第214話 久遠と海神 2

 いつのことだったか・・・・・。

 幾日経っても海神わだつみ白妙しろたえの元を訪れない時があった。


 海神は、ある神妖の心無い戯れにより困窮に瀕しているという町の祈りを受け、その苦しみを取り除きに向かったはずだった・・・・・。


 だが、海神わだつみは、自身が救った人々の手により、怒りと苦しみのはけ口として、理不尽に地下牢へ捕らえられていたのだ。 


 囚われていた海神を見つけ、その姿を目にした白妙は、あまりの仕打ちに言葉を失った・・・・・。


 痛めつけられ、見る影もなく床に打ち捨てられている海神わだつみを抱き起こし、白妙は自らの胸へと強く抱き締める。


 「白妙・・・・・。」


 うっすらと瞼を上げ白妙を見つめる彼の瞳は、深い哀しみに染まりながら、それでもなお美しく澄んでいた。 


 白妙しろたえは、何も言葉にできなかった・・・・。

 厚い氷のように冷え冷えとした表情の裏に隠された海神わだつみの心を想うと、ただただ涙で頬を濡らすことしかできなかったのだ。


 海神わだつみは固く口をつぐんでいるが、甘んじて人の制裁を受け入れていたことは、火を見るよりも明らかだった。


 人が生きるためのかてとなれる想いは、善の感情だけではない。

 哀しいことに、場合によっては、負の感情こそが生きる活力となりうることもある・・・・・。


 彼らに責められた海神は抗うことなく、彼らの怒りの矛先となって生きる力となることを選んでいたのだ。


 だが、大切な者を傷つけられた白妙しろたえは、一切こらえることなどしなかった。


 あまりの人の非情さと甘えに、怒髪天にいたった白妙は、命こそ取りはしなかったものの、人々に容赦のない制裁を与えた。

 海神わだつみを水神殿へ送り届けた直後、落雷で町を焼き払ったのだ。


 白妙しろたえは、事の発端となった神妖を探し出し現身うつしみを取り上げると、魂だけの存在に返してしまった。

 白妙が無慈悲で残虐非道な神妖として、神妖界で畏れられるようになったのは、この出来事があってのことだった・・・・・。



 ・・・・・・暖かな湯の落ちる音を耳にしながら、積み重ねてきた数々の苦い記憶を胸の内で確かめ、海神はひっそりとため息をついた。


 今だからこそ久遠くおんは感謝を口にしてくれてはいるが、大切な者たちの亡骸を前にすればその心はやはり平静ではいられなくなるだろう。


 海神は暗い哀しみを胸の奥へと押し隠した・・・・・。

 だがそれでもやはり、この不器用で優しい神妖は、久遠から贈られた言葉に、温かく包まれるような喜びを感じ、たえきれず、心のまま一言だけ・・・・久遠に感謝の言葉を口にした。


 久遠は苦く微笑み、海神わだつみを見つめた。


 「海神様・・・・・・。」


 海神は、数少ない言葉の裏側で、幾千もの想いを抱えているのだろう。

 漆黒の濡れた瞳が、久遠の心の内へ何かを訴えるように染み入ってくる・・・・・。


 それ以上何も口にはせず、久遠は海神わだつみの隣へ静かに移ると、湯に深くつかった。


 互いに言葉数の多い質ではないため、湯殿はただ湯の動く音だけが響いていたが、海神とともに過ごすこの静けさを、久遠は不思議と心地よく感じていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る