おわり
「多分だけど、アタリ」
私はただ、笑顔で返事をするだけだ。
そんなの私にだって分かりっこない。
彼女はそう、と微笑んだ。アタリ。それは賑やかな音楽の方を指しているのか、あるいは静寂な駅の向こう側を指しているのか。彼女はどちらと解釈しただろうか。
「あんた、どれが良い」
アタリなのでもう一本。新音ちゃんはお母さんにその権利を譲ろうとする。
「あ……いえ、私は別に」
「いいから」
「……じゃあ、小夜と同じものを」
ぼとん。今度はすぐに拾い上げ、お母さんにぽいと投げた。私との扱いが随分違う。眠っている間、二人に何かあったらしい。けれどやり取りの中で感じたのは、傷こそ残っていても敵対ではない。ならばまだ、掌を交わす希望は存在し得る。傷はやがて紡がれる。貴方と私はここにいる。私達は連続した対話の中で生きている。
新音ちゃんは玄米茶のペットボトルを一口飲んで、出口へと歩き出した。飲み物の趣向が意外にも渋い。
ロビーの窓から見えるのは、夜の静寂とその奥にある浮ついた街のネオンだけだ。また来ます、と頭を下げ病院を立ち去る中で、新音ちゃんは微かに呟いていた。
「小さな夜、美しい影、新たな音」
それは私達の名前そのものだった。
小さな夜に、美しい影は新たな音を齎した。何とも素敵な偶然だ。名前がそのまま私達の現状を表している。
もっとも、彼女は影よりももっと光り輝くものだけれど。どうせならお母さんの名前も絡めたいな。帆波、帆波……帆を張って、波を征く……とかだろうか。うーんうーん、と唸りながらコーヒーを啜る。
苦い。けれど、思ったより美味しい。
この味は貴方に届いているのかな。
病室に戻り、お母さんの希望でベッドが一台追加された。私のものとは異なり、キャスター付きの一般的な看護用ベッドだけれど、担架よりはずっと気持ちよく寝れるだろう。
面会時間を過ぎてしまったので、お母さんは一度帰ることになった。
病室には私と美影ちゃんとの二人きりになった。よぉくよぉく聞き耳を立てると、彼女の吐息がちゃんと聞こえる。
少しくすんだシーツが、彼女の首元まですっぽりと覆っている。まるで蓑虫みたいだ。明かりを落とすと、差し込む月明かりに照らされるそれは白色とも灰色とも言い得ぬ独特の色合いに染まった。
彼女は今も、あの駅の向こうで私の世界を耕しているのだろうか。私には分からない。けれどもしかしたら、また夢の世界で会えるかもしれない。
もしかしたらあの列車は環状線かもしれないから。ぐるっと一周してまた戻ってくるのかも。そうしたらまたホームで待ち合わせがしたい。
美影ちゃんは働き続ける。鈍色に光る満月のように、あるいは人間らしくあるがままに。
美影ちゃんは生き続ける。そばで見守る兎のように、あるいは寓話のように餅を突いて。
美影ちゃんは、私の兎さん。
誰にも知れず傍にいてくれる、私の命を支えてくれる、かけがえのない貴方。
「おやすみ、美影ちゃん」
生命を紡ぐ兎さんは、鈍色に光りながら眠り続ける。
―――――――――――――――――――――――
『生命の兎は鈍色に眠る』 了
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