第十八話 凍て付く心、凍りつく刻
~ 2004年8月19日、木曜日 ~
貴斗がICU室で眠りますこと三日、彼のご家族と主治医の調川先生の許可を特別に頂きまして、今彼の前に座っています。
どのような機能を果たしていますのか分からない計器類が貴斗の状態を監視していました。
いまだお目覚めする事のない彼の手をお握りする。
その彼の手からはいつも私に与えてくださいます優しい温盛を感じ取る事は出来ませんでした。
あの時、何も出来なかった私自身に凄く後悔してしまい自嘲の念に追いやられています。
どうして私はあの時、貴斗を置き去りにしてしまったのか?
何故、私は香澄の行動について行ってしまったのか、振り切れなかったのか?・・・でも、今はもう何をお考えしても取り返しのつかない状態になってしまっています。
今はただ、早く貴斗のお目覚めしてくださいます事を祈りつつお待ちする事しか適いません。
『コンッ、コンッ』と何方様かが扉をノックしてくる音がお聞こえしてきました。
「藤宮さんでしたね、来客の時間もう直ぐ終わりですよ」
その様に私にお声を掛けてくださいましたのは貴斗の主治医、調川愁先生でした。彼は春香の担当医でも在るのです。
「先生、貴斗は、貴斗は大丈夫なのでしょうか?」
「大変このような事を申し上げるのは恐縮ですが・・・、彼、次第です。医学とて万能ではないのですよ」
調川先生の言葉をお聞きしてしまい余計に落ち込んでしまった。
「藤宮さん、そう気を落とさないでください。万能ではないですが私達スタッフも全力を持って彼の回復に力を注ぎますから」
先生はそうお言いになってくださいますけれど、現状がなんら変わらなければ意味のない事です。
わたくしの気分はいかようにも変わらないのです。
~ 2004年8月22日、日曜日 ~
誰かが名前もお告げせずに貴斗の病室に現れました。
「そちらにいますのは何方ですか?」
暗い病室に光が逆行しましてよく確認が取れませんでした。
入り口付近におります誰かに私はその様に問いかけたのです。
「俺だ、八神慎治。貴斗の具合はどう何だ?藤宮」
声の主は八神くんでした。でも、どうして?ここは家族以外入室を認められてはいないはずですけど?私は特別、洸大様と翔子お姉様のお計らいで身内として扱ってもらっていました。
「出て行ってください。誰とも会わせたくありません、出ていてください」
何故そのような言葉を出してしまったのでしょう?
私にそのような権利などありはしないのに。それは唯、私が目の前でお眠りしています彼を独占したかっただけなのかもしれません。
「頼む、藤宮。貴斗の顔を拝ませてくれ!」
八神君は優しいお言葉で私にお頼みくださいました。ですが・・・。
「嫌です、帰って下さい」
お断りする権利などありはしませんのに・・・・・、今の私はまるで天邪鬼。
「頼むって、別にオマエから奪うって訳じゃないんだし」
八神君、そのような事を申さないでクダサイ。私が、私を惨めに思えてしまいます。
「分かりました、どうぞ」
やっと自分の気持ちを落ち着かせまして、正直になる事が出来ました。八神君が貴斗の前にお立ちになられます。ですけど、薄暗くて彼の表情をお読み取りすることは出来ませんでした。
彼はただジッと貴斗をお見詰めするだけ、それだけでした。
八神君と私に看護婦の声が届きますまで時間の流れと言いますものを忘れていました。
それから、八神君が先に退出して行かれました。
ドアからいくらかの光が差し込んできます。
彼のお顔が少しだけ見えました・・・・・・・?
八神君の頬が幽かに光っていたような気がします。
若しかして声をお出しにならないで彼は泣いていましたのでしょうか?貴斗のために?
~ 2004年8月23日、月曜日 ~
あれから、さらに一週間が過ぎます。彼は未だお目覚めする事がありません。
今日は特例で私以外の来客が来ているのです。その方々は好き勝手に会話をしていました。
「俺達、馬鹿だよ!コイツが何の考えもなしに行動する事、ありえる筈なのに」
「そうよね、何時でも貴斗、意味のない行動とる事、なかったもんね」
「いつかは誰かがやらなくちゃならなかった事。それは俺だったのかもしれない。コイツ、それを肩代わりしてくれた。なのに、俺はお前を・・・。聞えるか、貴斗!お前、俺の迷っていた気持ち、知ってたんだろ?だからっ」
今の私には彼等のお言葉が酷く耳障りでした。
「やめて、皆、お静かにしてください!貴斗、ゆっくり休めないじゃないですか」
彼等をお責めする事など出来る筈もないのに私の口からそのような言葉が出てしまっていました。
「しおりン」
香澄は私の言葉をお聞きして表情が沈んでしまうのです。
「わっ、わりい」
判らない、わかりません、今、柏木君と八神君、彼らが私に謝ってくださっていますのか?それとも貴斗に謝っていますのか。判断できないのでした。
「貴斗、また涼崎さんが眠っちまったって知ったら如何すんだろ?」
八神君が貴斗にいま最もお聴かせしたくない事を口にしてくれました。
ついムキになってしまい彼に罵声を投げつけてしまうのです。
本来でしたら、彼をお責めする事なんてできようもありませんのに。
「八神君っ、貴斗の前でその話しはよして!」
「ごめん、配慮なかった」
八神君のそのお言葉は私に謝ってくださるのですけど、余計に虚しく、胸が締め付けられるような思いでした。
「お願いみんな、私と貴斗、二人っきりにさせて、おねがい、お願い・・・・・・・、です」
貴斗と二人きりになりたかった。誰にも邪魔されたくなかった。ですからそのようなお言葉が自然と出てしまったのです。
「わかった、貴斗の事、宜しく」
私のそのお言葉で皆さまはお揃いになってここからお引取くださいました。
~ 2004年8月25日、水曜日 ~
今日は私以外に翔子お姉様がいらしていた。
「詩織ちゃん、自分をお責めにならないでください。貴斗ちゃん、アナタが悲しんでいることをお知りになりましたら彼、詩織ちゃん以上にお悲しみしますから」
〈翔子お姉さま判っています〉
と心の中でお答えを返していました。
分かっている?本当に?彼の何を判っていると言うのだろう、何を解ってあげられたのだろう?
