第2話

 ――――周りの人間が皆、逃げまどっている。

 何故、こんなに容赦なく腕を引っ張られるのか判らない。不意に砂に足を取られて転げ、母親と手が離れてしまった。母親は何かを叫びながら必死で少年の方に手を差し伸べたが、人の流れに流されていった。それが母親を見た最後だ。

 両手を突っ張って体を起こし、母親を探して人の流れから外れる。柵によじ登り、馬の背につかまった。

 砂塵は空一面に立ちのぼり、まるで巨大な竜がとぐろを巻いて暴れているようだ。

 少年の視線に気づいたかのように竜は一瞬動きを止め、竜の形が崩れた。

 空一面を覆っていた砂が突然大気の支えを失って、人間とその文化の上に襲いかかる。

 家族の記憶はただこれだけ。

 母親は自分をなんという名で呼んでいたのだろうか、それだけは知りたいと思う。

 母親の悲壮な表情を思い出すのは苦しくつらいけれど、その手を望んで離されたのではないことを憶えていたことは幸福だった。


 生き残り、と人は言う。

 だが、ヤミルが生き残った実感を持ったことは一度もない。

 生まれてきたことを知っている者が誰一人いないのだから。

 目の前で起こることは、あの世への川を渡る前の一瞬の幻覚かもしれないとさえ思っている。世界との手触りは遠く、曖昧だった。



 ザフィーラを失った生活は、清々しい空虚感に満ちている。

 自分の三倍はあろうかというような大きな眼を長い睫毛が縁取り、わずかにとび色を含んだ虹彩から終始、逃げ場のない好意を投げかけてくる。

 世界の中心で放射線状に輝く後光を背負っているようだった。

 見上げてくる瞳に光が入ると、金色にきらりと輝く。うっかりそれに見とれてしまうと、姫は嬉しくてたまらないという様子で微笑むのだ。

 彼女の晴れやかな笑い声を聞けば、どんな困難なことでも簡単なことのように感じたし、実際なにもかもうまくいく。

 ヤミルには応えられないことを彼女はわかっていて、わざと好意を隠さなかった。

「第一王女の思い人」に誰も縁談を持ち込まぬよう盾となってくれていた。

 誰も娶ることを許さぬ、と言い置いて行ってくれたおかげで、表向きに妻帯を指示されることもない。

 淡くぼんやりとした月を眺めて彼女を想う。

 彼女は月のようではなかったのに。



 王太子は二個中隊と後見人代わりの大臣数名を従え、国土に点在する街を順に訪ねる視察旅行を続けていた。

 成人を迎え、いよいよ即位が視野にはいってきた。王太子が王となり、この国を正しく治めるには、国土の隅々を知り、街の雰囲気や規模、各都市の部族の長の人となりを知り、有力者と関係を築く必要があった。

 道や街の整備も不可欠、王太子はそういってザフィーラが嫁いでから輪をかけて陰気になり引きこもりがちのヤミルを視察旅団に引っ張り出した。

 ヤミルは予想を上回る活躍で、素晴らしく交渉の役に立ったし、部族の長は軒並み彼に心酔し、どの街でも一番美しい娘と会わされて娶らないかと打診された。

 ヤミルは面倒な心理的事情を説明しなかった。

 その度に穏やかな苦笑を浮かべて、「心から思い慕う女性がいるのだ」と答えていた。

 その場にいる大臣と中隊長たちは、ザフィーラが彼に残した呪いのような命令を思って、愛する女性と結ばれない彼に心から同情していたが、王太子だけは別の意味で残念に思っていた。

