34話 「気まずい遭遇」 前編
鉄のバケツがきしむ音で、思わず逸らしていた視線をリアンに向けるヒロト。
「それは……」
気まずい空気の中、第一声を上げたのはヒロトだった。
その表情は不快感に満ちており、リアンの抱えた、餌入れ用のバケツをにらみつけていた。
「あ……。お、おはよう……」
ヒロトの敵意剥きだしの視線に、耐えられなかったリアンがヒロトに挨拶をしてみた。
しかしヒロトは平然と無視して、リアンからも顔を逸らす。
アモスが、ニヤニヤとその状況を眺めていた。
「あんたが遅いから、あたしらが先に、餌やっておいてあげたのよ。ネボスケのお嬢さま、仕事奪われたのが悔しいかなぁ? 明日からはお仕事取られないように、もっと早起きでもすんだなぁ。貴重な友達のアヒルどもも、もうあんたのことなんか、明日には記憶から消え去ってるかもねぇ」
いきなりアモスが、ヒロトにこんな挑発的な言葉をいう。
あまりの言動に、リアンもビックリして絶句してしまう。
「おいっ、ガキ!」
ニヤリと嫌味をいったかと思えば、アモスはいきなり怒号を発する。
何故ここまで、感情の発露が恐ろしい方向にばかり向かうのか。
「せめて、ありがとうの言葉ぐらい、いえばどうなんだよ! あと、リアンくんが挨拶したんだから、返してやれよ! 無視してんじゃねぞ、クソが!」
アモスの、まるで躊躇のない暴言に、慌ててリアンが割って入る。
「ちょっと! ちょっと! ちょっと、アモスって!」
慌ててリアンが、ひとりの少女に敵意剥き出しのアモスを制止する。
ヒロトの放心したような、青ざめた表情は次第に真っ赤になり、アモスのことを正面切ってにらみつける。
しかしアモスはまったく動じず、表情から笑顔もなく、ヒロトを真っ向からにらみ返している。
このふたりには、威圧の差が有り過ぎるほどだった。
最初から勝負になるようなレベル差ではなかった。
蛇ににらまれたカエルのように、必死ながらも虚勢を張って、ヒロトはにらみ返していた。
彼女の呼吸の乱れが、側にいるリアンでも感じられるほどだった。
ついにヒロトはたまらず、その場から逃げようと背後を向く。
そして、宿の前の川に架けられた橋に向かって、猛ダッシュで逃げようとした。
しかし……。
アモスにより、ヒロトの手首がガッツリとつかまれる。
あまりの早業に、ヒロトは体勢を崩す。
ヒロトの手首と肩に、遅れて激痛がやってくる。
アモスが無表情のまま、捕まえたヒロトの顔を、見下すようににらむ。
その感情すら感じさせない表情から、邪悪な気配を察したヒロトの動悸がさらに高くなる。
つかまれた手首の痛みも感じないほど、ヒロトは恐怖と憎悪の感情が昂ぶる。
自分を組み伏せるように捕らえている女は、凄まじい怪力で手首をつかみながらニヤリと笑う。
一緒にいたリアンは、無能そうにぼうっと成り行きを見ているだけだ。
予想外過ぎるアモスの行動だったので、リアンはまだ脳が処理できていないのだ。
そんな呆けたようなリアンを放っておいて、アモスが口角を上げて、捕らえたヒロトに尋ねる。
「そういやさ……。あんたにひとつ、訊きたいことがあったわ」
「は、離せよっ!」
ヒロトが、アモスの手を払いのけようとした。
その弱々しい反撃を、軽くアモスがいなすと、再びつかんだ手に力をくわえる。
「い、痛っ!」
ヒロトの手首に激痛が走る。
あまりの痛みに膝を屈し、その場に崩れ落ちる。
「ちょっと! ちょっと! ちょっと! ちょっと、アモスって!」
ここにきてようやく、リアンも目の前の光景が理解できたようだ。
リアンがヒロトの横に飛んでくると、下から懇願するようにアモスを見上げる。
アモスの行為があまりにも強烈だったため、リアンは反射的に、アモスに許しを請うような姿勢になる。
飛び込んできた際に落とした、アヒルの餌用のバケツが地面を転がる音がする。
さいわい朝なので人通りもまだなく、アモスがヒロトをねじ伏せている状況は、誰にも見られていないようだ。
リアンは、周囲に人がいないかをキョロキョロ見回して、アモスの腕をつかんでなだめる。
「こんなこと、しちゃダメだよ。離してあげて、アモスってば。お願いだから……」
