Extra Report 3 読書について

「――だからまとめると、哲学者であるリチャードソンは、既成の哲学の素養を精霊術に積極的に援用しているということなんだ。術の系統分類や霊の循環は、エンペドクレスやヘラクレイトスなどのソクラテス以前のフォアゾクラ哲学者たちティカーから着想を得ているし、物質に働きかけて生成する術の原理はアリストテレスの質量と形相の関係に似ている。現代呪文の基礎になっている錬金術は、新プラトン主義に端を発してルネサンスに至るまでの自然認識の基盤となっている。だけどリチャードソンは、霊の循環を根本原理として立脚している一方で、術を行使する主体と行使される客体という主意主義的な図式を強く意識しているんだ。術という運動の主体と客体の関係をコントロールするための規則が霊的格律なんだけど、これは明らかにカントの格律からの影響が見て取れる。つまり、前ソクラテス派の自然学者から科学以前の自然哲学と、デカルト以来の近代哲学における主意主義的理性主義、これら相容れない二者を弁証法的に乗り越えようとする意図がリチャードソンにあるということだ。哲学史的には、パスカル対デカルトという風に置き換えてもいい。だが、このような弁証法的な思弁哲学は言うまでもなくヘーゲル的な全体性に陥る危険をはらんでいる。この陥穽を克服しないまま術師界のスタンダードとして精霊術を採用することは、術師界全体を帝国主義に導くことにつながり兼ねないんだ。マガツがリチャードソンを批判している論拠は、恐らくそこなんだよ」

「……なるほど。(わからん)」


 日曜のアイアンモール一階のフードコートは、人でごった返していた。賢治と桐野は、四人掛けのテーブルで向かい合って座っている。現世とイソマツは、まだ注文が終わっていない状態であり、先に注文を済ませた二人が荷物を見張ることになったのだ。

 三階にある書店グリモワール・バザールでリチャードソンの本を購入してからというもの、ずっとこの調子で賢治は哲学の話をし続けている。このようなことは今日だけに限らなかった。何かのきっかけさえあれば、賢治は桐野に哲学もしくはリチャードソンの話をするのである。はっきり言って、いい加減うんざりしつつあった。

 だが彼女は、半ばあきらめてこの退屈なオタ話に付き合ってあげていた。何故なら、三人のうちに賢治がこの話題を触れる相手が桐野以外にいないからである。現世では幼すぎるし、全く興味のないイソマツはすぐに話題を変えたり冗談で茶化してしまうからだ。そのため消去法で、賢治の話を相手するのはもっぱら桐野の役目になりつつあった。


「だからこそリチャードソンは、術を行使する術師の姿勢としてプラグマティズム、とりわけデューイの道具主義を念頭に置いているんだ。形而上学的な術がはらむ全体性に支配されることなく、実践的な道具として主体であるオレたちが利用していく態度をリチャードソンは、1953年の魔導哲学の著作『道具としての精霊術』で表明している。そこでは、ハイデガーの道具的連関の背景にある全体性を指向する実存哲学に対する批判が……」

(早く二人が戻って来るか、注文ベル鳴らないかな……)


 ずっと我慢して聴いていた桐野だが、さすがに限界が近づいてきた。そろそろ賢治の口を閉ざさせようかと、真剣に考え始める。

 桐野は学校の授業である倫理もとりわけ好きじゃなく、自発的に哲学書を読む習慣もない。学校の朝読書では、歴史や神話などゲームの世界観の理解に必要な本を読むことが多い。だが、古典は読みづらいから苦手である。ゲームへの興味の延長線上で、武道や銃火器、軍事に関するものや、裏社会のドキュメントなども読むが、これらはさすがに朝読書では読まない。小説はミステリが多いが、薀蓄うんちくや思想がうるさいものは目が滑って中断してしまう。あとは宮沢賢治など、現世がすすめてくれた本くらいだ。

 このような具合だから、賢治の言っていることの九割が意味不明だ。今まで習得してきたどの呪文よりも、「呪文」に感じられる。


「……だけど、後期リチャードソンの著作における時間と空間に関する議論には、現象学との親和性が見られるんだ。現象学および実存哲学への批判が顕著に見られた中期以前からのこの変遷は、転向というより――」

「ただいまなのだー!」

「いや~、ナメクジの行列の方がマシだね」


 イソマツと現世が戻ってきた。

 ピッピッピー。同じタイミングで、桐野の注文ベルが鳴る。

 桐野は「しめた」とばかりに、「取りに行って来る」と席を立った。


(……さすがにここまでは、保護役の務めじゃないよね? 徳長先生には、特別手当を出して欲しいわ)


 妖豚ようとんラーメンが乗ったトレイを受け取りながら、桐野は心のなかで愚痴った。戻ってきたら、また話の続きをされると思うと、気が重かった。




   ★


 アイアンモールを後にした四人は、因幡邸へと変えることになった。彼らは、清丸町一丁目のすり鉢の縁状の道路を渡り、木漏れ日の坂を登ろうとしていた。時刻は三時過ぎ。そろそろ徳長が用事から戻ってくる頃で、いつも通り魔術の授業を受ける予定だった。