 他の大勢の意見に反して、「ヤミルはザフィーラを愛している」と信じている。

 ザフィーラは5年以上全力で押しっぱなしだったが、その圧を失って明らかにヤミルは弱っている。調子がくるっているともいえる。

 いまなら一気呵成に攻め落とせるのではないだろうか。

 どうして二人の気持ちの時期があわなかったのか、と時の巡りあわせをただ残念に思っていた。



 王都の東、数か月にわたる長い視察はこの街で終わろうとしていた。

 昼の会食が終わった寛いだ席で、旅団の全員を集めて帰国の旅程を説明しているところだった。

 建物の外が騒がしい。

 落雷のような、そうでないような音がする。

「竜巻か 大きいな」

 窓から外を確認した中隊長が驚いたように声を上げる。

 その竜巻はふらふら動いていた。

 人と建物をきちんと拾い上げるように巻き込みながら、街の中心にひたひたと近寄ってくる。落雷のような音はそれが破壊する建物や木や城壁の音だった。

 巻き上げるときの音、回転する渦の中でぶつかり合う音。

「伝令班、馬に乗れ」

 突然、ヤミルが突き刺さるような大きな声を張り上げた。

「あれが、砂漠渡りだ。全力で走れ。あいつは追ってくる。四方に散って、救援を求めろ」

 文官である彼の越権行為を制止しようとした大臣を一瞥するや、ヤミルは突如腰の剣を抜き、無言でばっさりと斬り捨てた。

 彼の黄色い肌が返り血で真っ赤に濡れる。

 ヤミルは今まで一度も人前で剣を抜いたことがなかった。

 変化しないものとして「陶器のよう」と言われる彼の顔が憤怒かあるいは悲嘆でひどく歪んでいる。

 そういう事態なのだ、と歴戦の兵士たちは即座に理解した。

 伝令班は転げるように自分の馬に乗って、八方に走り出した。

 はじめ、砂色に見えた竜巻のようなそれは、メリメリかバリバリという音を立てながら巻き上げた建物の破片でどんどん黒ずんで、天に高く伸びる三角錐のような形に変化している。

 中隊長は極めて平静に、そして丁重に尋ねた。

「ヤミル様、我らはどちらに逃げればよいのでしょう」

 この場でヤミルが錯乱し、それが兵士に伝播すれば状況は収拾できない。

 その意図は正確にヤミルに伝わった。ヤミルは表情を鎮め、答えた。

 轟轟という音が近づいてきている。

「私はあれの最後を見た。あれはなにもかもを巻き込んで、アリジゴクのように砂の下に戻っていく。たぶん砂の魔物なのだと思う」

「砂の、では砂ではないところに逃げましょう」

「西に岩山がございます」

 副官が隊を整える笛を吹こうとするのをヤミルは制した。

「あれの足は凄まじく速い。隊をそろえている余裕はない。皆、剣を抜いて人々を追い立てながら山に向かってくれ」

 兵士たちは剣を抜き、天に向かって高く掲げ、鬨の声を上げた。

 西へと走りだす。


 ヤミルはその様子を見届け、身をひるがえすと馬に乗り、王太子を馬上に引きずり上げた。

 馬で逃げるのだ、と皆は思った。

 だが、彼は馬の首を『砂漠渡り』の真正面に向けて、馬に強く鞭を入れた。

 馬は命じられた通りまっしぐらに疾走する。

 二人が馬もろとも『砂渡り』に飛び込んだ刹那、がれきが馬に直撃し、馬の首が吹っ飛んだ。

 ヤミルは馬の体と自分の体の間に王太子を挟んで、がれきの直撃を躱し、渾身の力を振り絞って、王太子の体を渦の中心部に一気に押し込んだ。



 渦の中心は静かな上昇気流だった。

 体を天に向かって吸い上げられているようだった。

 息苦しく呼吸のできない数十秒の後、爽やかな風が頬を撫でる。

 王太子は恐れながら瞼を開いて、渦のてっぺんに座り込んでいる自分に気が付いた。

 足元は轟音を立てながら回転しているが、てっぺんは静かで、まるで噴水の上に乗っかっている鞠のように小さくバウンドしている。

 眺めおろした遠くの方に岩山へ逃げる人々の姿見える。

 反対側は『砂漠渡り』が破壊した街の形跡がまっすぐな深い溝になっている。

 その向こうに広がる蜂蜜色の砂漠。幾重にも折りたたまれる布のように描かれた輝く砂の造形。地平線にけぶる砂。思いのほか青い空。


「上に乗っている人がいるよ」

 背におぶわれる子供が指さした先に、王太子がいた。

 蛇使いに呼び出された蛇の鎌首の上にちょこんと乗っかるように。

 それと同時に、明らかに『砂漠渡り』の動きが鈍っている。行き先を見失って棒立ちになっているように見えた。

 上の方で、吹き流しのようなものがグルグルと回転している。

「ヤミル様ではないか」

『砂漠渡り』の上の方ですごい速度で回転している。

 まるで羽の欠けた風車のごとく、制御を失っている。

 馬の体は既に粉砕されたようで確認できなかったが、手綱のようなものが腕の何かに引っかかり、遠心力がかかっていて、渦の中に吸い込まれないようだった。

 吸い込むことができないことに『砂漠渡り』がイラついて嫌がっているのが伝わってくる。

 次第に渦がバランスを失って、中心がぐらぐらし始める。

 彼をつなぎとめていた綱が千切れた。

 ヤミルの体は放たれた弓矢のように一番星の方に吹っ飛んで行って見えなくなった。



 刹那、『砂漠渡り』が逃げた。

 風は一瞬で止まり、がれきは垂直に落ちた。

 塔のように積み上げられたがれきの上に、王太子は取り残された。


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