二の三 妖夢

 夜半過ぎ、沙智は目を覚ました。

 板間に体を横たえて眠るなど、いつぶりだろう。思い返してみれば、最後に横になって眠った時は龍に襲われたその夜だった。以来、冷たい土の上に寝転がって落ち葉の間にもぐるか、筵にくるまり、龍の襲撃におびえながらの夜を過ごしてきた。

 火を通した食事も久方ぶりだった。あたたかい食物を大勢で取り囲んで口にする。歌名女は母さまを、曽久は父さま、叉和は婆さまを思い出させた。みんな、いなくなってしまった。

 急に母さまが恋しくなった。

 沙智は起き出して歌名女のもとへとむかった。

 廊下に足を踏み出したところで沙智は身構えた。闇が動いている。

 目をよくよく凝らしてみると、黒い影の正体は歌名女だった。ほっと胸をなでおろし、声をかけようとしたが、ためらわれた。何だか歌名女の様子がおかしい。魂が抜けたかのようにふらふらとした足取りである。

 歌名女は吸い込まれるようにして叉和の書院へと入っていった。珍しい物が置いてあるとかで、むやみやたらに入ってはいけないと言い含められたその部屋だ。書院に入ったきり、歌名女はなかなか出てこなかった。夜更けに書院に何の用があるのか。

 待つつもりだった沙智はしびれを切らした。声掛けをしようと襖を開けようと手をのばしかけて沙智は踏みとどまった。部屋の中から人の声が聞こえてきた。歌名女の声である。小声でよくは聞き取れないが、誰かと話をしているようだった。

 しばらくすると今度はすすり泣きが聞こえてきた。歌名女が泣いている。

 なんで泣いているんだろう。話し相手に嫌なことでもされたか、言われたかしたのだろうか。好奇心にかられ沙智は襖をそっと開け、隙間から中を覗き込んだ。

 灯りに照らし出されて見える姿は歌名女のものだけである。唇が動いている。誰かと語り合っているようだが、書院の中には歌名女の外には誰も見当たらない。

 よくよくみてみると、歌名女は胸に鬼の腕を抱えていて、その腕に向かって話しかけては笑ったり、泣いたりしているのである。

 沙智は息を押し殺し、耳をそばだてた。「恋しい」だとか「待ちわびていた」「寂しかった」といった言葉がようやく聞き取れた。何故、鬼の腕にむかってそのようなことを言っているのだろうか。

 不思議に思っていると、歌名女の胸の間で鬼の手が動いた。

 理津のように歌名女も絞め殺される。

 助けないとと思ったものの、恐ろしさのあまり体が動かなかった。

 鬼の手は歌名女の襟を開き、するすると着物の下へもぐりこんでいった。心の臓をえぐりだそうというのか。

 歌名女が苦しそうな息で喘ぎ始めた。

 乱れた襟元から歌名女の豊かな乳がこぼれ落ちる。歌名女の白い肌の上をおぞましい鬼の手が這っていき、にぎりつぶさんほどの勢いで乳房をつかんだ。歌名女の息がさらに荒くなった。鬼に乳房をにぎりつかまれて痛いはずの歌名女だが、苦しそうではあるものの鬼の腕を引きはがすわけでもない。鬼の腕に怯える様子もなく恍惚とした表情さえ浮かべている。

 様子が普通ではない。何かに――鬼に憑りつかれてしまったように惚けている。放っておけば歌名女は鬼に殺される。どうにかして助けてやらないと、と気が急いたものの、沙智ひとりでは怖くてどうにもしようがない。

 そうだ、伊佐那を呼ぼう。

 後ずさった拍子に床がきしんだ。

「誰ぞ!」

 振り返った歌名女は鬼の形相だった。目は血走り、口が耳元まで大きく裂けている。ぬらりとした唇の間からのぞく歯はするどくとがっている。

 食われる。

 沙智は一目散に部屋に逃げ帰った。

「伊佐那、伊佐那! 起きてったら!」

 伊佐那は高いびきで眠りこけていて、何度揺り動かしても起きなかった。

 ふと、襖のむこうに人の気配を感じた。歌名女が、いや、鬼の女が追いかけてきたのだろう。

 沙智は夜着を頭から被って伊佐那のすぐそばに横になった。

 すうーっと襖が音もなく引かれた。部屋の中にそれが入ってきたような様子はなかった。にもかかわらず、夜着を隔てたすぐ近くにそのものの気配を感じる。沙智は夜着にくるまってかたく目を閉じていた。何かが、伊佐那と沙智とが寝ているかどうかを確かめている。

 伊佐那が寝がえりを打ったと同時に、風にでも吹き飛ばされたかのように気配はふうとかき消えた。

 まんじりともせずに沙智は夜を過ごした。いつまた「あれ」が戻ってくるやもしれない。眠ったら殺される。眠ってはいけない……。

 一番鶏の泣き声に、沙智ははっと目を覚ました。気が張って目が冴えていたはずだったが、「あれ」を見たくないあまりに目を閉じていていつの間にか眠ってしまっていたらしい。

 隣には伊佐那が寝ている。就寝前と何ら変わりのない様子に、沙智は果たして自分は夜中に起き出したのだろうかと疑い始めた。昨夜の出来事は夢だったのではないか。

 悪夢を見たのだとしたら、鬼の腕を抱えてなお歌名女が無事であったこと、歌名女が見せた鬼の形相、沙智に襲いかかろうとしていたことの説明がつく。あんな恐ろしい経験が現のものであったはずがない。夢だったのだ。そうとわかると恐怖心が解けた。