「リチャードソンは『読書の自由』において、『読書は人生を豊かにする道具に過ぎず、その道具に振り回されては却って己を貧しくする』って言っていてな……。オレも、その通りだと思う。読んだ量で優越感を覚えたり、身勝手に敷いた基準で理解度を競いたがるような人間は、自分を貧しくする読書をしているよ」

「わたし、本そんなに読まないから、よくわからないよ……」


 相変わらず賢治は、桐野にリチャードソンの話をし続けている。

 今日は何時にも増してしつこかった。どうも、最初アイアンモールに行ったときに買えなかったリチャードソンの著作を、昨日貰った小遣いで買うことが出来たため、かなりテンションが高くなっているらしい。


(マズい……。これ以上話しかけられるのは、さすがにしんどい。手が出そうだ)


 桐野の額に、うっすらと青筋が走る。だが話に夢中になっている賢治は気づかず、なおも喋り続けている。


「大丈夫! それでいいんだよ! 読書は自分のペースで! さっき挙げた一文が載っている同じ論考では、他にも『読んだ本の量よりも、読み込んだ時の量・・・・・・・・が肝要である』って言っているんだ。この言葉は明らかに、ショーペンハウアーの『読書について』が念頭に置かれていて――」

「あのさ」


 桐野は思わず、腹からややドスの効いた声を出してしまった。


「興味がないって、わからない? 相手に構わず喋り続けている時点で、アンタも道具であるはずの読書に振り回されている側だってこと、自覚ないの?」


 それは、自分でも驚くほど棘のある物言いだった。

 賢治は目を見開く。それからすぐ、申し訳なさそうな表情に変わった。


「ごめん……。オレ、一人で喋って気持ち良くなっていた」


 賢治は、憔悴しょうすいした声で言った。

 気まずい空気のなか、四人は因幡邸の開かれた門の中へと入っていった。




   ★


 その日の夜。

 因幡邸での魔術の勉強も終わって賢治と現世が帰った後、夕食と風呂を済ませた桐野は、自室に戻っていた。タンクトップからのぞき出た両腕には、風呂上がりの熱がまだ残って淡い桃色に火照っていた。


(ちょっと言い過ぎたかな……)


 桐野は昼間、賢治に注意したことを気にしていた。


(いいや、アイツはあのくらい言わないとわからない。わたしは間違って――)


 そう思いかけて、思考を中断した。

 桐野の机に置いてあるブックスタンドに立てられていた、一冊の薄い文庫本の背表紙が目に入ったからだ。

 それは、以前賢治が頼んでもいないのに貸してきたマイケル・リチャードソンの『読書の自由』だった。


(ゲ……。これ、今日の昼にアイツが言っていた本じゃん)


 ただでさえモヤモヤした気分なのに、そのモヤモヤの原因といえる書物が視界に飛び込んできて、さらに気持ちが蟠った。


「……」


 だが、桐野は視界をそらすことなく、それを手に取った。


「自分で貸した相手にネタバレするなよな……」


 そう一人ごちて、おもむろに本を開いた。

 五ページも読まずに、睡魔が襲ってきた。桐野は、歴史や軍事学などの具体的な事柄に関すること以外の記述を目にすると、眠くなる性質なのだ。



 読書は人生を豊かにする道具に過ぎず、その道具に振り回されては却って己を貧しくする。読書とは他者の思考を追体験する仮想経験であり、ある書物を鵜呑みにしてそれを厚顔無恥に喋り散らすということは、自らが経験していないことをさも経験したように言い張るに等しい悪業である。換言すれば、経験の甘い蜜を横取りする行為といえる。それどころか、この仮初めの経験を盾に他人を見下して優越を誇る者が、情報の氾濫する今日の社会では闊歩しており、私はこのような状況を好ましく考えていない。



とりわけ、このリチャードソンの文体はひどく苦手意識を惹起させる。はっきり言って悪文だと思った。翻訳者の力量もあるだろうが、生硬な言葉選びが多く、上手く頭に入ってこない。文章のねじれもあり、一文に主題が二個以上含まれていることがある。目が滑って仕方がない。

 もう今日は読むのを止めようか、と思い始めた時だった。



 他人の読書を笑うことは、読書をたしなむものにおいて最もやってはならないことである。読書のみならず他人の趣味を笑うことは、極めて卑しき所業である。



 その一文が、ぼんやりした桐野の意識を目覚めさせた。


(そういや……。青梅は一度も、わたしの読書の内容と量について否定したことはないな。その他の趣味も、ただ感心してくれるだけだ……) 


 桐野は汎人界での学校や、術師界の中学校のこと、また引き受けてくれた親戚の家のことを思い出した。

 低学年のうちは、歴史や神話の少し難しい本を読もうとすると、教師からは「もっと子どもらしいものを読みなさい」と別の本を押し付けられ、本を読まない同級生からはからかわれた。親戚からは、「もっとウチの子や友だちと遊べ」と言われた。

