生命の兎は鈍色に眠る

宮葉

Chapter 1: Moon Keeper

はじまり

 枯れ落ちた花弁を拾い上げて、窓の外へ投げた。七月の風は生温く、余り肌触りの良いものとは思えない。けれど私は空気を吸い込んで、その味をぎゅっと噛み締めた。


「おはよう、小夜さや


 今は午後三時頃だけれど、たとえ何時であってもそう話しかけると決めている。

 彼女は眠っている。あるいは目覚めている。その差異は私の目では判別がつかない。ただ目を閉じていることだけは確かだ。


「おはよう、美影みかげちゃん!」


 と、心からの笑みで私を迎えてくれることも無い。


 散らばった前髪を指先でつまみ、そっと綺麗な形に整える。ぴくりとも動かないものだから、時々生きているかどうか分からなくなる。

 だからその小さな身体を抱きしめる。心臓の音。擦れる肌の感触。小さく上下する胸。髪の毛の甘い香り。そして――これは小さな秘密。

 彼女は間違いなく生きている。それはそうだ、もしも死んでしまったら周りの人間が放ったらかしにしない。

 けれど不安にもなる。何せ去年の冬からこんな状態なのだから。


 彼女は天国への階梯に脚を掛けた。しかしその事に彼女自身が気づいていない。気づけるはずもない。階段があること、脚を上げていること、それらを彼女は知ることが出来ない。

 瞳も耳も鼻も舌も、みんな捧げてしまったはずなのに。金銀財宝は貰えなかった。ああ、地球を動かす脚本家はなんて意地の悪い奴だろうか。


 小夜。私を囚えて離さない少女。

 彼女は十五歳からこの病院に入院している。

 始めは目を。

 続いて耳を。

 そして鼻を。

 さらに舌を。

 最後に肌を。

 彼女は喪った。

 彼女はとことんまでに不幸へと堕ちてゆく。

 何よりも哀しいのは、その痛みを私が引き受けられない事。出来ることなら貴方こそが生きるべきなのに。

 小夜。私の大切な命は、五感の全てを喪ってしまった。



『生命の兎は鈍色に眠る』


―――^v――^v――^v―――

Chapter 1: Moon Keeper

―――^v――^v――^v―――

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る