命乞いをするかのような、リアンの声は小さいが迫真だった。
アモスは、リアンに対してニコリと笑いかける。
「ひとつ訊くだけよ。別にここでこのガキを、解体してやろうとか考えてないからさ」
サラリと不穏なセリフをいい、アモスはリアンの不安を払拭しようとするが、無理な話しだった。
アモスはヒロトをつかんだまま、見下すような視線を投げかけて彼女に質問する。
「おいガキ! 昨日、公園で会ってたよぉ。あの臭そうな、キモい男どもって何者よ?」
「えっ……」
アモスの質問に、明らかにヒロトの表情が曇る。
それを見て、アモスがさらに邪悪な笑顔になる。
「あら? 何よ、その面白い反応。やっぱ見られちゃ、マズいような関係だったわけ? 後ろめたい理由でもあるのかしら?」
アモスにいわれても、ヒロトは無言のまま口を閉ざす。
今は何も答えず、痛みにこらえていることを選択したヒロト。
「なんだコラァ! だんまりかよっ!」
アモスが、朝から大声を出してヒロトに怒鳴る。
目の前の女の迫力に、ヒロトの心が激しく動揺する。
「ちょっと! アモス、離してあげようよ! きちんとお話しするならさっ! こんな感じで訊いてたら、きっと痛みで、彼女も答えられないよ! ねっ?」
ヒロトがあえて無言を貫こうと思った理由は、この一緒にいるリアンの存在があったからだ。
この女には到底かなわないが、人の良さそうなリアンが、突破口を開いてくれそうな気がしたからだった。
ヒロトは、そこに賭けてみようと思ったのだ。
リアンの懇願に、アモスはつかんでいたヒロトの手首を離す。
「もうっ! 仕方ないわね! おいっ! 逃げんなよっ!」
アモスの怒号が響き渡り、リアンが彼女とヒロトの間に割って入る。
ヒロトの判断は間違えていなかった。
一気に身体が楽になるヒロトだが、まだ膝を屈したままで、身体中脂汗をかいていた。
ヒロトは、真っ赤になった手首を痛そうにさすっている。
アモスの、女性とは思えない怪力でヒロトの片腕全体が痺れている。
するとリアンが、ヒロトの手を取って起こしてくれる。
「大丈夫? 本当にごめんね」
リアンがヒロトを起こしながら、何度も何度も謝ってくる。
憮然とした表情のままのアモスが気になるので、うっとおしい! というリアンへの本音を、ヒロトは飲み込む。
女はどうやら堅気ではないようだが、ガキのほうは普通の、同学年ほどの少年らしいとヒロトは判断した。
「平気……」
ぶっきらぼうに、リアンの顔すら見ずにヒロトはいう。
崩れ落ちた際に歪んだ帽子を直し、ヒロトは服を軽くはたく。
「良かった、どこも怪我はないよね?」
不安そうに訊いてくるリアンの声が、恐怖で引きつっている感じかする。
このガキも、この女に何かされてるんじゃ、という疑惑がヒロトの中に湧き上がる。
そう思ったヒロトだが、おそらくこちらをにらみつけているであろう、あの女の視線が怖くて、リアンを見ることができなかった。
「あっ! バケツ!」
そういってリアンは、道に転がるさっき落としたバケツを拾いに走る。
向こうから工事用車両が見えたので、慌ててリアンが拾いに向かったのだ。
リアンは、工事用車両の運転手に頭を下げて、バケツを拾っていた。
その一連の行動を眺めながら、何だこいつ? とヒロトは思う。
不思議と、暴力女と同行する彼からは、悪い印象は受けなかった。
ヒロトは勇気を出して、暴力女をチラリと見て驚く。
さっきまで自分に向けられていた殺気が消え、目の前の少年の行動を、ニコニコしながら観察してるのだ。
さっきヒロトにした行為など、何もなかったかのように……。
(この女は、人を虐げることに、慣れてやがんだ……)
ヒロトの中に、アモスへの激しい憎悪が沸き立つと同時に、思いだしたくないつらい過去が去来する。
だが、ここでそれを口にすると、さらに面倒なことになるのは目に見えていた。
必死に言葉を飲み込み、ヒロトは表情に出さないようにしていた。
「ごめんね、落ち着きました?」
ところが空気の読めないのか、脳天気なのか、同行する少年が笑いかけてきた。
(落ち着くわけないだろ!)
