循環-シルクレシオン-

一瀬サイ

プロローグ

 冬の滑り台は氷の様に冷たかった。わたしは棺桶の様にして膝を立て、それに寝そべっていた。ダッフルコートの中でやっと温まっていた身体の芯が、再び青くなっていくのを想像した。

 でも、家に帰るよりここに居たかった。

 自分以外誰もいない夜の公園は、まるでわたしだけの世界のようだった。それはそれは静かで時計が動く音すら聞こえてこない。

 携帯がコートの中で震えた。滑り台に密着していたせいか、バイブの音が静かな空間に反響した。

 わたしは目を瞑る。

 いっその事、ここで眠ってしまいたかった。そうしたらどうなるのだろう。この滑り台と同じような温度になるのだろうか。

 そんなことを考えていると、またバイブの音が反響する。今度はそれが繰り返しなる。電話だ。

 重い上半身を起こして通話ボタンを押す。

「いま何時だと思ってるの」

 落ち着いているが早口で話すのは、母だ。

「フラフラと意味のない時間を過ごして。少しは日向の事を見習ったらどうなの」

 日向とは出来のいい妹で、母がこうして言ってくることはいつもの事だった。

「貴女に言われる筋合いはないんですけど」

 母の事をそう呼ぶようになったのはいつからだっただろうか。わたし達の関係は氷の様に冷え切っていた。

「いい加減にしなさいよ――あ、おかえりなさい、あなた。今支度するわね」

 あの人が帰ってきたのだろうか。電話の向こうで楽しそうな声が聞こえてきて、わたしは電話を切った。

 これで、いいんだ。わたしが帰らなければ、あの家は家族だ。わたしが帰ることで、あの人とわたしが本当のそれでは無いことを無意識に認識してしまうのだから。

 手の中にある携帯が光った。

『早く帰ってきなさい』

 子供の力では離れられない。家族でいなければいけない。

 新しいものを必ずしも受け入れなくてはいけないのだろうか。それが、前へ進むということなのだろうか。前に、進めなければならないのだろうか。

 わたしは重い腰を上げ、制服のスカートを叩いた。身体は芯まで冷えていた。

 公園を出て、道なりに10分程行けば家に着く。左足の爪先に右足のかかとを付け、またその爪先に左足のかかとを付け、ちまちまと歩いていた。この時間に人はあまりいないから、こんなことをしていても奇妙な目で見られなくて良い。

何歩で帰れるかやってみようか。

 家は裕福だ。何一つ不自由はない。学校もわたし達二人そろって私立に通っている。塾も通っている。あの人もいい人なのだ。本当の娘ではないわたしにも、妹と変わりなく接してくれる。

 これを受け入れないのはわたしがいけないのだ。きっと妹がわたしだったらもっとうまくやれている。なにもかも。

「一旦全部なくなってしまえばいいのに」

 と、呟いた時後ろから何かにぶつかられた。

「あ、すみません…」

 自分がぶつかられたのにも関わらず、思わず振り返りながら言ってしまったことに苦笑いをしていると、左の腰辺りがじんじんと熱くなってくる。それは急速に広がっていき、やがてそこに心臓があるのかと言うくらいドクドクと力強く打つ。

 左手で触ってみると、温かいものがべったりと着いた。

 頭上の街灯が照らす左手は赤く、瞬間的にそれは血だということが理解できなかった。

「え…」

 今度は犯人が正面からぶつかってきた。下を見ると、自分の右腹に刃物が刺さっていた。刃物を持っている方の手首に、白いメモリのようなタトゥーが入っていた。

 刃物が勢いよく引き抜かれる。今回は痛みを感じた。地面に倒れこむ時、犯人が黒いフードを被っていることと、なぜかウサギのようだと思った。

 先程まで感じていた腰の熱さは痛みに変わり、腰と腹がとてつもない痛みに襲われる。

 冷たい地面に頬を擦り付け、反対側の目でせめて犯人の顔をきちんと見てやろうと思ったが、気持ちとは裏腹に視界がぼやけてきた。

 掌を返して、今では誰かにすがりたい気持ちでいっぱいだった。誰かに大丈夫だと言って欲しかった。

「お、……かあ……さ」

 視界が霞んできたのは涙のせいか、意識が遠のいているせいかわからなかった。

 

 そうして、わたしはあっけなく死んだ。

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