 夢だったのだ。

 襖の隙間から漏れ入る一筋の朝の光に、沙智はすがすがしい気持ちになった。



 朝餉を取りながら、沙智は歌名女の様子をそれとなくうかがった。

 歌名女は昨日と変わりない。目も血走っていなければ口も裂けていない。優しい笑顔を浮かべ、沙智にもっと食べなさいと勧めてくれる。やはり、あれは悪夢だったのだ。

「どうして、さっきから私の顔をじろじろ見ているの?」

 あまりにも歌名女を見てばかりいたため、しまいには怪しまれてしまった。

「歌名女は器量よしだなと思って」

 沙智はとっさに言いつくろった。

 実際、歌名女は器量よしである。抜ける様に白く肌理の細かい肌、つぶらな黒い瞳、野苺のような小さいながらにふっくらとした唇。まるでどこかの姫さまみたいなのである。

「沙智も大人になったら器量よしになるわ」

 そう言って浮かべる笑顔がまた可憐だ。

「あたいはおかみとになるんだ、伊佐那みたいな」

「伊佐那さん……。私、あの人が何だか怖いわ」

「伊佐那が怖い?」

 確かに、伊佐那は女子に好かれる優男ではない。口は悪いし、気性も荒い。刀の腕は恐ろしいほどたつし、龍に対しては容赦ない。それこそ鬼の形相で、龍にしてみれば伊佐那は恐ろしい人間だろう。だが、歌名女は龍ではないのだから、伊佐那を恐れる理由がない。初対面の時から歌名女は伊佐那を恐れ、避けている。よそ者だからだろうかと思うものの、沙智もよそ者だが、歌名女は沙智には優しい。

「歌名女、すまないが、伊佐那に伝言を頼まれてくれないか」

 叉和がやってきた。伊佐那の名を耳にし、歌名女はその美しい眉をしかめた。怖いと感じている伊佐那のもとになど行きたくないのだろう。

 「あたいが行く」と沙智は言った。歌名女の険しい表情がとたんにゆるむ。

「で、伝言って何?」

「では、沙智に頼むとしようか。今日、明日にでも腕移しの施術をする予定だったが、鬼の生気がちっとも抜けない。別の日になりそうだと伝えてきてくれないかね」

 伊佐那はおそらく鍛冶場だろうと叉和に言われ、沙智は水車小屋を目指した。水車小屋の隣にある土壁の小屋が曽久の鍛冶場だ。

 開いていた戸口から顔を入れて中をうかがうと、いるはずの伊佐那の姿はなく、曽久がひとり黙々と刀を研いでいた。シャッ、シャッと小気味よい音がたっている。

 沙智は興味を引かれ、曽久の手元に見入った。研ぎが入るたび、刃は不気味な輝きを増していく。

 研ぎの様子を確かめようと曽久が刀をかざした。

 刀身にすっと影がさしこんだ。影とみえたものは刃に浮かんだ紋様だった。騒がしい――沙智の頭にイの一番に浮かんだ印象だった。風にもてあそばれてあちらこちらに揺らぐ柳の葉を思い起こさせる紋様だ。

「『野火』を研いでいたんじゃなかったんだ」

「これは新しく打った刀だ」

 柳の葉のような紋様だと言うと、曽久は満足げな表情を浮かべてみせた。

「沙智は、かまいたちというものを知っているか」

「人に切りつけてくる風のことだろ」

「そうだ。その、かまいたちのような切れ味鋭い刃を打ちたくてな。何度も何度も試しては失敗して打ち続けた。ようやく、これならというものが出来たんだ。持ってみるか?」

「いいのか」

 沙智は小躍りしながら、刃を持たせてもらった。まだ柄も鍔もない。生身の刃だ。刃を手に取ってすぐに常の刀とは違うと気づいた。軽い。野火は重々しく、山中で伊佐那から渡された時には果たして使いこなせるかと不安になり、獣を切る前におのれを切ってしまいそうだと危ぶまれたが、曽久の新しい刀は羽でもつかんでいるかのようだった。

「伊佐那がな、切れ味鋭くかつ軽い刀がいいというのでな。いろいろ試していたんだ」

「確かに軽い。あたいでも楽に使える」

 沙智は見よう見まねで覚えたふりで刃を振り下ろした。ヒュンッと音がたった。その音ですら鋭い。

「刀を振り回すなんざあ、百年は早いわ」

 伊佐那が戸口に立っていた。手に抜き身の「野火』を提げている。

「どうだった」と曽久が尋ねた。

「試しに竹を何本か切ってきた。いい感じだ」

「これからは大事に扱ってくれ」

 曽久の注文を聞き流している伊佐那の目は沙智が手にしている新しい刀に注がれていた。

「前から言っていただろう。軽くて切れ味の鋭い刀を打ってくれと。試しの一本だ。これはなかなかにいい出来だ」

 伊佐那が沙智から刀を取り上げてしまった。矯めつ眇めつ見ていたかと思うと、伊佐那は「風牙」と呟いた。

「これは『風牙』と名付けよう。風のように軽く龍を切るだろうからな」

「まずは母さまに腕をつけてもらえ」

 曽久の一言で、沙智は鍛冶場に来た目的を思い出した。

 叉和に言われた通りに施術の遅延を伝えると、伊佐那はとたんに不機嫌になった。

「生気が抜けないってなあ。浸ける酒の量が少ないのじゃないか。叉和の婆あ、鬼の腕を浸ける酒をこっそり飲んでんじゃねえの?」

 歌名女の精気を吸ったからではと言いかけそうになって沙智は口をつぐんだ。

 あれは夢だったはずだ。鬼の腕に苛まれて平気でいられるはずがない。その証に、今朝の歌名女は常と変らなかった。

 あれは夢だったのだ……

 夢にしては生々しく、そしてなまめかしくもあったのだが……。

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