黒い友だち (2)
一九二三年(大正十二年)九月一日午前十一時五十八分三十二秒、関東大震災発生。
死者行方不明者は十万とも十四万人とも言われる未曾有の大災害である。
当時はまだラジオすらなく、メディアの中心たる新聞社もほとんどやられ、様々な流言飛語が飛び交った。
中でも衝撃的なのは、やはり朝鮮人虐殺であろう。
「朝鮮人が暴徒と化して日本人を襲いにくる」という噂があっという間に広まり、震災下で不安に駆られた日本人が流言を信じ、朝鮮人を虐殺するという事件が各地で起きた。
遂には戒厳令が出され、鎮圧に軍隊まで出動した。
虐殺に油を注いだのは、正力松太郎ら警察の言動だったという。
さらには社会主義者大杉栄が殺された「甘粕事件」など、壊滅的危機的な非常事態において示された、人間の内面とはかくも脆く危ういものであることか。
「というようなことに絡めた、人間の内側を鋭く描く話を今考えている」
……。目の前で、トシが俯いて船を漕いでいた。
自分の言いたいことを散々話してから、「先輩は、今どんなの書いてるの」と振ってきた、途端にこれか。
――顔に落書してやる、モンゴルマンに。
マジックを探した、ふっと思い出したことがあった。
テレビで全盲の落語家さんが話していた。
子どものとき、家に遊びにきた全盲の友だちの顔に落書きをした。ほんの悪戯だった。
詳しいことは忘れてしまったが、その友だちは、落書きを落とすことなく学校にいってしまった。
落語家さんは、とても後悔したという。
目の見えない人の顔に落書きをする。これは、悪戯ではいだろう。
悪戯とは、仕掛けられた本人が最後に気づいて、そこに「笑い」がなければいけない。
時間は夜中二時に近い。こっちも仕事だ、と思ったら急に眠くなってきた。いい加減酔っぱらったし。
「寝るぞ」独り言のように言って、トシに枕と毛布を放り投げた。電気を消して万年床に横になった。
意識はあっという間に布団の内側へと落ちていった。
翌朝、トシが出ていったのは覚えていた。
きっちり起きたのはそれからさらに一時間ほど経ってから。
鏡を見て愕然とした。額に「にく」の文字が。
――あいつめ。
「子ども扱いしやがって」
ミートくんなめるな!
しっかりと油性だった。自分が仕事に遅刻しないかどうか、それが心配だった。
井伊市中央図書館はアパートから車で三十分ほどの場所にある。
図書館に併設された第一駐車場には一時間しか車が止められないため、あまり長居はできない。
時間に制限のない第二駐車場というのが少し離れた場所にあるが、はっきりとした場所はマサキにとってはいまだ不明である。
一時間を待たず、「心理カウンセリング」などの本を数冊借りて図書館を後にした。
図書館から三輪町に向かって北に車を走らせていると、左手、東の空に白い山が見えてくる。浅真山だ。
その姿は白一色ではない。南側の斜面、白いコートのスリットの隙間から黒い山肌が露わになっている。
四月も下旬に入れば、そんなものだろう。
空気は春の息吹が濃いために見通しがさほどよくない。浅真山が霞んで見えた。
子どもの頃に比べて、白くなるのが遅くなっている気はしている。
子どもの頃は、十一月の半ばを過ぎれば白い姿で手前の茶色い山の上に乗っかっていたのに、今では十二月にならないとコートをきれいに羽織らない。
温暖化している証左だろうか。
「ハイマート、か」
ハイマートとは、スーパーマーケットなどの一種、ではない。ドイツ語で「故郷」というような意味である。
自身が「ハイマート」という言葉に与えたイメージが(あるいは「ハイマート」が自身にもたらすイメージが)、マサキは好きだった。
マサキが今住んでいるところは、今車で走っているところも、ほとんど故郷と言っていいような場所である。
呟いたハイマートとは、場所ではなく、思い出、「懐かしさ」とでも言おうか。
「人は、ハイマートを忘れて生きている」
車の中なら、何を呟こうと遠慮はいらない。どこで読んだかはっきりしないが、心に留まる言葉だ。
ただし、ある本の中で使われていたこの「ハイマート」は、また「故郷」とも「懐かしさ」とも違ったものを指していた。
ハイマートとは、「安心感を与えてくれるファクター」。懐かしさも、そこに含まれるか。
小学生の頃。母親と友だちとその母と四人でバスに乗ってこの道を三輪の町から井伊の街へよく遊びにきていた。
人間も変わるが、環境も変わる。自然も町並みも。
「土地の記憶」ということをテレビで芸能人が言っていた。
