第14話 人魚姫は新天地で再起を狙う
故郷も声も捨てたのに、それでも王子と結ばれることができず、かといって王子を殺すこともできなかった人魚姫は、最期は泡となって消える。
しかし余りにも報われないからなのか、昨今は王子と結ばれ泡にもならずに済むエンディングも採用されているという。
――しかしハッピーエンドのあと、王子が人魚姫を裏切ってしまったら?
「井上波瑠(いのうえはる)?…名前だけなら知ってますよ」
「住館川(すみたてがわ)高校の女子水泳部でエース格だった子だよ。今回高等部2年に編入してくることになった」
次の授業の為に移動中だった翠は、廊下で理事長に呼び止められた。そこでもうじき新しい同級生になる女子生徒が、水泳の強豪校として知られる高校から編入してくることを聞かされる。
「そこ水泳の超強豪校なのに、その人めっきり大会とかで名前聞かなくなったんですよね」
「…病気や怪我ではないってことしか分からないけど、突然調子を崩したらしいんだ」
五星学園には『生徒数がそもそも少なくてその体を成さない』という理由から部活がなく、そのため翠は現在は編入後在籍するようになった縦浜のアーチェリークラブを経由し、高校総体等に出場している。こと水泳においては各種目の1~3位を総なめにするレベルである住館川高校のエースなら、そういう大きな大会の場で名前くらい聞きそうなものだが、少なくとも今年に入ってからはさっぱりであった。
「アスリートの助けになってくれる悪魔を宿して、かつ君自身も種目は違えどアスリートならなにか力になれるかもしれないからね、頼んだよ」
「そういう方向で助けになる能力レラジェにはないんですけど…」
理事長の言うとおり、レラジェにはアスリートを助ける能力があるが、その方向性は言うなればマネージャーとか応援団とかそういうもので、スポーツドクターやメンタルトレーナーではない。
この人たまにすごく無茶言うよなあと思いつつ軽いため息をつき、翠は次の授業の場である視聴覚室へ向かった。
「へー同級生増えるんか!」
翠からその話を聞かされた卓は嬉しそうに言う。1年生が一気に3人も増えたのをここ最近は羨ましそうに眺めていたので、無理もないだろう。また自身もスポーツはやっていたからか水泳の強豪としての住館川高校のことは知っており、そんなすごいところから来るのかと驚いていた。
「でももしかしたら水泳は辞めちゃってるかもしれない。急に調子崩してそれっきりなんだって」
「エース格やったんやろ?よっぽど辞めたくなるようなことあったんやろな…」
俺みたいにやっかまれてきっつい嫌がらせにあったとか。と翠に言う卓の表情には少しの陰りが見える。自分は両親や学園関係者、在籍するクラブの面々など周囲に恵まれているからこそ今の環境があり、またそれはいつ崩れるか分からないのだということを、翠は改めて思い知らされる。
「力になってやれって言われたけど、結局その人のほんとの所はその人にしか分からないからさ…」
「つか普通に何から何まで分かったら不気味すぎやろ」
卓の言うことはごもっともである。力になるといっても、本当に水泳を辞めていた場合無理に引き戻そうとしてもいけないし、かといって理由を嗅ぎ回ったり、これまでの経歴を否定したりしてもいけない。
「ほんと無茶言うよなあ…」
そう言って勢いよく机に突っ伏す翠のポニーテールが大きく揺れた。
「…プールを見ておきたい?」
「無理なら構わないんですが…」
理事長が翠に波瑠のことを話した翌日に彼女――井上波瑠が学園にやってきたのだが、この学園がどういう場所か、そして彼女を含めた在校生がどんな人間かを説明し、さあこれから学内案内だ、というところで理事長は一風変わったお願いをされた。
「確かに室内型のプールはあるけど、最後の水泳の授業が終わってから2週間以上経ってるしきれいかどうかは…」
「いいんです、見るだけなので」
まあ本当にそれだけなら、ということで、理事長はそそくさと職員室へ向かうと、しばらくしてプールのある建物の鍵を持って戻ってきた。
「用が済んだら、鍵は僕に返してくれればいいからね」
「ありがとうございます」
そう言うと波瑠は失礼します、と深々と一礼し、理事長室を後にした。
