第2話 依頼なのだ

 思っていたのと違う。先触れと実際が違いすぎる。

 赩炎きょくえんは祭壇に飾られた像とたるんだ体の獣を見比べた。


「これが……神獣だと?」

「うむ! 我が神獣・麗戌リーシェである!」


 赩炎の唖然とした言葉に、たるんだ体の獣、麗戌は胸を張って答えた。

 赩炎はその言葉に、もう一度麗戌をまじまじと見つめる。

 赩炎の知る限り、このように体の大きな獣が存在していると聞いたことがない。さらにこちらの言葉を理解し、言葉を返す知性もあるようだ。

 たるんだ体をしているが、ただの獣ではない。これが神獣だというのならば――たしかにそうなのだろう。

 行きついた事実に赩炎ははぁとため息を吐いた。


藍月らんげつ見ろ。これが我が国、碧煌国の神獣・麗戌だそうだ。……金暁宮が捨て置かれた理由がわかったな。俺は所詮、お飾りの『未断の皇帝』。神獣の力に頼れば、などと夢想したのが間違いだった」


 碧煌国の神獣・麗戌。鳴けば雷と嵐を呼び、その遠吠えは邪を払う。かつて神妖が闊歩していた時代に、人間に土地を与えた貴き獣。それが……このたるんだ体の獣である。

 力なき皇帝は麗戌に頼り、なんとか力を得ようとした。結果、神獣はこのような姿で……。

 ――情けない。

 金暁宮を訪れるまでに心を覆っていた苦しみの帳。それがより重くなったように赩炎は感じた。


「あの……それでは……もう帰られます?」


 暗い表情をした赩炎へと、おずおずと声がかけられた。

 茶色い髪に翠色の瞳。先ほど、麗戌に壁際に転がされていた少女だ。


「見た通り、金暁宮は破屋ですし、神獣もたるんでおります。皇帝……と神獣は言っておりましたが、そのような身分の方がいらっしゃる場所ではないです」


 少女はそう言うと、堂の扉へと近づき、開いた。


「お帰りはこちらで……」


 少女は赩炎が皇帝であると認識した上で……。事情を聞かず、堂から追い出すという選択をした。

 開けられた扉から夜風がそよぐ。

 その行動に麗戌はカッと目を開き、叫んだ。


「我が力を貸すといったのに、なぜ帰らせようとする!」

「どう考えてもめんどくさいです」

「少しぐらい! 少しぐらい遊んでもいいではないか!」

「めんどくさいです」


 淡々とした言葉。

 むぅと鳴いた麗戌は、のしんのしんと後脚二本で器用に移動し、少女へと近づいた。


彩澪さいれいはいつもそうではないか! だから我はこんな体になったというのに!」

「そんな私を選んだのは黄黄ファンファンです」

「だって彩澪がほかと毛色が違っておもしろかった!」

「では、その毛色を楽しんでください」

「彩澪~、彩澪~」


 彩澪さいれいと呼ばれた少女は、じとりとした目で麗戌を見つめる。

 麗戌――黄黄ファンファンと呼ばれた――は駄々をこねるように、ごろりと仰向けになり背中を床へと擦り付けた。その途端、堂の床がギチギチと鳴り、全体がぐらぐらと揺れた。


