第76話 妖月 4

秋津あきづではないか。一体何が起きているのだ。」

 海神わだつみの言葉に、はやてが表情を堅くし、分からないと言うかわりに首を横に振った。


 「秋津あきづ・・・・・。」


 血の気が失せ、紙のように白くなった顔で震えながら名を呼ぶ都古みやこの姿が、状況の深刻さを物語っている。

 秋津と呼ばれた青年の口がかすかに動き、何かをつぶやいたように見えた。

 その瞬間、都古のそばに控えていた蝶の羽を持つ少女が、まるで消えゆく秋津の魂に自分の魂を重ねるように、愛おしむように、その胸に強くしがみついた。


 久遠くおんが印を組み、右手を秋津へとかざした。

 緑色の光が全身を包み込み、顔や全身に刻まれていた傷が、たちどころに癒されていく。

 しかし・・・・・・。

 全ての傷が消え、久遠が手を収めたあとも秋津の瞳に光が戻ることはなかった。

 わずかに感じることができていた呼吸も、完全に失われようとしている。


 「魂が致命傷を負ってしまっている。私に直せるのは・・・・・・身体の傷だけだ。・・・・・すまない。」

 「そんなっ・・・・・。」


 残酷な結末を告げる久遠の言葉に、その場にいる全ての者が凍り付いた。

 都古はうつむき肩を震わせている。

 膝の上で拳が真っ白になるほど強く握りしめられていた。


 目前に迫る不幸を前に誰もが手をこまねいてみている事しか許されない中、光弘が静かに秋津の元へ近づいていった。

 瞳が紫色に代わり、淡い輝きを放っている。

 光弘は秋津の傍らにひざまずくと、震える手で秋津の綺麗な顔に触れた。


 光弘は、強い意志をやどした瞳で、おもむろにシャツの首の部分を手でずらし、首筋をさらした。

 光弘の左の鎖骨には、淡い緑色の模様が描かれていた。


 「光弘・・・・それ・・・・・。」

 「見えて・・・・いるのか?」


 俺が問いかけると、光弘は驚いた表情を見せた。

 束の間、傷ついたように俺の瞳を見つめたが、すぐに視線をそらし秋津の胸にしがみついている、蝶の羽をもつ少女に話しかけた。


 「君の力が借りたい。彼を救いたいんだ。」


 光弘の言葉を聞き、少女はハッとして顔を上げると、真っ直ぐに光弘を見つめた。


 「約束する。彼は絶対にかせたりしない。」


  少女は、光弘に力強くうなずいて返した。


 「おいで。」


 光弘が言葉を紡いだ途端、その甘やかな声音に誘われるように、少女はふわりと舞い上がった。

 そのまま光弘の首筋に抱き着くようにして、鎖骨の印へ触れる。


 「祝印しゅくいんおさめよ。」


 光弘は少女の身体を片手で優しく支えると、言霊を放ち目を閉じた。

 刻印から光が漏れ始め、2人を繋ぎ包み込んでいく。

 こんな状況なのに、淡い光に包まれた二人の姿はあまりにも綺麗で、俺は激しく心を揺らされた。


 「まさか・・・・・無色むしきの術を使えるのか?」


 久遠が言葉をこぼした。

 その時、光弘の眉がピクリと動き、わずかに顔が歪んだ。


 「やめろ光弘。それ以上はいけない。」


 久遠が強引に2人を引き離した。

 光弘は崩れるように地面に片手をついた。

 光弘は手のひらへ倒れ込んだ少女を久遠に差し出した。


 「この人をお願いします。」


  光弘は苦しそうに肩で息をしながら、久遠に少女を託すと、秋津のひたいに自分の額をそっと重ね、目を閉じた。


 「癒せ。」


 光弘の言葉に反応し、刻印が強い光を放ち2人を包み込んだ。

 秋津に、穏やかな呼吸が戻ってきた。

 秋津の無事を確認すると、光弘は涼やかな目元を嬉しそうに細め、その場に倒れ込んだ。

 身体を丸め、痛みをこらえるように必死で声を抑えつけている。


 「彼呼迷軌の仕業か・・・・・。」


 久遠の口から洩れた言葉に、白妙が苦い顔をして舌打ちをした。

 光弘の首元を開くと、刻印の模様が荒れ狂ったようにうごめいていた。


 「まずいな・・・・・。これでは光弘の精神が耐えられない。」


 白妙は険しい表情で言った。

 それまで眺めていることしかできなかったしょうが、たまらず声を上げる。


 「耐えられないって、どういうことだよ。」

 「・・・・・このままでは、二度と目覚めることができなくなる。」

 「そんな・・・嘘・・・だろ。」


 絶望的な白妙の答えに、俺たちは言葉を失った。

 こらえきれなくなった光弘の叫び声が、心の奥を引き裂くように響き渡った。


 ふいに、光弘に寄り添っていた癒が光弘の首筋へ降り立ち、刻印に頭を寄せ、触れた。

 すると、そこから光があふれ出し、一気に辺りを包み込んだ。

 あまりに強烈な眩しさに目がくらみ、誰もが手で顔を覆い目を閉じた。

 光が収まり、ゆっくりと目を開くと、荒く苦しそうだった光弘の呼吸がなぜか落ち着いている。

 光弘は閉じていた目をゆっくりと開き、長く息を吐いた。


 「今のは、なんだ?」

 「一体、何が起きたのだ。」


 加具土命かぐつちと海神の言葉に、皆同感だとばかりに顔を見合わせた。

 光弘の傍らでは、癒が何事もなかったかのように、相変わらず愛おし気に光弘へ頬ずりしている。

 白妙は少しの間目を細め、癒をいぶかし気に見つめていたが、光弘のシャツを正して刻印を隠すと、大きく息をついた。


「全く無茶をする。光弘、お前死ぬところだったのだぞ。・・・・・お前はもっと、自分を大切にするべきだ。」


 白妙の言葉に、光弘は儚い笑みを浮かべた。

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