楽しい話をして

 大学3年生、3月。ついに就活解禁。わたしたちは着慣れないぴっちりとしたスーツを着て、毎日学校、職場と回る。


 就活が忙しいかというと、そうでもない。忙しい時もあるが、反対に変に時間が余ってしまう時もある。わたしは大体図書館でだらだらしているのが至福の時だった。本を触っているととろけそうな気分になる。今日は職場見学後、スーツのままだらだらと本を触っていた。

「ケイ!」

 振り返ると、小貝シャオベイが立っている。すらっとして、かわいい中国人留学生だ。昔、彼女から腕いっぱいのチャイナ服を着たパンダのぬいぐるみをもらったことがあった。彼女は学年は1つ下だが、年齢はわたしと同い年だった。

「ケイ、何してんの?」

「本読んでる」

「へえ、すごいね、わたし本なんて興味ないわ」

と言って、ファッション雑誌の『Vivi』を取り出す。

 彼女は両親が中華料理屋を日本で開き移住した関係で、日本へやってきた。だからか、そう日本文化には興味がない。

「日本人と話す話題ないわ。わたしオタクじゃないし、あっちも中国のこと何にも知らないし」

「ファッションのこと話せばいいじゃん?」

「これねー、難しいよ? ファッション雑誌って何書いてあるか理解するの。おフェロって何よ?って感じ。日本人と仲良くなるのって難しい」

 中国人で、ペラペラ日本語喋れても、案外こういう人が多い。日本人とはプライベートではつるまない。

「なんか、壁ない?仲良くできない壁みたいなの」


「あれ、けいじゃん」

 リクルートスーツ姿の翼がいる。

「よ、翼」

「ケイ、だれ?」

「英語専攻の翼だよ。チャラ男。翼、この子は小貝」

「え、中国人? 你好ニーハオ

你好ニーハオ」 

「おれ、3つしか中国語わかんない。你好ニーハオ谢谢シィエシィエ傻逼シャビ

 小貝は笑った。わたしはそんな言葉、どこで覚えたんだろうと思って翼を見ていた。

 傻逼シャビと言うのは日本語にはない言葉で、英語で言うところのファックの意味だ。いわゆるスラングであり、スラングの中でもかなり汚い表現の部類に入る。ちなみに中国語は罵り言葉の種類はとても多い。

「なんかおれ、変な言葉言った?」

「え、うん? そうだね、変だね」

「おれの中国人の友達がこれ超言うの…」

 小貝と笑いながら話し始める。奴はたった3単語しか知らないのに、どうしてそんなにも外国人と仲良くできるのかな。これはたぶん天性。


 その後、駅まで行って、小貝と別れた。ちゃっかりLINE交換していた。さっきまでの小貝の、日本人とは仲良くできないという会話は嘘のようだ。

 電車ではそれなりに人が入っていたので、座れたものの隣同士になった。いつもは1席飛ばして座ることが多かった。そういう距離感。

「…ねえ、おれコミュ障?」

 何がどうしたらそんな結論になるんだ? 

「…いやコミュ障って。翼がコミュ障ならわたしは何になるのさ?」

 わたしは笑い飛ばすが、翼はいつになく暗い顔つきのままだ。

「おれ今日就活で失敗した。こんなにしゃべれなくなるなんて思わなかった。おれコミュ障なのかなって思った」

 最近時々見せるな、こういう弱ったところ。就活って自分が思っている以上にしんどいものなのか? うーん、どう話せばいいんだろう。電車の広告を見つめながらわたしが言う。

「それだけ真剣だから話せなくなるんだよ。それにプロだって緊張するって言ってた。わたしの好きなダンスも歌もすごいアーティストもライブが始まったばっかりは声が震えてるよ。ましてやわたしたちが緊張してるのなんて当たり前だよ」

 じっとわたしの顔を見ると、力が抜けたように柔らかく、弱々しく笑った。

「…そっか」

「そうだよ」

「ねえ、けい、楽しい話をして」

と言うと急に少しだけ寄りかかった。自分とは違う腕の厚みが自分の腕へ伝わる。

 あれ…、何だこれ? 内心動揺が全身を駆け巡る。ぐるぐるとオーダーを考える。楽しい話、楽しい話…。そんなのわたしの人生の中であっただろうか。

「じゃあ高校時代にわたしがしれないという話を…」

「何それ?」

 笑ってはいるが、やっぱり翼は元気ない。生き恥を晒す覚悟でわたしの黒歴史を話す。

 いじめられていたかもしれないという話はわたしが高校時代、月1で自転車がパンクし、シャープペンシルがぼきぼきで折れた状態で発見されたりしていた。しかし当の本人は自転車登校が初めてだったので、“タイヤというのは毎日乗っていたらパンクするものだ”と考えてたし、シャープペンの件も“筆箱の構造上こうなるんだ”と思っていた。大学生になり、同じ自転車、同じ筆箱を使っていたが、そんなこと一度も起こらなかった。つまりわたしはいじめられていたらしいが、今をもってしても、誰がわたしをいじめていたのか皆目検討つかないのだ。…という楽しいのかわからない、人によっては涙を誘うような自虐的な楽しい話を披露した。

「ふ、何それ…」

 気がつくと、わたしの降りるべき駅を通り過ぎようとしていた。でもなんかほっとけない。弱ったところ見せられるとわたしは弱い。そのギャップもずるい。わたしは仕方なく楽しくも何ともない謎の会話をピエロのように続けて、次の駅で降りた。


 3月で、リクルートスーツの薄さにカタカタ震えながら反対車線の電車をわたしは待った。もう夜も深かった。ふと見上げると、桜の木があった。桜の蕾が月の光に照らされ、ふっくらと膨らんでいるように見えた。もうすぐ花が開くだろう。

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