第82話 癒 3

 瞬く間に月日は流れ、2年の時が過ぎていった。


 ゆいのよみ通り、どれほど強力な力を得ても、彼呼迷軌ひよめきが自分に加護を与えることはなかった。


 自分が光弘の傍らへいられるならば、守ることは容易たやすいのに・・・・・。


 「はぁっ・・・・・。」


 癒はつまらなそうに前足に顎をのせ、短く切ないため息をついた。


 癒にとって世界の全ては、光弘へと繋がっている。

 光弘のいないこの天地は、退屈以外のなにものでもないのだ。


 九泉きゅうせんを人の世へと送り出したのち、癒はずっと、小さく愛くるしい神妖じんようの姿のままで青年には戻らなかった。

 別の名で呼ばれていたその姿の頃の癒を見知っているものが、この世界にはまだ多く残っている。

 その者たちに自分の存在を知られるのが面倒なのだ。


 「姉さん・・・・・・。」


 ふいに、自分をそう呼ぶ光弘の声が聞こえた気がして、癒はたまらず振り返った。

 胸が切なさで締め付けられる。

 だが、うるんだ黒い瞳が映すものは淡い色の命逢みおの空と、大樹だけだった・・・・・。


 冥府鬼界に堕ち、その力をむさぼり続ける卑しい自分に、かたくなに加護を与えようとしない彼呼迷軌ひよめき

 意識を持たないはずの彼呼迷軌に、自分を拒む強い意志を感じた気がして、癒は暗い哀しみに目を伏せた。


 彼呼迷軌にとって、自分は大きな汚れとみなされているということ・・・・・。

 聡い癒は、我が身のもつ美しさは、自分に科せられた呪いだということを正しく理解していた。


 私は、汚れた姿を光弘へさらすのか・・・・・。


 幼い神妖の姿は想像以上に窮屈であったが、印を組まねばならないような複雑な術式を使うことでもなければ、我慢できないほどのものではない。


 癒は冥府鬼界へ降り、色々と試してみた。

 妖鬼の集団にあえて神妖の姿をさらし、襲わせたのだ。

 癒が不在の間にできたらしい、品のない組織を愛らしい神妖の姿で半刻もしないうちに20ほど滅ぼし尽くし、癒は身体を伸ばした。


 自分は可能な限り、癒としてあろう。


 そう気持ちを固めていると、背中の辺りが疼いた。

 癒は青年の姿へ戻り、腰の刀に目を向けた。


 「はははっ。お前がいたのだったな。冥府も私がいない間に大分汚れたようだ。せっかくだ、掃除をして帰ろう。」


 癒は甘やかに刀に囁くと、一瞬で姿を消した。

 その日、冥府鬼界から50万の妖鬼が惨殺されたのは、また別の話だ。 


 人の世では、九泉が上手くやってくれているようだ。

 神代の枝を見つめ、いつものように光弘の無事を確認していると、命逢の中へかなり大きな力をもつ神妖が入ってくるのを感じた。

 見知った気配に、癒は心を静め自分の気配を殺すと、そっと樹下へと舞い降りる。


 白妙しろたえか・・・・・・。


 癒は気づかれないよう、幼い神妖の群に紛れた。

 彼らと同じ大きさに妖気を合わせ、足取りのおぼつかない子を演じ、生まれたばかりの神妖たちと絡み合いふざけてみせる。


 都古みやこに連れられ、自分を見に来たのだろう。

 白妙は腕を組み、探るようにじっと癒を見つめていたが、綻びを見つけることができず、そのまま去って行った。


 九泉の働きかけもあり、都古は疑問に思うことなく、自分を光弘に会わせることを約束してくれた。


 だが、全てが癒の思うままには進まなかった。

 宵闇よいやみが思いのほか急激に、力を増していったのだ。

 一度祓われたはずの黒霧が力を取り戻し、光弘の心を襲い始める。


 そしてついに、癒の予想を覆す、決定的な出来事が起きてしまった。


 癒の身体を、息が止まるほどの突き抜けるような激しい痛みが襲ったのだ。

 癒はとっさに青年の姿へ返った。


 「妖鬼喀血ようきかっけつ。」


 膝を折り、苦しい息の中言霊を発すると、地より湧き出した血潮が、紅い帳となって取り囲むように舞い上がった。

 赤黒い壁が天を塞ぎ、全てのものから閉ざされた領域を形作る。


 癒は荒い息を鎮めながら、自らの魂の形に集中した。

 宵闇のやいばが光弘を傷つけぬよう、鞘として残してきた影だ。

 自分以外の者に壊せるようなものではないが、与えられる痛みは逃れようのないものだった。


 宵闇が動いたのか・・・・・。


 魂の形を探り、癒は何が起こっているのかを理解した。

 宵闇は、鞘である自分を取り除くのではなく、深く刺し貫くことで切っ先を表に出したのだ。


 癒の中を、湧きあがる哀しみと黒い怒りが埋め尽くしていく。

 宵闇が刃の切っ先を出したということは、光弘を傷つけることが可能になったということだ。


 殺すことはできないだろう。

 だが、自分が今受けたのと同等の痛みを光弘へ与え続けることはできるのだ。

 それは癒にとって、何よりも耐えがたいことだった。


 苦痛にもだえる光弘の姿が脳裏をよぎり、癒は強く拳を握りしめた。


 だが、血を吐くほどの想いで、光弘の傍らに行きたいと願っても、彼呼迷軌が癒に応え加護を与えることはない。


 癒は怒りのままに、命逢の大樹の根元へ一撃を与えた。


 そんなことをしても世界を渡ることができないことは、誰よりも癒が一番理解している。

 それでも、何よりも大切な人が窮地に陥ろうとしているのに、その傍らに行くことすら叶わない無力な自分を、癒が許せるわけがなかった。


 癒の放った一撃は、大樹の根元をえぐり取り、ゾッとするほどの巨大な穴を穿った。


 結界の中、正気を失い自分に向けて放った落雷は癒の身体を切り裂き、血を噴き出させる。


 癒は結界をとくと、激情のまま冥府へと堕ちていった。

 再び戻った癒は、血に濡れた顔で無表情に神代の枝を見つめる。

 夢にうなされ苦しそうに顔を歪める光弘。


 九泉は呼びかけにも応えず、現れることもない。

 もはや無事ではないのだ。


 光弘の心へ刃をつきつけようとする宵闇の影が、癒の目に映る。

 奴が光弘を傷つけるならば、自分の魂と共に宵闇を消してしまおう。

 自分の存在と引き換えに宵闇を消滅させることは、容易いことだ。


 癒はそう考え、印を組んだ。

 最期の生では会う事すら叶わなかったが、癒にためらいや後悔はなかった。


 愛おしい人を見つめ、小さく吐息をついて終わりの言葉を口にしようとしたその時、電話の音が鳴り響き、光弘は目を覚まして現実へと引き戻されていった。


 癒は目を細めた。

 電話の音に救われたようにみえた。

 だが・・・・・。

 

 一応の危機が去ったことを確認し、癒は大きく息を吐いた。

 自分が穿った大樹の穴の中心へと舞い降りると、小さな神妖へと姿を戻した。

 都古にかけたいざないの術に力を送り込むと、心を抑え無理矢理静める。

 

 (九泉・・・・・。お前は、俺の物だ。なぜ戻らない・・・・・。)


 2年前のあの日、震えながら痛みに耐えていた忠実なしもべの血の温もりを遠くに思い出しながら、癒は目を閉じた。

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