していたので、ユミがそれを使ってこの船の音声ライブラリを書き換えたのだ。

 資産家が死蔵していただけあって、見た目は博物館に片脚を突っ込んでいても中身は10年落ち程度には充実している。



 本来サロンである空間の中心に高級家具のような木張りではあるものの無骨な四角い塊が鎮座している。処置室ユニットだ。

 一応窓側1mほどは隙間があるので船内から景色を楽しむことはできるのだが、サロンは四角い回廊になってしまっている。


 飲んだだけでなく、結構精神的な疲労感もあるので、寝落ちする前に点検と予備運転を始めておこうと処置室ユニットを回り込んだ丈太郎は、灯りの燈ったユニットの操作パネルに貼り付けられた紙を見付けた。


『今日はお楽しみだったみたいだね。準備はしておいてあげたから次は私も誘ってね。  ユミ』


 剥がしてみると裏面は記入済みのチェックリストで、操作パネルは『予備運転中』になっていたので、丈太郎はそのままオーナールームに向かった。



 チーク材の扉を開けると大きめの医療廃棄物入れが置いてあった。

 念のため中を確認するといつものインナーコルセットの他にヒップリフターも入っていた。

 このまま寝てもいいかと思った丈太郎だが、念のためベッドサイドの据付端末からメインフレームにアクセスして、乗船記録をチェックする。


「管理者権限が必要です。音声でお願いします。」


「姫。川田は帰ったか?」


「薫兄様ですね。お姉ちゃんは帰りました。詳細を表示します。」


 乗船記録と下船記録が表示された。積載重量の変化も医療廃棄物入れ程度なので、ユミがどこかに隠れていたり、何かが仕掛けられている心配はなさそうだ。


 丈太郎はジャケットを脱ぎベルトを緩めると、靴を脱いでそのままベッドに転がった。


「姫。電気を消してくれ。」


「おやすみなさい。薫兄様。」


 常夜灯を除いて船の灯りが落ちた。

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