「黄黄、やめてください。本当に壊れます」

「この宮が壊れても、我は困らないからな! 寝起きができずに困るのは人間である彩澪だけだろう?」


 床で背中を擦るのをやめてほしければ、赩炎の話を聞け。

 その意がこもった黄黄の脅し。

 が、彩澪の表情は変わらない。


「そうなれば、私は出ていきます」


 金暁宮はいつ壊れてもおかしくない。そして、壊れたら出ていけばいい。

 彩澪にとっては至極簡単なこと。なので、導き出された結論を淡々と口にした。


「おい」


 その言葉に赩炎は目を剥く。

 金暁宮は後宮の宮の一つであり、後宮は赩炎のものだ。いくら力なき皇帝といえども、目の前で行われる会話は看過できない。


「待て待て待て」


 赩炎は思わず言葉を挟んだ。


「俺を無視するな」


 『未断の皇帝』だけれども。力はないけれども。さすがにもう少し気にするべきではないか。赩炎は素直にそう思った。


「あ、そういえば皇帝がここにいるんでしたね。今のは聞かなかったことに……」

「皇帝、今だぞ。反逆罪ということで、無理やり、彩澪に言うことを聞かせればいいではないか!」


 黄黄は押せ押せ! と赩炎をけしかける。

 しかし、赩炎は首を横に振った。


「……俺に力があればな」


 弱弱しい言葉。

 力なき皇帝はこの破屋のような金暁宮に住む道士一人でさえ、言うことを聞かせることができない。

 赩炎の押しの弱さに、黄黄はむぅと鳴いた。


「しかし、彩澪を説得できないことには、我は手を貸すことができないのだ」


 黄黄としては、赩炎へ支援をすることはやぶさかではない。が、それには彩澪の協力が必要なのだ。

 神獣・麗戌はその力の使い方を少女の意志に任せている。

 それは赩炎が金暁宮を訪ねる際に藍月から聞いたことと一致することだった。

 神獣の力を操るのは、金暁宮の主である道士なのだ。


「やはりそこにいる少女が神獣・麗戌の力を操る道士ということか?」

「うむ。我は力のある道士と縁を結び、碧煌国を守護するよう、盟約で決めておる。ここにいる彩澪は劉霊山で修業を積み、見事、我の目に留まったということだな」

「はた迷惑です」


 黄黄の言葉に、彩澪は淡々と返す。

 それに黄黄はむぅと鳴いた。


「我は契約を結んだ道士の精神に依存した姿になる。つまり『たるんだ体」は、彩澪の精神そのものの姿であるのだ!」

「そうです。私がたるんでいるのです」

「劉霊山で一番の怠け者だったからな! 普通は八仙を目指して修業をしているものなのに」

「寝る場所と食べるものさえあれば、それでよかったのに……。黄黄に見つかったせいで、こんな破屋に連れてこられました。めんどくさい以外に思うことはありません」


 道士は劉霊山で修業し、神仙へとなる。そして、道士の頂点として八仙と呼ばれるものたちがいた。

 力を認められ、劉霊山に昇山したものは、その八仙を目指し、自らの力を高めていくのが普通である。

 が、彩澪は道士として劉霊山に暮らしていたが、とくに目的もなく過ごしていた。

 八仙になりたいわけでもなく、力を求めてもいない。ただ暮らしていただけだ。

 道士としての怠惰さを、なぜか神獣・麗戌に面白がられ、金暁宮の主として連れてこられてしまった。


「二十代目の道士として、面白いと思った!」

「面白さで道士を選ばないでください」


 神獣・麗戌は真面目に道士を選んだわけではない。そしてまた、道士の少女も望んでいたわけではない。

 ここまでの会話で赩炎にもそれは理解できた。

 そのようなものたちに助力を頼みにきた皇帝。

 自分の状況に、赩炎の胸の腑がじくじくと痛んだ。さらに――


「ところで藍月」

「はい……っ」

「お前はなにを笑っている?」


 ともに金暁宮に来た、叔父の藍月。

 藍月は黄黄を見てからというもの、ずっと腹を抱えて笑っていた。


「まさか、碧煌国後宮の神獣がこのような体をしているとは……っ。これが笑わずにいられますか?」

「……そうだな」

「『未断の皇帝』、『たるんだ体の神獣』、『怠惰な道士』……っ。これが我が国の現状です。本当に愉快です」


 藍月が笑う度に黒い髪がさらさらと揺れる。

 本当に楽しそうに笑う姿には、赩炎への同情や心配は浮かんでいなかった。


「……味方ではないんです?」


 二人のやりとりを見ていた彩澪は思わず、そう聞いていた。

 ともに金暁宮に来たからには、二人は協力関係にあるのではないのか。


「……敵ではない」


 彩澪の質問に赩炎はそう答えた。


「ほかの者と違い、藍月は皇帝である私の立場をどうにかしようとしているわけではないからな。むしろ、皇帝としての立場があるのに、力のない私を面白がっているが故に手を貸してくれている」