「だから元気をお出しになってください。ネッ、詩織ちゃん」
「ハィ」と力なく口を動かしまして返事を返したのです。
その様な私を見兼ねてくださいましたのか?翔子お姉さまは私を抱き締め、言葉を下さるのです。
「ねぇ、詩織ちゃん。貴斗ちゃんの事、本当に大好きなら、本当に愛してくれているのなら。彼を信じてあげてください。貴斗ちゃんは元気になるって・・・、信じてあげて。詩織ちゃんなら、私も安心して大切な弟を任せられますから」
お姉さまは私にそう言って来ますと私の髪を慈しむ様、優しく撫でてくれました。
「翔子お姉様ァ~、ウッ、ウゥゥゥウゥゥウゥッ」
優しくしてくださいます彼女の行為に嗚咽してしまうのです。
貴斗、彼には翔子様といいます姉と龍一様という兄がいました。
歳が幾分お離れになっています所為かお二人方とも貴斗を過保護な位に大事にしていました。
彼はそんなお二人に対してたまに突っぱねる事もありましたけど、彼自身もお二人を尊敬し大切に思っていました事を私は知っています。
翔子お姉様と貴斗はそれ位強い絆で結ばれていました・・・、
彼が記憶喪失になる前は。
今の状態の彼を見て、表面的に平静を装っていますけれど内的には私以上に辛い思いをしています筈なのに・・・。
お姉様は私に優しい言葉を掛けてくださいます。それはとても嬉しい事、でも、それ以上に私は悲しいです。
~ 2004年8月26日、木曜日 ~
あれからもう十日が過ぎてしまっています。今日もまた私は彼の前に座って彼の手を握っているのでした。
春香が事故にお遭いになってしまいましてから、この病院に入院いたしました時の事を考えていました。
今になってようやくわかったのです、貴斗や柏木君のお気持ち。
似たような状況下に自分がおかれまして、当事者になります事で初めて気付きます、
分かる、
判ります、
解かりました、
理解するのです、彼等の心の奥底のお気持ち。ココロの痛みを。
貴斗、柏木君、二人とも本当に優しい人ですからどれだけその罪の意識に囚われていたのかご想像もつきません。
お二人がどれほどお悩みになりお心を傷つけていましたか。
柏木君は香澄といいます私の幼馴染みが彼をどうにかしましてお支えしましたから平常心をお取戻しになる事が出来ましたようで。
それでは私は貴斗の事をどれだけお支えで来たのでしょうか?
〈貴斗、私はアナタをお支えで来ていましたのですか?お答えになって〉
しかし、私のその心の問いかけも彼にはお届きするはずもなく・・・・・・・・・。
これ以上このような状態の貴斗のお姿を見続けていましたらワタクシは・・・・・・・・・、生きる意味を見失ってしまいそうです。
いつの間にか、小さく泣きながら私は寝てしまったようです。
暫くして、目を覚ますのです・・・、彼の手の温もりのなさに気付く、言い知れない不安と恐怖が込み上げてしまいました。
彼に取り付けられています無機質で機械的電子的な計器類を覗き込んでみました・・・!?
今、泣く事しか出来ませんでした、涙を流す事しかできなかったのです。
それ以外私に出来る事はありませんでしたから。
「詩織ちゃん?」
その様にお呼びする声がしました、私が知っています女の子の声、ドウシテ?