という脊髄反射的な返しを必死に我慢して、ヒロトは嘘でも無言でうなずく。
ここはことを荒立てない方向で、やり過ごすことにしたのだ。
悔しいが、あの女にはどうやっても、勝ち目がないと思ったからだ。
「実はね……」
ヒロトの内心など、気にする素振りもせずに、リアンが小声で話しかける。
「アモスがいった通りにね。昨日、デモがあった公園で、見かけたんだよ」
リアンの、どこか申し訳ないような声を、ヒロトは黙って聞く。
気分は落ち着いてきたが、手首の痛みはまだ継続していた。
「なんか、同年代の人とは思えない、男の人たちと会っていたからね。余計なお世話とは思うんだけど、すごく気になったんだ」
いいにくそうにするリアンの後ろに、ニヤニヤとしているアモスの顔が見える。
「あの人たちって……。反エンドールの、デモに参加してた人たちだよね? あなたも、そういう格好してたから……」
リアンはヒロトに、かなり慎重に尋ねる。
(くそっ……、まさか見られていたなんて……)
ヒロトは悔しそうに、唇を噛む。
一方リアンは、昨日公園で見かけた、奇妙な男性の四人組を思いだしていた。
明らかに三十は超えているような年齢で、ヒロトとは不釣り合い過ぎる男たちだった。
身だしなみも汚らしく、反エンドールデモの参加者であることが、一発でわかる格好をしていた。
公園内で騒ぎまくって憎悪を撒き散らしていた、デモ集団の仲間なのは間違いないだろう。
しかしとてもデリケートな話題なので、リアンもこれ以上どう話しを切り込めばいいのかわからなくなっていた。
しばらく沈黙が起きてしまい、気まずい空気にリアンはモジモジとしだす。
「おまえぐらいの、ガキならよぉ。普通、学校行ってるんじゃないのか?」
静寂を破ったのは、アモスのチンピラのような問いかけだった。
ついさっきはニコニコしていたのに、声のトーンの急変から、ヒロトはアモスの顔を見ることができずに固まってしまう。
「学業よりも、デモ優先とはねぇ。たいした愛国心をお持ちな、お嬢ちゃんじゃないかぁ? エンドールの連中を、おまえも皆殺しにしたいのか? 本当にそんなこと、できんのか?」
アモスの言葉を、止めようとリアンが制止するがアモスの口は止まらない。
「その背伸びしてるような悪態といい、まだまだガキすぎるんだよな。無理してんじゃね~よ。おい、何ひとついい返せないのか? しょせん、その程度の憂国戦士さまかよ!」
完全に煽り全開、喧嘩を売るものいいに、ヒロトはじっと耐えるしかなかった。
同行しているリアンもまたオドオドしだして、どうやって収拾つけようか混乱している。
「そもそも、あのクソキモい連中! あいつら、いったい何者なんだよ? おまえと、どう関係があるんだよ?」
アモスが、ヒロトと昨日同行していた仲間のことを、チンピラのような詰問口調で訊いてくる。
「親戚のお兄さんです、とか即バレする嘘いってみろ、前歯全部へし折るぞ? おい、聞いてんのかぁ? なんとかいえよ、ガキっ!」
アモスの恫喝で何事かと、周囲の人々が足を止めだしてきた。
路地からは娼婦たちが、橋にいる数人の男女も、アモスたちを指差している。
他にも、周囲の建物の窓からも、人の視線をリアンは感じだした。
たまらずリアンは、アモスの腕をつかむと強めにゆする。
「アモス、また声が大きくなってるから……。ほら、人が注目してきたよ……」
そういうリアンの声は、震えている。
「あらリアンくん、別にいいじゃない。このガキは、反エンドール集会に参加する、愛国者さまよ。きっとみんな、見る目も変わるわよ」
アモスが、ニヤニヤしながらそんな言葉を吐く。
周囲の人々の視線が、ヒロトに突き刺さる。
するとヒロトはその場から、猛ダッシュで逃げ去っていく。
「あっ!」
リアンは、一瞬追いかけようとするが思い留まる。
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