 後ろ盾のない赩炎は常に微妙な立場にいる。

 自陣に引き入れようとするものもいるが、敵陣になるのならば、いっそ弑しようとするものも多い。

 常に皇帝としての立場を意識している中、藍月だけがそれを気にすることはなかった。

 赩炎に力がないこと。それを面白がっているからこそ、藍月が裏切らないと赩炎は考えているのだ。


「――だから、唯一、信用できる」


 そんな赩炎の言葉に、彩澪はなんともいえない心地がした。

 この皇帝は……赩炎はだれも信用していない。自分自身でさえも。

 力がない『未断の皇帝』。力がないことを面白がる人間しか信じられない。いや、それでさえも本当に信用しているとは言えないだろう。

 その皇帝が最後の頼みの綱として、この破屋のような金暁宮まで自ら足を運んだのだとすれば――


「……すこしであれば手を貸しましょうか?」


 めんどくさいが。

 だが、彩澪は気づけば、そう言葉を零していた。


「おおっ!! 彩澪!!」


 そんな彩澪の言葉に一番に喜んだのは黄黄だ。

 仰向けになっていた体を起こし、後脚二本で立ち上がる。そしてその短い前脚でぎゅうと彩澪を抱きしめた。

 ふかふかの毛皮とたるんだ腹が彩澪の頬に当たる。

 柔らかな感触に彩澪は仕方なく、ふぅとため息を吐いた。


「でかしたぞ、皇帝!!」


 黄黄は次いで、のしんのしんと赩炎へと近づく。そして、彩澪と同じようにして、ぎゅうと抱きしめた。

 彩澪より背が高い赩炎は、黄黄に抱きしめられると、ちょうど胸のあたりに頬が当たる。

 ふかふか。ふわふわ。もふもふ。ふんわりと香るお日様の匂い。

 赩炎は初めての感触に戸惑い……。温かく大きな体から逃れるように、黄黄と自分の間に手を突っ張った。


「……そもそも神獣であることは間違いないのだろうが、手を貸してもらってどうなるというのだ?」

「む、我の力を侮っているな? よろしい、では見せよう! 我の力を!!」


 赩炎の言葉に、黄黄は体を離し、ふんっと胸を張った。

 顎を上げ、視線の先は堂の窓の外。

 脂肪により首が短く、目も隠れていてほぼ見えないため、その姿は凛々しくはないが。

 それでも黄黄は威厳たっぷりに空に向かって、たぷたぷとした喉を震わせた。


「ひゃぁああん!」


 ……遠吠え?

 思っていたのと違う、か細く高い声。ところどころで息の音も入っていた。喉のあたりに脂肪がつきすぎて、声帯がうまく使えていない、間抜けな声だ。

 が、一瞬のあと、堂にある窓に光が走った。そして、轟いたのは――雷鳴。


「これは……」


 雷鳴は堂の窓から見える、一本の木へまっすぐに落ちた。途端、太い幹が二つに裂け、切断面からは火が上がる。

 生木は水分を含んでいるため、それ以上燃え上がることはなく、火は消えていった。残ったのは、先ほどと変わらぬ夜闇。

 目の前で起こった出来事に、赩炎はごくりと喉を鳴らした。


「どうする? だれに雷を落とせばいい? 人間が百や千かかってきても、すべて雷を落としてやるぞ」


 カカカッと黄黄が笑う。その度に腹がたぷたぷと揺れた。

 短い両脚にたるんだ体。だが、よく見れば、隠れていた目は怪しく紫に光っており、ニィと吊り上がった口から覗く牙は鋭く長かった。


 ――これはたしかに神獣なのだ。


 赩炎はぐっと唇を噛み、姿勢を正す。

 赩炎には解決しなければならないことがあるのだ。


「――玉璽ぎょくじを探して欲しい」

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