「あの感じだと、水泳自体を辞めたつもりはなさそうだな…」
理事長はドアを見つめながら、再び椅子に静かに腰を下ろし、波瑠についての書類一式を読み直し始めた。
「…なんかプールの鍵開いとんな」
水泳の授業は補習も含め全て終わっており、プールに用があるとすれば点検のための業者くらいなものなのだが、何故かプールのある建物の扉が半開きなことに気づいた卓はそれを不審がる。隣の席に座っていた翠も卓の様子に気がつくと、窓からプール方面を覗く。
「まさか誰か忍び込んでる?」
「でも鍵職員室やぞ」
「ピッキングとかやる奴はやるでしょ」
翠に言われ、卓はしばらく考え込むと、突然外に出ていこうとした。
「ちょっと俺見てくるわ」
「なんで台風の日にわざわざ川見に行く年寄りみたいなことすんの!?」
翠がカッとしやすくなるのはスポーツ観戦で興奮しているときと変身中だけで、そうでなければ基本的には周りをよく見ることができるし、海生ほどでないにせよ機転も利く。現に今まさにわざわざ危険を冒しにいくこともないといった理由から卓を止めている。
「勝手に入ったんがほかの悪魔なら倒さなあかんし、不審者なら大人に報告せなあかんやん」
「それはそうだけど」
プールの方へ向かう卓を、ああもうとぼやきながら翠は追いかけた。プールのある建物前に着くと、卓はそのそばに打ち捨てられていた大きめの竹箒を当座の武器として手に取った。
「俺変身しても戦闘力そんなないからな。不審者だろうが悪魔だろうが、お前ならどうにでもできるやろ。あてにさせてもらうで」
「…まだ悪魔のがいいな。不審者はマジで対処法分かんない」
かくして高等部2年生は、卓を先頭にしてプール棟へ突入していった。そして二人で更衣室やシャワー室、トイレ、さらには管理室を片っ端から開け、物色していく。
「今んとこ人はおらんな。生き物はさっき潰したゲジゲジだけや」
「むしろいたら困るって」
二人の探索も虚しく――といっては語弊があるが、卓の言うとおり生き物はトイレを這い回っていたゲジゲジしか見つからず、それ以外の何者かの気配は全く感じられなかった。残る箇所はあと1つ、プールのあるフロアだけとなった。
二人はその扉の前でそっと耳をそばだてる。
「…なんかいる…」
翠の顔が一瞬恐怖感で歪む。卓も卓で翠のその台詞を聞くと「いやマジでか…」と呟いた。
「バシャバシャ音がするからたぶん誰か泳いでる…意味分かんないんだけど…」
「…とりあえず俺が先頭で突入するから、お前はいつでも変身できるように心の準備しといてや、狩野」
「…分かった」
プールにいる何者かを悪魔と想定し、攻撃力があり戦闘態勢への移行がスムーズにできる翠にそう指示をする卓。それにしてもこの季節にプールに忍び込んだ目的は何なのだろうか。そんな疑問も恐怖感もまとめて解決すべく、二人はプールへと続く扉を開ける。
――確かに翠の言うとおり、プールで泳ぐ人影が見えた。
その人影に特筆すべき箇所があるとすれば、人間の女性のようにも見えるが腰から下が魚のそれであることだろう。ピンクとも薄紫ともとれる色の鱗が、蛍光灯を受け様々な表情を見せる。
「…人魚!?」
「嘘やろ実在するんか!?」
「えっ!?」
プールに突入した二人の驚愕の混じった悲鳴に泳いでいた人魚も気がついたようで、泳ぐのを止め水面から顔を出した。貝殻や真珠のような髪飾りを着けた頭には、小さいが角も2本見受けられる。
「なあこの場合どこに連絡すべきなん!?水族館!?」
「あたしに聞くなぁ!」
「待って待って違うの!違うんだって!あと水族館は勘弁して!?」
「何がちゃうねんて!」
神話生物を目の当たりにし完全にパニックな翠と卓をよそに、人魚はコース端に近づいてくる。そこからプールサイドに膝にあたる部分だろう箇所を乗せると、人魚は瞬く間に深緑のブレザーにグレーのチェック柄スカート姿の女子高生に変わる。
そのブレザーの襟元には、住館川高校の校章を模したピンバッジがついていた。
「…つまりあんたがその井上波瑠さん?」
「お前やったんか新しい同級生…あっ俺鳩山卓や」
「あたしは狩野翠」
「そうです井上です…すごく驚かせたみたいでごめんなさい…」
