(2)目的の山についたけれど、まずは温泉だ!

 夢で見た風景を探して旅をして、ついに「炎の冠山」までやってきた。

 しかし、思った以上に険しい岩山だった。しかも、どうやらゴブリンと思われる魔物の住処があって、山道を登っていくと確実に遭遇しそうな感じだ。


 山の頂上まで登れば、「さきのゆめ」で見た場所に辿り着ける。

 目指す場所に近づき、ようやく見えるところまで来たので、心躍るところもあるけれど、その前に乗り越えなればならない障害も多くて、気が重くなる。


 はてさて、どうしようか。

 あれこれ悩みながら周りを見回すと、街道沿いの少し先に、何やら看板が立っているのが見えた。


 看板に刻まれているのは、この地方特有の鶻文字。そして、もう一つ、都文字ではない、何か別の言語で書かれている。これは……?

 とりあえず、鶻文字で大きく書かれている文字を、うろおぼえの知識で読んでみる。

「ええと……。へ、ル、シ、ラ、ン、ト……」

 ヘルシラント。古地図には書かれていなかったけれど、「炎の冠山」の名前だろうか。それとも、このあたりの地名だろうか。


 しかし、それよりもわたしは、その下に書かれている案内文字の方に、視線を吸い寄せられていた。

 普段使わない文字ではあるけれど、こちらは字の形を見るだけで、嬉しくて頬が緩んでくるのを感じる。

 本当は辞書を片手に解読が必要なところだけど、そんな事をしなくても、すぐに内容がわかった。

 わたしの様な旅人にとっては、真っ先に覚えるべきで、頭の中に刻みつけられている言葉だから。


 酒場! そして、温泉!


 やった! これはいい!

 こんなところで巡り会えるなんて、なんて運がいいのだろう。山登りの前に、することができた。

「まずはお風呂とごはん!」

 わたしは、立て看板が示す方向に駆けだしていた。




 道すがら海岸の方に目を遣ると、どこまでも広がる海が見える。そんな雄大な景色の手前に、海岸沿いに広い石造りの水槽の様な施設が見えた。

(あれは……塩を作っているのね)

 こんな近くに塩田があるという事は、おそらく塩の相場も安いだろう。前の街にいる内に、手持ちの塩を銀貨に変えておいたのは、どうやら正解だった様だ。


 海岸沿いに立て札の示す道をしばらく歩いて行くと、石造りの建物があった。その向こう側は柵で囲まれている。

 目隠しの柵の向こうから、湯気が立ち上っているのが見える。屋根がないところを見ると、どうやら露天風呂の様だ。そして、柵の向かい側から波の音も聞こえてくる。どうやら海がすぐ近くにある様だ。これは景色も期待できそうだ。

 そんな事を考えながら、受付の建物に入っていく。



「いらっしゃい!」

 カウンターから、この店の主らしきおばちゃんが声を掛けてきた。

「温泉かい? それとも食事?」

 火の国独特のアクセントで、日焼けした顔で尋ねる。

「両方で……ええと、どれくらいになりますか?」

「そうさね、温泉の入浴代はこれぐらいで、あとはこっちが食事のメニューだよ」


 渡してくれたメニューを手に取る。旅人が良く来るためか、鶻文字だけでなく、共通語である都文字でもメニューが書かれている。これなら読める。

 更に、料理の絵まで描いてくれているので、注文には困らなさそうだった。

 それにしても、いろいろと美味しそうな料理が並んでいる。お腹が空いていたし、思ったより安かったので、ここは奮発して、ここでいろいろと食べていく事にした。


 ただ、その前に、まずは汗を洗い流してさっぱりしたい。

 食事の前に、まずは温泉だ。



「先にお風呂で。あ、タオルもお願いします」

「あいよっ!」

 銀貨を払って、貸しタオルを受け取る。

 フカフカな手触りで、石鹸のいい匂いがする。

「ここの温泉は良い景色だから、ゆっくり楽しんでいってね!」

 海辺にある露天の温泉。さぞかし気持ちが良いだろう。本当に楽しみだ。



 ……………



 わくわくしながら、脱衣所の籠にローブを脱いで放り込む。


 ポケットから取り出した映石を、荷袋に放り込む。服は勿論だけど、荷物は特に大事だ。映石がある以上盗まれる事はないけれど、それでも自衛してトラブルに巻き込まれないに越したことはない。外から確認できる、目立つ場所に置いてから脱衣所を出た。

