タイム
思わずわたしは3回中指で押す。『戻れ』。
2021年、9月の終わりごろ。出勤途中に音楽を聴いている。最近完全ワイヤレスイヤホンを買った。パナソニックのもので、10円玉大のイヤホンだ。マットな黒のボディに馬蹄のようなグレーの金属を縁取っており、性能よりもその無骨でクールな見た目にやられた。
完全ワイヤレスは初めてだったが、面白い機能がいくつかあった。その1つがコマンド。イヤホンの表面をタップすると、命令が下せる。
2回押すと、『進め』。3回押すと、『戻れ』。
音楽のサブスクリプションを自動再生していると、思わずはっとさせられた。
———何? さっきの曲…
思わず3回タップした。ケータイを取り出して、曲名を確認する。宇多田ヒカルの『Time』。もう一度歌詞を確認した。
♪
大好きな人にフラれて泣くあなたを
慰められる only one ある幸せよ
だけど
抱きしめて言いたかった、好きだと
時を戻す呪文を胸に
今日もGo
慰められる唯一の存在である「幸せ」…か。今書いているのが『楽しい話をして』という話だ。そうだ、その時はうれしくて仕方なかったんだよね。あの電車、遅延でも脱線でもすればいいと思ってた。
初めはこの『異星人つばさくん』は3話ぐらいで終了する予定だった。何故ならあんまり書く内容がないと思っていたからだ。翼と何かあった訳でもないし。ただ、書いてみたら意外とその当時考えてたことをするすると思い出していった。そして、コメントを読んでくださる方の様々な意見を聞いて、書いている自分でさえも気が付かない、当時のことがだんだん解ってきた。まるで時を戻すみたいに。
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『緊急事態宣言を解除します』
「お、解除されたんだ」
テレビ画面の中の99代首相が映り、そのテロップを凝視した。
新型コロナウイルスの緊急事態宣言解除。ワクチン接種済み。
「ふーん。人と会えるようになるんだね」
あつ子が豆乳ティーを手に持ちながら言った。わたしは誰に会いたいのだろう。
これを皮切りにわたしはマッチングアプリを始めた。わたしのような芋でも奇跡的にマッチングする人はいた。そして、そろそろデートかとなると、あることに気がつく。
わたしはデートに自分から誘えないことに。
それは翼と卒業してからのある出来事が深く関わっていた。どうして自分が、翼が、そんなことをしたのか。今更疑問に思い始めた。いや、そう書いたら2人の間に何かあったみたいだが、2人の間には何もやましいことは起こってないのだ。それどころか何も起こってはいない。
人は簡単に会えなくなる。コロナになってわかったことだ。またいつ緊急事態宣言が発令するか解らない。わたしももう新しい恋愛をしたい。なら、その謎を一つ解いてみようか…?
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♪
友よ
失ってから気づくのはやめよう
時を戻す呪文を君にあげよう
『Time』が頭の中で流れる昼下がりのオフィス、わたしは覚えたての仕事を間違えない様にゆっくりすすめていた。
「一宮さん、お疲れ様」
「お疲れ様です~」
おじさんが来た。会社のおじさんは定年退職後、こちらの会社で働いている。この分野でわからないことが多く、また以前働いていた会社がブラック企業だったので、普通の会社員の感覚が中々掴めないでいた。そんな中でこのおじさんがわたしに仕事のやり方を教えてくれている。まるで映画『マイインターン』のロバート・デニーロのような頼もしさだ。
「一宮さん、コーヒー飲む? これ缶コーヒー、さっき得意先と打ち合わせだったんだけど、相手さんもコーヒー持って来て余っちゃった」
「そうなんですか、じゃあいただきます」
ロバートおじさんが黒色の缶コーヒーを差し出す。
「無糖だけど」
「甘いだけのより好きですよ」
缶コーヒーを開けて飲むと、焙煎がかったビターな味だった。にが。ふとチャットのページが眼に映った。今働いている会社はグループ全体が何万人も従業員がいる会社だ。一方、わたしは従業員30名ほど、8割強が中国人という会社の正社員なのだが、修行中の為、自分の会社からこのグループ会社の子会社へ派遣されて仕事をしている。
翼もこの会社だったよな…。そうこの派遣先の会社の親会社が翼の会社だ。会社は違ってもグループ全体はこのチャットでつながっている。興味本位でチャット内の検索に名前を打つ。すると出た。まだここで働いているんだ。
わたしはSNSに嫌気がさし、FacebookもInstagramもLINEもすべて消したことがあった。だから翼の連絡先を持っていなかった。だからここだけが翼と唯一の接点となった。
緊急事態宣言の解除。このタイミングで、翼を見つけた。個人チャットへのページを押すか、押さないか迷う。
でもこれは押したら『進め』なのか。それとも『戻れ』なのか。わからない。でも、確かめたい気がする。もう自分の頭だけで考えていたくはない。時を戻す呪文をわたしは知ってる。
わたしはクリックを2回押した。
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