第193話 天空の影

 翌日・・・・翡翠の朝は早かった。


 早朝、そっと起こされた翡翠は、久遠の父の前に呼び出され、昨夜大座敷で聞いたあの話を聞かされた。


 冷たく暗い水底で聞いているような、どこか他人事にも思えるその言葉を耳に入れ、翡翠はただ静かにうなずく。


 頭を垂れ、その場を後にすると廊下を曲がった先に、父と母の姿があった。


 「翡翠・・・・。すまない。」


 父の悔し気な声が、床板に染み込んでいく。


 「なぜ謝るのですか。私一人のことで皆が助かるというのであれば、これほど誇らしいことはないのに。」


 翡翠は無理やり笑顔を作った。

 一日顔を合わせていなかっただけなのに、二人の顔はやつれ切り、まるで死人のようだ。


 「父様・・・。母様・・・・。」


 「翡翠・・・・。」


 ひきつりそうな笑みを必死に浮かべ続ける翡翠の、細く小さな身体は、母の抱擁に隠されてしまった。


 温かい・・・・。

 これがこうして二人と過ごせる最期になるのだろうか・・・・そう思うと、気づかぬうちに翡翠の頬を涙がこぼれ落ちていく。


 「今日まで大切に育ててくれて、ありがとうございました。・・・・翡翠は、二人の娘に生まれて、とても幸せでした。」


 母の腕がきつく翡翠を抱きしめる中、静かに紡がれたその言葉に、めったなことでは顔色を変えない厳格な父が表情を歪め、顔を伏せた・・・・・。


 二人はそのまま、翡翠を朝餉に誘った。

 誰に邪魔されることもなく、三人で過ごす最期の時は、他愛もなく普段と変わらぬ様相で穏やかに流れ、翡翠はやはりこれは夢なのではないかと思うほどだった。


 家族で水入らずの時を過ごしていると、ほどなくしてあの濃紺の衣をまとった女の従者と思われる、見知らぬ少女から声がかかった。


 「時間です。どうぞ、こちらへ・・・。」


 端正な顔立ちをした、一切の表情がないその少女は、短く翡翠を呼ばわる。

 翡翠は立ち上がると、静かに口を開いた。


 「父様。出過ぎたこととは存じますが、お館様に私の願いをお伝えいただけますでしょうか。・・・・此度人柱を立てること、できる限り、皆には伝えずにおいて欲しいのです。・・・・結果の良し悪しがどうあれ、このことは皆を不安にさせます・・・・。知らずに済むのなら、その方が良いと思うのです。」


 翡翠は震えそうになる膝を抑え、引き止めたくてたまらないという表情の母と、眉間に深いしわを寄せた父へ深々と頭を下げると、笑顔を残しその場を後にした。


 従者の少女は無表情のまま、翡翠を浴室へと案内した。


 「禊を行っていただきます。風呂に裏山の清水を汲んだものをわかしておきました。細かな決まりごとはありませんので、ゆっくり温まってお過ごしください。」


 少女が去ると翡翠は衣を脱ぎ、身体を清め静かに湯につかった。


 久遠に会うことが、かなわなかった・・・・。

 最期に、どうしても久遠に会いたかったのに。

 昨夜抱きしめあった互いの温もりを探すように、翡翠は自らの肩をきつく抱いた。


 怖くないわけがないのだ。

 独りきりにされた今・・・・父と母の前で張りつめていた気持ちは粉々に砕け散り、翡翠は嫌が応にも絶望を確かめるしかなかった。


 温かい湯の中につかっているのにもかかわらず、翡翠の顎はカチカチと音をたてて震えた。

 鼻の奥がつんと痛み、熱い涙がぼろぼろとあふれ出す。

 声を上げて泣きわめくこともできないまま、翡翠は肩をふるわせ、格子窓の外へ目を向けた。


 日中にも関わらず、どんよりと暗く陰った空からは、相変わらずの雨が落ち続けている。

 重苦しい景色の中を、ふいに見慣れぬものがかすめて通った。


 翡翠は驚き、立ち上がって思わず格子をつかんだ。

 少し離れた空の高い場所に、人影らしきものが浮いている。

 白く輝きを帯びたその人影は、つかの間そこにたたずんでいたが宙をすべるように、そのまま去っていった。


 翡翠は今見たものが現実なのかどうかすらわからず、ただ茫然と雨の降りしきる空を眺め続けた。

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