 ただ、いつもそうなのか、それともたまたまなのか、他に使っている人はいないみたい。

 という事は貸し切りだ! 盗難を気にしなくて良いし、貸し切りの温泉は、人目を気にせずにのんびりできるので大好きだ。



 脱衣所の戸を開けて、露天の温泉に出た瞬間、わたしは目の前に広がる雄大な景色に歓声を上げた。

「わあ……綺麗!」


 海岸に面した場所に露天風呂がある。広がる温泉の向こう側に、透き通った青空の下、青い海が広がっている。

 海の向こう側には海岸線が続いており、遙か対岸にはカイモンの山が見えている。

 そして後ろを向けば、これから目指す「炎の冠山」が見えている。英気を養うには、もってこいの場所だ。


 露天のお風呂も広々としていて、透明な水面に青空が映っている。

 露天風呂の縁の向こうには海が広がっていて、まるで水に映る空が、そのまま海まで続いている様に見える。素敵な風景だ。

 この景色を独り占めできるなんて、なんて贅沢なのだろう。


 手桶で温泉からお湯を汲んで、身体に掛ける。程良い熱さのお湯が気持ちいい! ここまでの旅で流した汗が洗い流される様で、心地よい。


 備え付けの山胡瓜のタワシで身体を洗いながら、わたしは改めて周りを見回して、景色を堪能する。

 見渡す限り、良い景色だ。こんな景色を楽しみながら温泉に入れるなんて、最高だ。


 身体を洗ってさっぱりしたところで、ゆっくりと露天の温泉に身体を沈める。

「はあ、やっぱり温泉は最高!」

 温泉に入ると、この暑さも、ずっと歩いてきた疲れも吹き飛ぶようだ。

 お湯の温度は少し熱めだが、この夏の暑さの中だと、このぴりぴりとした熱さが、むしろ心地よく感じられるのが不思議なものだ。

 目を閉じて、耳を澄ましてみる。湧き出す温泉の音に加えて、海岸から聞こえてくる波の音。海岸沿いを吹く風の音が心地良い。


 お湯の中で、うんと伸びをして、脚を伸ばして揉みほぐす。ここまで長い距離を歩いてきた疲れが取れていく様だ。


 続いて、誰もいない事を確認して、そっと後ろ髪を湯船に浸ける。髪止めを兼ねている「髪の木」を浸して水分を補給しながら、わたしはそっとお湯を口に付けてみた。微かに塩味がする。塩分のある温泉なのだろうか。


 泉質を堪能する様に、お湯を掬っては身体に擦る様に掛けていく。気持ちいい。

 盛り上がりに乏しい胸には、揉みしだきながら、特に念入りに、何度も何度も擦り込む様にお湯を掛ける。こうしていると、温泉の効能で、いつか少しでも膨らんでくれるかもしれない。


「ふうっ……」

 しばらく湯の熱さを堪能した後、わたしは息を吐いて、眼鏡を外して空を見上げる。ぼんやりとした視界だけど、すばらしい青空が飛び込んでくる。


 首まで身体を沈めて、改めて海を眺める。

 真っ青な空、水面に映る空の青。そして、海の青。それぞれ微妙に違う色の青色が視界を埋めている。

 とにかく青い、青い空。雲一つ無く、空一面がわざとらしい程、と言っても良い様な澄み切った綺麗な青に塗りつぶされている。外を歩いていたときには、暑くて嫌になっていた空の色だけれども、こうして温泉の中から改めて見ると、何だか心を落ち着けてくれる様な気がする。

 探し求めている「赤に包まれた景色」もきっと綺麗なのだろうけれど、この一面の青も綺麗でとても素敵な景色だ。

 この光景は、映石に残しておきたい。荷物にしまい込んでしまっているけれど、あとで取り出して撮っておくことにしよう。


 改めて眼鏡を掛けて、景色を眺める。

 目の前には真っ青な空の下、海がどこまでも続いている。海岸線の向こう側に、カイモンの山が遠くに見えている。昨夜はあの山の麓で泊まったのだが、ずいぶん歩いてきたものだ。

 昨日は曇っていたけれど、今日は本当に天気が良い。カイモンの山には雲一つ掛かっておらず、頂上までよく見える。


「それにしても……」

 わたしは振り返って、改めて目の前に見える「炎の冠山」を見た。

 山の間近ということもあり、見上げないといけない程高い。

 目指すこの山の頂上に、夢で見た「赤に包まれた景色」があるのかは判らないけれど、少なくとも、あの場所から見る景色は、絶景で、さぞかし素晴らしいだろう。そう思えば、少なくとも行ってみて「損をする」事はないだろうと思った。

 ただ、問題はあの山の頂上まで、どうやって行くか……だ。


 今日は天気が良いという事は、この日射し、この暑さの中をずっと歩いて登らないといけない事になる。

 日射しを避けるために、日が傾いてから登るとすると、夜道での登山や夜営の問題が出てくる。

 更に、どちらにしてもゴブリンかオークが住んでいる様なので、対策も考えないといけない。

「どうやって登ろう……」


 考えを巡らせながら山を見上げていると、くう、とお腹が鳴った。


 そういえば、朝は携行食一つしか食べていなかったな。

 何をするにも、とりあえず食べてから、だ。

 お湯に浸かって、心身ともにすっきりした事だし……これからのことは、とりあえず、食べながら考える事にした。


 ……でも、その前に。

 もう少しだけ、景色を楽しんで行こう。


 湯船から出て、椅子代わりの石に腰掛ける。ほど良く身体を撫でる海風が心地よい。

 わたしはしばらくの間、石に腰掛けて景色を眺め続けていた。

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