トラウマを抱えるアラサーサラリーマンが年下の妖精と付き合う話~ぼくと彼女の14か月間
Tohna
衝撃の出会い
第1話 ぼくはハートを射抜かれた
「いえいえ、このご要望は吞めません。 第一、当社のメリットがありません」
「お宅のメリットなんて知ったことじゃないよ。やってもらわないとこっちが困るんだ」
「いいですか、吉永部長。いつから私どもが御社の奴隷になったんですか? これはビジネスです。奉仕ではありません!」
胃がキリキリとしそうな交渉中、僕は一瞬だけ会議室の外に目を遣った。
埒が明かない交渉に正直うんざりしたからだ。
先々週までは桜が咲いていたのだが、すっかり散って葉桜になっている。
ここ、取り引き先の岩田電産は中堅どころの半導体メーカーで、いま僕が交渉している相手は業者泣かせで有名な購買部の吉永部長。
僕の仕事は半導体ウエハーという半導体の材料を製造・販売する会社の営業。
吉永部長とは新人の頃からのお付き合いなのでかれこれ七年になる。
そう、僕はまさに今年三十歳を迎えるアラサーど真ん中のサラリーマンだ。
吉永部長が業者泣かせなことは間違いないが、誠意をもって条件を提示すれば、それにきちんと「数」で応えてくれる。
僕は先輩がアプローチしていて歯が立たなかった岩田電産を引き継いだ。
先輩は吉永部長のやり方が分かっていなかったので対応が拙く、ついに入り込むことができなかった。
それが、いまや
そのお蔭で僕は社内で「若手の有望株」として見られるようになった。
吉永部長とは交渉で切った張ったをする間柄だけど、一方では信頼し、信頼されている。
個人的な相談だって受けることもある。
とにかく僕をここまで引き上げてくれた部長には脚を向けて眠ることなんて絶対にできない。
それなのに僕に岩田電産を引き継いだ先輩は、
「まあ岩田電産は、オレが育ててアイツに引き渡してやっただけなんだからな」
と吹聴しているらしいが、誰も信じていない。
ともかく、今日の交渉は時間切れで物別れに終わり、僕は挨拶をして辞去することにした。
しかし今日の吉永部長はいつもと違って本当に強引だった。
「お宅のメリットなんて知ったことじゃない」なんて台詞は、今まで一度も口にしたことはなかったはずだ。
ついつい、僕も生意気なことを言ってしまった。
社に帰ったら、直ぐに電話で謝ろう。吉永部長は気分の悪い人ではないんだ。
受付で入門証を返し、エントランスを出ようとした刹那、後ろから呼び止められた。
「あのーっ! 関東テクノスの
――吉永部長のアシスタントの人か。
新卒で入ったばかりとかで、今日初めて交渉に同席していたけど、交渉に口を出すことはなくひたすら下を向いてノートを取っていたな。
「は、はい。なんでしょうか?」
「これ、忘れていますよ⁉」
彼女が差し出した手には、僕のポケット手帳が握られていた。
「えっ、どうもありがとうございます。いや、こんな大切なものを忘れていたとはヤバイな」
実際かなりヤバイものだった。
他の取引先の条件やら、今日の交渉の最終着地条件とか諸々が書いてあるからだ。
もっとも、僕にしか分からないように暗号化された書き方をしているので一目瞭然という訳にはいかない。
それでもこれは失態だ。
自分の犯した失態に目を白黒させていると、その彼女が笑って話しかけてきた。
「あんな感じで吉永部長と張り合うお取引先と、初めてお会いしました。尾上さんってすごいですね」
僕はまじまじと彼女の顔を見た。
交渉中は殆ど顔を上げなかったし、紅いフレームの眼鏡をしているのでそこにばかり注意が行って表情はよくわからなかった。
でも、今改めて見る彼女の顔は、そう、――美しかった。
たれ目の大きな瞳、潤んだ唇。
鼻の形なんてとんでもない美しい造形だ。
髪の先を緩くカールさせた長めのボブは、アッシュグレー。
サンドベージュと白のボーダーのタイト気味なカットソーは彼女のスタイルの良さを隠せない。
赤いネックストラップにぶら下げられた社員証は運よく表がこちらを向いていた。
「Akiko Todo」と、書いてあった。
そうだ。――東堂さんだ。
確かに紹介はされたけど、彼女は名刺をまだ持っていないとかで商談中に忘れてしまっていたのだ。
「どうかされました?」
彼女の声で僕は我に返った。
「いえ、本当にありがとうございます。中身を吉永部長に見られたら本当にやばかったです」
すると彼女はいたずらに笑った。
「吉永部長、隅々まで見てから尾上さんに返すように言ったんですよ」
「ほ、本当ですか⁉」
彼女は笑ったまま、
「そんなこと、しませんよ。冗談です」 その一言に僕は救われたが、一方では彼女にちょっと仕返しをしたくなった。
「僕なら中身を見ますね。東堂さん、僕はそのつもりで次回は交渉に望みますからそのように部長にお伝えください」
彼女の視線が僕に刺さる。
目が合った。すると彼女の表情は華やかに咲いた。
「私の名前、憶えてくださったんですか? 嬉しい」
どういうことだろう。僕は意地悪をしたつもりだったのだ。
それなのにこの
心臓を何かに射貫かれたように、僕はすっかり東堂さんに心を奪われてしまったのだ。
「あの、東堂さん。部長に今日失礼なことを申し上げてしまったので、後ほどお電話を掛けたいのですが、部長のご機嫌が良い時を見計らって掛けたいのです。東堂さんに電話をして、そのタイミングを知れたらなーと思うんですが……」
もっともらしい事を言って社用とはいえ電話番号を聞き出そうとする姑息な僕。
「さきほど名刺はないとおっしゃっていましたので、電話番号をこの手帳に書いていただけないでしょうか?」
東堂さんはニコリとして僕の手帳を手に取り、持っていたペンケースからイエローのLAMYの万年筆を取り出した。
「はい、どうぞ。お電話お待ちしていますね」
彼女の字も絶対に可愛い。声だって可愛い!
手帳を受け取ると、僕は平静を装って挨拶をし、背を向けて出口に向かったが何度か彼女に振り返ってその度にお辞儀をした。
このチャンスを見逃すことなんて絶対にできないぞ。
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