第212話 涙 2

 白妙しろたえの柔らかな声を聞きながら、翡翠ひすいの目には、こらえようのない熱い涙がぶわりとこみ上げていた・・・・。


 ・・・・・・おやつの饅頭を久遠くおん翡翠ひすいにこっそり味見させてくれる、笑顔の絶えないにぎやかな使用人の女たち。


 守衛頭がどこからか取ってきた竹で、玩具を作ってくれたこともあった・・・・。


 朝夕の挨拶をすると、わずかに表情を緩める厳格な父。

 いつも翡翠の髪を丁寧にすいてくれる、月明かりのような母の笑顔。


 遠くの街へ用を足しに行った父が、翡翠の土産に買ってきてくれた玩具は幼子の使う物で・・・・。

 母や使用人に呆れられ、いつも凛としている父が、気の毒になるほど困り果てた表情かおをしていたことは、まだ記憶に新しい・・・・。


 白妙の言葉が、翡翠の胸をゆっくりとめぐる。


 あぁ・・・・本当に。

 白妙しろたえ様の言う通り・・・・思い出すのは皆の笑顔ばかりで・・・・・。


 ぼろぼろとあふれ出す熱い涙を、翡翠は止めることができなかった。

 「会いたい」と幾度もこぼしながら嗚咽を漏らす翡翠に、白妙はそっと布を渡す。


 しゃくりあげる翡翠ひすいの背を、白妙は静かに撫で続けた・・・・・。


 どれくらいそうしていたのだろう・・・・・。


 胸を塞ぐ哀しみが熱い雫となり流れていくと、そこにできたわずかな隙間に後悔がじわりと踏み入ってきた。


 絶望と哀しみは徐々に後悔へと姿を変え、ぶつかる場所を見つけられないまま、翡翠の心を暗い闇で染め上げ始める。


 ・・・・・すぐに駆けつけてやればよかった。

 久遠の父が口から出まかせを言ったのではないか。

 本当は皆無事でいて、ここへ来ていなければ・・・・・連れてこられなければ、まだ、助けられる者があったかもしれないのだ・・・・。


 そんな、歪んだ感情に呼吸を浅く乱れさせ始めた翡翠ひすいの小さな変化を、白妙は見逃さなかった。

 翡翠の細い身体が壊れないよう気遣いながら、白妙はきつく彼女を抱きしめた。


 力強い温もりに包まれると、翡翠の泥のように濁った感情のうねりはわずかに静まり、様子をうかがい始める。


 「落ち着け・・・・翡翠。・・・・・海神は、お前たちを託したいのだと言った・・・・。なぜだと思う。」


 「・・・・・・・。」


 「親しい者の末路を目の前にさらされている最中さなか、お前たちをその場から連れ去るようなまねをすれば、お前たちの身を護ってやることはできても、心までは守ることはできないと・・・・・恐らく海神は覚悟していたのだ。」


 「・・・・・・。」


 「・・・・連れ去れば、お前たち二人から・・・・いずれ恨まれるであろうことも。」


 白妙の言葉が、翡翠のささくれだった心に少しずつ、柔らかく染み込んでいく。


 「海神は、痛みを知らぬ者ではない。幼き日、あれも大切な者を失ったのだ・・・・。だからこそ、お前たちを私に託した。・・・・大切な者の最期を前にお前たちを連れ去ってしまった自分は、共にあるべきではないと・・・・。」


 「・・・・・・そんな。」


 「海神は苦しむ者を前に、自らの努力を惜しんだり、背を向けるような者ではない。身を削いででも手を差し伸べてしまう愚かな男だ・・・・・。救えるものがいたのならば、絶対に背を向けたりはしていない・・・・・・。海神を恨んでやってもいいが、それだけは分かって欲しい。」

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