第67話 私、家を出ていきます!

「お父さん、どうしたの?」

 

(しばらく見ないうちに、こんなにやつれてしまって……俺の無関心がこうさせたんだ)

 宜史は心の底から自分が研究に没頭するあまりに佐知と曉子を蔑ろにしてしまったことがこの事態を招いたのだと悔いていた。


 しかしだ。


 このままで良い訳はない。


 佐知には申し訳ないが、曉子には罪はないのだ。曉子を救う。


 心にそう決めた。


「佐知、曉子をまず開放してやってくれ。曉子の若いころというのは、二度と戻らないんだ。自由にさせてやって欲しい」


「何よ! あなたは私の若いころを奪って、曉子の育児を私ひとりに押し付けて、それで曉子にはいい顔をして私から曉子を奪うっていうの?」


「そうじゃない。曉子は立派な一人の大人の女性だ。いつまでも君の支配を受けて、心身ともに不自由な束縛を受けるのは後々この子に大きな影を落とすことになるんだ。分かってくれ。佐知」


 曉子は二人のやり取りを黙って聞いていたのは、二人の言い分のどちらも自分のことを慮ってのことだと理解していたからだ。


 佐知も自分の行いが必ずしも正しいとは思っていないようだ。後々大きな影を落とす、という宜史の言葉が佐知の心に突き刺さり攻撃的な反論ができなくなっていた。


 黙っている二人を前に、宜史は居心地の悪さを感じて沈黙を破った。


「では、俺はどうすればいい? 君から若いころの時間を奪ってしまったことについては本当に済まないと思っている。どうしたら償えるのだろうか?」


 佐知は答えに窮していた。

(償う? 何を? 何に? わからないわ。私はどうしたいのかしら)


 すると曉子は立っているのが疲れたのか、食卓の椅子に座って言った。

「お父さん、私はお母さんが必死に私のことを守ってくれている事はちゃんと理解しているんだよ。ただ、嘘をついてお母さんの言いつけを守らなかった私に罰を与えているんだと思っているの」


「そうなのか?」


 悟とデートをして、勢いで泊まる決意をし、嘘をついたことをを佐知は宜史に話した。


「あははは」

 宜史はそれを聞いて笑い始めた。


「何が可笑しいの? 一体どういうつもり?」


「いや、ごめん。少し俺たちが結婚する前のことを思い出したんだ」


「え……?」


「君も、そのころ同じようなことをしたよね」


 佐知は真っ赤な顔をして俯いた。


「お母さんが? 本当に?」


「曉子はだまってらっしゃい」


 宜史は微笑みを湛えて曉子の座っている方に向き直した。


「ああ、お父さんがまだ会社員だったころ、お母さんと出会ったんだ。お母さんは僕の会社の取引先の重役の秘書だったんだよ」


「本当? そんな話初めて聞いたわ」


「お父さんはお母さんの会社の担当営業だったんだ。そう、尾上くん、だったかな? 彼と曉子、お父さんとお母さんは似たような立場だったんだ」


「ウソみたい! お母さん、本当なの?」


「ええ。そうよ」


「ある日、お母さんと二人でフランス文学の古書を探しに神田界隈に出掛けたんだ。その後、お母さんはお父さんの部屋で本を読みたいと言って」


「ちょっとあなた! その話は」


「それで、それで?」

 曉子の瞳は好奇心で満ち溢れている。


「お父さんには、その……心の準備ができていなくてだな。その日はお母さんの実家に連れて帰ったんだ」


「もう! やめてよ」

 佐知の抗議もむなしく、宜史の話は続く。


「お母さんのお母さん、つまり亡くなった曉子のおばあちゃんが血相を変えて怒ったんだ」


「お父さんに?」


「いや、お母さんにだ。『そんなことを』、みたいな感じでね。するとお母さんは……」


「もうやめてって言ってるでしょう‼」

 佐知は真っ赤な顔をさらに紅潮させて宜史が話すのを止めさせようとした。


「『私、家を出ていきます!』って啖呵を切ったんだ。それでおばあちゃんは、お母さんの本気さが分かったみたいでね。交際を許してくれたんだよ」


 曉子は楽しそうにその話を聞いていた。

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