「エッ、春香・・・、ちゃんなの?どうしてここへ」
ここに現れた彼女を見まして、それしか口には出せませんでした。
春香は車椅子にお乗りになられていました。そして、それを押していましたのは彼女の妹の翠ちゃんです。
「藤宮詩織さんでしたね」
調川先生が名前を呼びましたので、それに小さくお返事をお返ししました。
「彼のご家族の方に連絡を取れるのでしたら、お呼びして下さらないでしょうか」
先生のお言葉が何を意味していましたのか理解しました。ですが
の中で私はそれを拒んでいます。
「ハイ、分かりました」
そう口にしまして、力なく貴斗の病室から出て行くのでした。
出来る限り冷静になりまして翔子お姉さまにご連絡を入れました。
洸大様には彼女からお知らせしますと言って電話をお切になったのです。
それから、三〇分後、春香と翠ちゃん、私、翔子お姉様に洸大様、それと、医師の調川先生。その一同が貴斗の病室へと集うのでした。
「揃いましたね」
調川先生は貴斗に取り付けてありました一つの計器から死亡時刻を読み取りお言葉にしましす。
「藤原貴斗、2004年8月26日19時27分、脳機能停止、及び心肺機能停止により、お亡くなりになりました。こちらも心苦しいのですが言葉を述べさせてもらいます。お悔やみ申し上げます」
「貴斗、貴斗、どうして?ウッ、ウウゥ!ねぇ、返事してよ、ねぇってば・・・、嫌よ。こんなの、いやぁーーーっ!御願いよ。返事をしてっ、私を・・・・・・、私を置いていかないでぇ、私を独りにしないでよぉぉおおぉぉおおおぉーーーーーーーーーっ!!!」
一番お聞きしたくないお言葉を調川先生から頂き、大声を上げまして、彼の手を強く握りしめながら嗚咽したのです。
今までも彼のベッドの前でずっと泣いていましたのに私のそれは枯れる事を知らないかの如く、いまだに私の頬を伝っていました。
「詩織先輩?酷いです、詩織先輩、泣かすなんて、酷いです貴斗サン・・・。何か言ってください、何とか言ってくださいよぉ」
「・・・・・・・・・、貴斗君」
春香は今も私の彼を名前でお呼びしていました。ですが、大きな声で嗚咽しています私には聞き取れませんでしたけど。
「お前までワシより先に逝ってしまうのか、答えるんじゃ貴斗ぉ!クウぅヲォーーーュぅさんぞ、赦さんぞ、神奈川の奴、ぶっつぶしじゃっ!」
「お爺様、馬鹿なことはお考えないでください。そんな事をしたら貴斗ちゃん、洸大お爺様の事お怨みになりますよ、キット!」
「だって、だって翔子よぉ~」
「お爺様、悲しいのは貴方だけではなくてよ、私だって・・・」
一同、貴斗、彼の死を深く悲しんでいるようでした。
それから暫くしまして、泣いています私に春香はどうして彼の事が判ったのか聞かされました。
それは春香の夢の中に貴斗が姿をお見せになったらしく、それで彼女はお目覚めになられたようでした。
春香は彼の事を心配なされまして、彼の所存を翠ちゃんに問いかけたらしいのです。
故、それをお知りになりました彼女は気がかりになられましてここへと参じて来たと申すのです。
春香は今がいつなのかを理解しているようでもありました。・・・・・・、どうして?
〈たかと、タカト、貴斗、ずるいよ。アナタは残される者の悲しみや、苦しみをわかっているの?私はタカトのこと大好きなのに・・・、こんなにも強く想っているのに、愛しているのに・・・〉
その様に心の中でお叫びする、しかし、今の彼にはその想いが届くはずもなく・・・・・・?
一瞬、握っていました彼の手がお動きしたような。
彼の方を覗いてみるのです。確認するかのように計器類も・・・、しかし、何の反応も示していません。でも、再び、彼の手が私の手を握り返してくださった様な気がしたので、願うように今一度、計器類を確認しました。
「・・・・・・・・・、調川先生!」
「どうかなさったのですか?藤宮さん」
先生は冷静な口調で、その様に聞き返してきたのです。
「せっ、先生見てくださいっ!」
その様に言葉にしまして、調川先生に計器類が再びお動きになりました事をお伝えしました。そして、奇蹟が起こってくださるのです。
「調川です、至急、クランケ、藤原貴斗の医療スタッフを遣してください。急いでください!」
先生はナースコールボタンを押すと医局にそうお伝えしまた。
私達は病室の外で待機するよう先生に命じられました。それから、お待ちすること約二〇分。先生が貴斗の病室から出て参りました。
「フッ、今回ばかりは私も奇蹟と言うものを信じたくなりましたよ」
先生のそのお言葉を聞きましてハッとなったのです。
「タッ、貴斗は?」
「貴斗ちゃんの容態の方は?」
「愁先生よ、わしの孫は無事じゃのか」
「先生?」
「貴斗さん、どうなんですか?」
私に続きますようにみな貴斗の事を案じてそう言葉にしたのです。調川先生は一目お置きになさいましてからお言葉を下さいました。
「脳波も以前の事が嘘のように安定しています。睡眠の欲求から開放されれば、今すぐにでも目覚めますよ。怪我の痛みに耐えられるか、どうかは分かりませんがね」
今までの精神疲労が吹き飛んでいきまして、私の表情に綻びができたのです。そして、調川先生はお話を続けます。
「これは、あくまで私の推測ですが彼の記憶、回復するかもしれません」
私は期待とよい方の意味での不安に心が包まれました。
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