幹線道路や坂道は、現代の東京においても江戸の時代とそう変わらないのだという。
舗装したりするから、表面はずっと「同じ物質」ではないだろう。
人間もそうらしい。
ルドルフ・シェーンハイマーの「動的平衡」論。十年前に「私」を構成していた原子は、現在の「私」の中には一つもない。
生き物は代謝する。皮膚や臓器も含めて、壊れては作られている。
そういう意味で、道は生きている、と言っていいのだろうか。
環状線を横切り、第一病院の先を左に曲がると、道は途端に細くなる。そこで、バスに追いついた。
片側一車線ほどの広さで(中央線は引かれていない)、大きなバスとのすれ違いは、対向車には大きなプレッシャーになる。
バスは通るし、朝夕は高校生の通学路で自転車も多いという、車では走りにくい道だった。
バスがバス停で留まった。対向車がきていては、バスを追い越していくこともできない。
バスは、空いているように見えた。車で後ろにつきながらバスが「混んでいるな」と感じるのは、それこそ朝と夕方くらいだろう。
暫く後を追って、道を右に折れてバスと別れた。
両側の建物がすぐに途切れて、辺りは田んぼに囲まれる。この辺はあまり変わらない。
左手の田んぼの上を新幹線の線路が走っている。
大きな変化と言えばそれくらい。新幹線が通るようになったことよりも、妙黄の険阻な山並みが見づらくなったこと。
正面の春名山が、段々と大きくなっていく。
その日、夜の十時近かった。
思索が煮詰まった、というより、どうも集中力が途切れる。気分転換がてら、甘いものがふっと食べたくなって買い物に出た。
歩いて十五分ほどのところに二十四時まで開いている「マツコー」というスーパーがある。
物も安いし遅くまでやっているので重宝もするが、現実、コンビニは歩いて十五分の内側になく、マツコーは距離的にも一番いきやすい買い物場所だった。
買い物を済ませてて。
マツコーの前の県道を北に上がる。上がりつめると丁字路にぶつかり、右に折れれば渋河に、左に折れてさらに北上すれば春名山へとつながる。マサキ自身はそこまでいかないが。
マサキの横を車が、時折思い出したように北に南に走り抜ける。
白いビニール袋にはブロックチョコの袋とプリンが入っている。空には明るい星がまばら。
まばらな理由は、「春」だからだけではない。
東の空に寝待の月がかかった。煌々と輝く月の、黒い光が小さな星を飲み込んでいる。
!
光に浮かぶ黒い影。
宵闇よりも濃い黒に身を包んだ人がいる。マサキはゆっくりと歩いた。マサキは道路の左側の歩道を歩いている。そのほうがアパートに戻るのに都合がいいから。
男(この時点で、これは先入観だ)も左側にいた。腕に猫(これも先入観)を抱えている。
男の立つその場所は雑草が生い茂ったちょっとした小さな土の地面である。
猫を暗がりの中に置いた。屈んだその背中を、マサキは間近で見る位置に立っていた。
立ち上がり、手を合わせて軽く頭を下げる。黒尽くめでなければ、恐らく背後を素通りしていたであろう。
あるいは、〝この男〟でなければ。
「生き物を殺しながら、人間は生きている。食物だけじゃない。マウス、ラットなどは、ある場所で実験動物と呼ばれ、殺されるために生まれてきた。犠牲以外のなにものでもない」
独り言なのだろうか。男の声は、低く、まるで闇の密度よりも重たく沈んでいく。
立ち上がった身長は、百八十センチを越えているだろう。黒のパンツに黒のシャツ。
夜の闇の中で、隠れるというよりも自己の存在を何よりも主張している。声の感じ、雰囲気から、マサキと同年代と思われた。
「自動車に乗って、いや、ただ歩いていて動物を踏み殺すことだってある。それは、仕方のないことかもしれない。犠牲のための命を犠牲と言わない人間よりも、罪は少ないかもしれない」
神が存在しなければ、全てが許される。
逆だ。神が存在しなければ、そのときは最早何も許されない。ジジェクの書中の言葉。
ある意味で、科学者ほど神の存在を必要とするものはいないのかもしれない。
「大切なことは、命を奪って後、どうするかだ。道端に擲(なげう)たれた骸を見て心を痛める人間がいる。痛める人間も痛めない人間も、普段は、いつもは忘れて生きている。人は、『子』であることを、忘れて生きている」
言葉を聴くほどに、マサキの心が震えた。
それは恐怖。
マサキの存在を、認めた上で「消しているのか」。あるいは、男の目は首筋にでもついているのか。
マサキと男は、向き合っているのか。マサキはそこに立ち尽くしている。
いつから?
