第70話 慟哭

(悟さん、急に押しかけたりしたらびっくりするだろうな)

 そうは思いつつ、悟の住む町の駅で下車した曉子は、駅前の洋菓子屋でチョコレートケーキを二つ買って商店街を日傘を差しながら歩いて行った。


 二か月前。


 悟の家に急に泊まると言って浴室で倒れた時のことを思い出し、一人赤面していた。

(あれは恥ずかしかったな。でも、悟さん、優しかった)


 なんだか自分でも想像して吹き出しそうになるくらいにニヤけた顔をしていた曉子は悟にもうすぐ会える、その想像で頭の中が一杯だったのだ。


 商店街の商店が尽き、普通の住宅街に変わった。


 悟の住む尾上家は商店街から続く一本道沿いにあった。


 築30年は経っているであろう日本建築の家屋には、バランスよく樹木が植えられており、ブロック塀で囲まれているごくありふれた家だった。


 門柱に取り付けられたインターフォンを押そうかと指を伸ばしたが、心臓の音が頭の中に響くほどに緊張は高まった。


(ここまで来たんだから。それに、悟さんと一緒に食べようと思ってチョコレートケーキも買ったんだし)


 曉子はそうやって心を奮い立たせた。


「ピンポン♪」

 軽やかに呼び鈴は鳴った。


 背後で、車が一台、二台と通り過ぎたが家の中から反応はなかった。


(あれ、悟さん。寝ているのかしら。だとしたら、こんな時間に来てしまって起こしてしまったら申し訳ないわ)


 そう思ったが、やはりここまで来たことが無駄になってしまうことが曉子には勿体なく思えてきた。


(もう一度だけ。呼び鈴を押して反応がなかったら、仕方ないから帰ることにしよう)


 そう心の中でつぶやきながら、思い切って二回目の呼び鈴を押した。


 十秒ほどだっただろうか。


 沈黙は続いた。


(やっぱり悟さん寝ているか、お仕事か何かで出かけているんだわ)


 曉子が伏し目がちに尾上家に背を向け、帰ろうとしたその時だった。


「はい、どちら様」

 インターフォンのスピーカーから女の声がした。


 同時に振り向いた曉子は、


(えっ、誰?)

 間違いはないはずだが、念のため曉子は門柱に埋め込まれた表札を確認した。


「尾上」と草書体で書かれた表札がそこにはあった。


「あっ、あっ、あの、私、東堂と申します。さ、悟さんは御在宅でしょうか?」


 一瞬だけ間が開いた後、

「サトル―、東堂さんだって」

 と、インターフォン越しの女は悟を呼んだ。


(だ、誰なんだろう……悟さん、私と会えなくなってからまさか……)

 不安だけが大きくなって、曉子はこれまでの軟禁状態の時のように心に薄い、そして不透明な幕が張られてゆくのを感じていた。


(これほどの絶望ってあるの? せっかく、お母さんが許してくれたのに。悟さん、どうして。どうして!)


 曉子の大きな瞳からは涙がとめどなく流れ出てきた。


 気が付くと嗚咽していた。

 周りには幸い通行人は居なかったものの、急に羞恥心が出てきて、曉子は洋菓子店で買ったチョコレートケーキを投げ出して、駅に向かって駆け出した。


(私はバカだ。いつまでも悟さんのことをつなぎとめることができるなんて、自惚れていたのよ。二か月も連絡が取れない女なんて、悟さんは悪く……ないわ)

 そう頭の中で考えて自分に対しても冷静を装うとしていたが、曉子の中には違う感情も同時に存在していたのだ。


(悟さん。なんで? なんでなの? あの時、『ぼくは、何度でもここに曉子さんとお付き合いさせていただけるようにお願いに来ます。そしてぼくが曉子さんに相応しい男だとわかっていただけるまで何度でも』って言ったじゃない! それなのに。なんで? どうして? 酷いわ。悟さん、裏切りよ!)


 つばの広い帽子を目深にかぶって泣き顔を乗客に隠して、曉子は電車を乗り継いで自宅へ帰った。


「あら、曉子。尾上さんとは会えたの?」

 無言で自宅に帰ってきた曉子の様子を観た母佐知は、曉子の明らかにおかしい様子を見て何かを悟った。


 佐知は何も言わず、曉子の肩を抱いた。


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