「いやそれはこっちもそう…パニクってごめん…」
3人は互いに謝りながら簡単に自己紹介をする。
先ほどプールで優雅に泳いでいた人魚の正体こそ、翠が昨日理事長から話を聞いていた編入生である井上波瑠であった。聞けば水泳からはしばらく離れていたものの、職業病的なものか新しい学校のプールの様子が気になったようで、理事長に鍵を借り中を見に来たという。そうしているうちにいてもたってもいられず、思わず自分に宿ると聞かされた人魚の姿の悪魔・ウェパルの力を開放し泳ぎ始めたとのことだった。
「やっぱりどんなに離れても、私水泳好きなんだなって」
波瑠がプールを遠い目で見つめながら言う。諦めきれない、そんな感情を波瑠の表情から感じ取った翠は、嫌なことをなるべく蒸し返さないよう質問の仕方に配慮し尋ねた。
「思い出したくないことがある、とかならいいんだけど、なんで水泳から離れてたの?」
「話すと結構長くなるんだけど、聞いてくれる?」
そして波瑠は静かに語り始めた。
――もともと波瑠はストイックな方で、住館川高校を選んだのも無論水泳の強豪だからであったが、入学後も以前と同じように練習に励んでいると、練習終わりにある男子生徒に声をかけられるようになったという。
その男子生徒は1学年上で、テニスをやっていたが肘を壊してしまったという。その治療にも身が入らない状態が続いていたが、プールに行くには寒かろうが雨が降ろうが練習に励む波瑠を見て何か思うところがあったようで、心を入れ替え前向きに治療に臨むようになったようだった。
練習や治療の傍ら続いた交流は、そのうち2人の関係性を変えた。波瑠が住館川高校に入学して半年ほど経った頃、その男子生徒から「君のひたむきに頑張る姿を見て治療に前向きになれて、肘の具合もよくなってきた。今後は恋人として応援し続けたい」と告白されたのだ。自分は水泳に打ち込みたくてこの学校に来たから、普通のカップルらしいことはあまりできないかもしれないとは伝えたが、それでもいいと言ってくれた。それに波瑠も悪い気はせず、晴れて付き合うことになったという。
付き合いはじめは彼は大会があれば観にきてくれたし、その前日には電話もくれた。波瑠も波瑠でたまの休みには一緒に出かけたり等に誘ったりもしていたが、冬が過ぎきって新入生が入学してきた頃異変が起きた。彼となかなか連絡がつかなくなったのだ。
一体何があったのかと校内にいる間彼をそれとなく探したが、ついに彼が別の女生徒と楽しそうに話している姿を目撃してしまった。どういうことか問い詰めたところ、「自分に必要だったのは常に側で癒やしてくれる存在ということに気づいた」というようなことを言われ、その瞬間2人の関係は終わったとのことだった――
「それだけで済んだら良かったんだけど、嘘をつかれ続けてたんだなってなっちゃって、水泳どころか日常のほぼ全てに身が入らなくなって…」
それで大会に出るどころではなくなり、次第に部活内にも居場所がなくなり、表舞台から姿を消すことになったのだという。それこそ人魚姫が泡となって消えるように――
「…いやそんなん向こうがほぼほぼ悪いやんか!てかシンプルに意味わからへんわ!」
「頑張ってる姿が好きとか応援するとか言っといて、なのにやりたいこと頑張ってたら話が違うみたいなこと言い出すのホントなんなのそいつ!?その言葉そのまま返すレベルなんだけど。呆れる!」
波瑠の話を聞いた卓と翠がカンカンに怒りだす。自分のやりたいことを応援してくれると信じていた波瑠を裏切り続け、結果波瑠は水泳に身が入らなくなってしまったのだから、元彼の行動に褒められる要素は全くない。
「俺妹おるけどそんな態度とられてたら彼氏殴るな、大嘘つきやんか」
「顔変形するくらいやりな」
攻撃的とされる悪魔を宿す翠だけでなく、卓までなにやら物騒なことを言い始める。我が事のように腹を立ててくれる新たなクラスメイトの存在はうれしかったが、同時に波瑠の中には申し訳なさも生まれていた。
「いやでも、そんなことでなにも手につかなくなる私のメンタルも豆腐っていうか…」
「でももヘチマもあらへんで!」
「そんなことで済ませられないほど酷いことされてんだからさ!これ立派に裏切られてるからね!?」