男の言葉の全てが、マサキの理解に届いたとは言えない。
まるで、自分の背中を見ているかのようだ。幽体離脱でもして、自分の魂が自分の背中を見ているかのようだ。
死んだという意識もなく死んでいるとしたら、これほど恐ろしいことはない。世界が暗くなる。月を雲が隠したか。
「魂などと言うつもりはない。肉体は、土に返るべきなのだ。そうは思わないか」
マサキを悲しみが包んだ。マサキは今、〝死〟んだ。
「誰だ、お前?」
男の呼びかけで、マサキは生き返った。恐怖はすぐにない。
「この近くに住んでいる。フリーターと言っていい」
「そうか。で、なにを見ている。猫の死体を片付ける人間が珍しいか、穢らわしいか」
男は少し顔を動かした。白く輝くであろう黒目はまだ見えない。
自分もたまに同じ事をする、あなたを見かけるのはこれが初めてではない。
口には出なかった。雑草に埋もれた黒い影を見つめる。
「こないだ、知り合いが部屋で飼っている猫を不注意で外に逃がしてしまった。その猫はアメショーだ。この子は、かわいそうな子だが、アメショーじゃないみたいだ」
「この近くなのか?」
「いや。その彼の猫は次の日に家のベランダで見つかった」
黒い男は、初めてこちらを見た。目と目が合う。瞳はやはり輝いていた。
「そいつは、よかったな」
マサキは、自分の右側が明るくなるのを感じた。月が戻ったらしい。
「よかった」言ったとき、男が笑った。マサキの笑顔、果たして、相手に笑顔と見えただろうか。
ほとんど半分に欠けた月が、草の上の「子」を照らした。満月のように明るい。黒い光を浴びて、影が、動いたようだった。
身長百七十六センチのマサキは男を軽く見上げている。見下ろす男の態度に威圧的な部分はない。
男は、自分をサイトの運営者であると言った。
曰く、道端に置き去られた猫や犬の死体を片付ける。
「サイトに場所と死体の写真が載ると、その場所に俺がいって片付ける。片付けると言っても、こうやって道端に除けるくらいだが」
言葉には澱みがない。
「始めたのはいつころから?」
「去年の夏頃だったか」
――自分が仕事を辞めた頃と一緒か。
マサキの右半身、男の左半身を照らして走る車から、二人は果たしてどう見えているだろう。
気づかないか。別になんとも思わないだろうか。
「けっこう写真があがるもんですか」
「写真はバンバンあがる、県外のもの、場所が書いていないものも多いが」
男は言いながらスマホの画面を見せてくれた。
「最初は自分で撮ってアップしてたが、数日で他の人も写真を上げ始めた」
なるほど、バンバンあがっている、ボロボロで道路に寝ている猫、口から何かを吐き出した猫、もはや猫かどうかわからないような猫。
猫以外の動物の写真もある。写真だから動かないのではない、猫や動物たち。
「悪趣味だという書き込みもある。それはそうだろう」
――それは、そうだろう。ならば、
なんでこんなことをしているのか。
マサキは、聞けなかった。ただ男の言うことを柔らかく聞いていた。
名前も、どこに住んでいるのかも聞かない。言わなかった。フッ、と小さく笑ったような気がした。
その笑みの意味は、マサキにはわかるような気がした。男は、黙ったまま動き出す。
サイト名すら言わずに去ろうというのか。
聞いていいものか。
マサキの迷う思考は、危うくバランスを保つシーソーのように、どっちつかず。
「そうか。サイトは」
その名は。
「リード・ハイマート」
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