電灯泡

 哈尔滨ハルピン、−15度。名古屋から飛行機を乗り継いで、8時間。あらゆるものが凍てつく世界で、わたしは純粋な寒さを初めて噛み締めていた。今まで名古屋、上海、東京には行った事があるが、どれも海が近いから、風だけはやたら強く、そういう寒さの場所だった。だから耳が引きちぎれるような寒さだけはよく知っていた。ただ風もなく、真空のような場所で、気温が極端に低いというのは初めて体感した。


 肺が痛い。肺までもが凍るようで、息をする度に苦しい。これが楽しくて仕方なかった。思いっきり息を吸うと、肺が痛くなってせき込む。これが“寒い”ってことなんだ…!


 空気はやたら澄んでいて、電灯の粒が泡のように幻想的に浮かんでいる。またここはロシアとの国境沿いの中国なので、建物もどこかおとぎ話のような家の造りと中華っぽさがまじりあって、独特な世界がそこにはあった。その光景を見ながら、わたしはSNSに流れてきた南の島の写真を思い出していた。そこには翼と彼女がはしゃいでいた写真だった。着ぶくれして、雪だるまみたいになっているわたしとはえらい違いだ。わたしは赤くなった鼻の先を掻いた。



――――――――――――――—―


 わたしと小貝シャオベイは一緒に四川省・九寨溝きゅうさいこうへ行く計画を立てていた。九寨溝はエメラルドグリーンの湖で、幻想的だそうで、いつか行ってみたいと思っていた場所だった。ただものすごい山奥なので、一人ではたぶん行けないし、かといってパッケージツアーだと信じられないぐらい高い。そこで、なるべく安く行けるように小貝と図書館で画策していた。

「四川省行くならパンダ見たい! パンダ! 生パンダ~!」

 地球の歩き方を見ながらわたしの興奮は止まらない。

「ねえ、けい? 一つ質問なんだけど」

「うん?」

「けいって泳げる?」

「うん、泳げるよ~」

「わたし泳げないんだよね」

「ああ、中国だと習わないからでしょ」

 中国人で泳げる人はあんまり多くない。海沿いの人ならまだしも内陸部出身の人は泳げない人が多い。

「日本は洪水とか台風とか、水に関わる事故が多いからね、だから泳げるようにさせるんだよ」

「でもさあ、わたし、日本人の女の子ができて、わたしはできないとかそういうの、無くしたいの。だから水泳を習うことにしたんだ」

 ん? それって?

「ははあ、なるほどね、日本人に恋しちゃったわけだ」

「あ、うん、付き合おうって言われて…」

 小貝が赤くなる。その瞬間、小貝の容姿を改めて見る。


 …あ、小貝って背が高いよね。眼も大きいし、かわいい。派手で、わたしと違って、かわいい。


 え、あれ…、え。うそうそ、もしかして—―…



「翼と付き合うことになった」



 わたしはその時さーっと血の気が引いていった。


――――――――――――――—―


 水も植物もあらゆるものが凍る世界で、わたしはさっきの小貝のSNSを思い出す。翼と小貝が二人じゃれ合っていて、わたしは遠い凍える世界にいる。電灯の光を見ながら思い出した。电灯泡ディエンドンパオ。これは電灯を表す中国語だが、俗語として、いちゃつく二人を邪魔する第三者、つまり“お邪魔虫”という意味もある。一説によると、ラブラブな二人はわざと照明の暗いお店に行くから、その照明になぞらえてそう言うそうだ。


 その時、すでに幸孝と付き合っていたし、翼の人間性も身に染みて解っているので、未練がある訳ではない。ただ、自分はあの3人でいる時間が好きだった。たわいもない事、くだらない事、ちょっと真面目な事をぶつけられる、終わりが見えているあの時間。でも、ふたを開けて見れば、わたしだけが電灯泡お邪魔虫だったわけだ。なんだかその時間そのものを失ったようで少し悲しかった。


 でも、これは誰かに言ってもうまく通じないよね。嫉妬してるとか思われるよね。

 

 誰にも言えないことが自分の体の中で反芻する。空気が澄んでいるから、はっきり見えるはずの電灯が少し揺らいで見えた。今痛いのは肺だけじゃない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る