そもそも強豪校でエースの座をものにできるくらいストイックなあんたはちっとも情けなくないし豆腐メンタルじゃない、全面的に元彼が悪い!と翠はさらにまくし立てる。アスリートに害をなす不届き者を悪魔レラジェは決して許さないのだ。
「…もちろん水泳そのものは辞めたつもりは全くないんだけど、今更あの場所に戻れるのかなって少し思うんだ。4か月は水泳から離れてた気がするし」
「見学ついでに泳ぎ始めるくらい好きなら、また戻ったらええねん」
「でもこの学校部活がないって聞いたから…」
できるならまたプールに戻りたいが、部活がないこの学園においてどうすればまた選手としてのキャリアを広げていけるか悩む波瑠をよそに、翠と卓は顔を見合わせ笑顔を浮かべた。
「こいつみたいに学外のクラブとかに入って、そこ経由して大会に個人として出るって方法があるで」
「学校の推薦さえ下りれば、五星学園の名前背負って大体の大会には出られるよ。あたしそれで高校総体行ったし」
「そんな方法があるの!?」
方法としてはメジャーだが、今まで強豪校にいた波瑠には初耳だったようで、驚きと歓喜で少し息が弾んでいる。少し重かった表情も次第に和らいでいった。
「あとさ、あんた元彼と交流持つようになってから、ちょっとそいつのために泳いでた節ない?自分ががんばればもっとけがの治療に積極的になってくれる、みたいな」
「…」
どうやら翠の言うことは図星だったようで、波瑠はつい口を閉ざす。思い起こせばタイムが上がろうが、大会でいい記録を出そうが、それが自分のものであるという意識は全くなかった。知らず知らずのうちに、自分と戦い自分のために泳ぐ気持ちがすり減っていたのだ。
「ここにお前を縛るもんはないし、もちろんクソ男もおらん。これからは自分のためだけに水泳やったらええねん」
「まず自分をもっと大事にしなきゃだめだよ」
「それもそうだよね………もういいや、これからもっと自分のために、わがままに生きよう、悪魔らしく」
…まあ多少は元彼見返したいけど。惜しい奴をフッたなって思ってくれたら万々歳だなって、と波瑠はようやく満面の笑みを見せて言う。
「ええやんええやん馴染んどるやん」
「そうこなくっちゃ」
「あとしばらく恋愛はしない!これからは女の友情を育てることにする。ってことだからよろしくね、狩野さん」
「へっ?」
「おい俺はどうでもええんか!」
水泳に復帰する決心以外にも、もう一つ大きな決心をした波瑠は、卓をほぼ無視して翠の手を取る。
――王子に裏切られた人魚姫は、傷心のうちに流れ着いた新天地で、憎めない怪盗と闊達な狩人に出会う。そして自分のために生きるため、できれば嘘つき王子を見返すため、新たな友を得て再起を図るのだった――
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ソロモン72柱 序列42番 ウェパル
ヴェパール、セパルとも。29の悪霊軍団を率いる地獄の公爵で人魚の姿で現れる。フォカロル同様海を支配するとされ、海に嵐を巻き起こしたり、軍艦の幻影を見せたり、人間に破傷風を引き起こし3日以内に殺す能力を持つが、嵐に巻き込まれた船を助けたりすることもあるという。
大天使ガブリエルのもとで海洋生物の世話をしていたが造反した、ともされるが定かではない。
海での安全祈願の助けとなるが、海を汚す者は決して許さない。
井上 波瑠(いのうえ はる)
高校2年生。もともと水泳の強豪校である住館川高校の生徒で、自身もまた女子水泳部のエースであったが、2年生になったばかりのころ当時の彼氏にひどいフラれ方でフラれ、そのまま水泳はおろか日常生活に対しても無気力気味になり、表舞台からはフェードアウトしていた。しかし五星学園に編入後、水泳に復帰する決意を固め再出発した。
上記のウェパルが憑依しており、変身後はピンクとも薄紫ともとれる不思議な色の鱗を持ち、貝殻や真珠のような髪飾りを付けた人魚の姿だが、本質は悪魔なので小さいが角がある。変身すれば水中でも呼吸ができるようになるようだ。
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