 母親が行方不明になって、親戚の迫害や学校のいじめがひどくなると、誰かが見ているところで本を開くことさえなくなった。読書好きな大人しい子が集まるグループからは、忌み嫌われていて、まるで接点はなかった。

 読書うんぬん以前の環境の問題が大きいが、いずれにしても桐野は、自分の趣味に干渉してきたり蔑視するような連中に囲まれていたわけだ。

 だが、賢治は違った。


(……ああいう、真面目っぽいヤツほど無意識に偏見を持っていて、心の中じゃわたしみたいなのを見下していると思っていた。でも、偏見を持っていたのはわたしの方だったんだよな……)


 ペラリ。

 ページをめくる静謐せいひつな音が、部屋のなかで反響した。




   ★


 それから賢治は、今日まで哲学とリチャードソンの話を桐野にしなかった。

 勉強など必要なことには取り組むものの、桐野と話すときはやや遠慮している節が見受けられた。

 そんな感じで何日か経ったある日のこと。下校した桐野たちは、因幡邸でいつもの勉強のために集まっていた。


「青梅」


 桐野がお茶の間で座っていた賢治の名前を呼ぶ。


 賢治が「なんだ?」と振り向いた。


 桐野は右手に持った文庫本を彼の目の前に差し出した。

 それは、賢治が以前に貸した『読書の自由』だった。


「これ読んだよ。ありがと」


 すると、賢治の顔が見る見る綻んでいった。


「そうか! それで、どう――」


 歓喜に満ちた声でそう言いかけて、賢治は言葉を止めた。前回浮足立って失敗したため、またはしゃいではいけないと自戒しているようだ。

 愚直とさえいえる賢治の素直な態度に、桐野は毒気を抜かれてしまった。


「言っていることのいくつかは同意するけど……全体的には、すっげえ読みづらかった」


 率直な感想が、桐野の口を突いて出る。

 そして頭に浮かんだ言葉が、次々と溢れだしていく。


「一文に言いたいことを二つも三つも入れるな。文章がねじれているんだよ、少し区切れ。あと、構成も少し練り直せと思うわ。思いついた順に書いているって感じで。格言めいた言葉が序盤で出まくる割りに、結論がいまいち対応してなくて尻つぼみだ。あと原文は分からないけど、専門的なこと以外でわざわざ難しい言い回しを使っているのも目を滑らせる原因だね。他には……」


 そこまで言いかけて、桐野は賢治が黙ってうつむいているいることに気付いた。

 桐野は「しまった」と思った。自分の好きなものを否定的に言われて、嫌な気分がしない人間などいない。自分がされて嫌なことを、思わずしてしまったことを桐野は激しく後悔した。


「ゴ、ゴメン。文章はともかく内容は――」

「そうなんだよ堺!」


 だが、予想外の反応が返ってきた。

 賢治は喜色満面で、桐野のディスりまくりな感想を受け入れた。


「初読のときはオレも、内容を理解するのに夢中で気づいていなかったけど、リチャードソンはひどい悪文なんだ! もしドイツ語圏生まれだったら、カントといい勝負だろうな!」


 桐野は呆気に取られてしまった。

 しかし賢治は、とても嬉しそうな様子で『読書の自由』の内容について話し続けた。


(自分の尊敬している人物の作品をディスられて、喜んでいるよコイツ……)


 恐らく賢治は、今まで本を貸す相手も呼んでくれる相手もいなかったのだろう。だから今回、こうして桐野が読んでくれたことが嬉しくて堪らないのだ。それが否定的な感想であったとしても。


「じゃあ堺、『読書の自由』を読んだならさ……」


 そう言って賢治は、自分のカバンの中をごそごそとあさり始めた。

 そして、何かを持って桐野の前に差し出した。

 それは三冊の本だった。


「……」


 桐野は無言でそれを受け取る。一番上の一冊目は文庫だったが、『読書の自由』の二倍くらいは厚い。下の二冊は両方ともハードカバーだ。


「次はこの三冊を貸すよ! 上の一冊目は『哲学書の読み方』っていうリチャードソンの本で、『読書の自由』と同じで読書に関わる著作だ! 哲学書は一見して難解だけれど、その内容は誰しもが一度は経験した事柄や身近にある物事を主題にしていることが多いんだ。特に古典は、現在では『常識』とされていることが結論になっている場合も多い。だからこの本は、哲学を専門的に勉強している人以外の人が、哲学書を読むための手引きなんだ! ……まあリチャードソン自身が悪文でしゃちほこばった言い回しを好むものだから、壮絶な皮肉になっているんだけどな! だから下の二冊は、リチャードソンの思想の解説書にしたぜ! 一冊目はドミニク・ラブの『リチャードソン入門』で、彼は西海岸リチャードソン派という学派の……」


 賢治はとても楽しそうに、べらべらと喋り続ける。徳長が勉強を始める合図をするまで、恐らくは止まらないであろう。


(……。やっぱり、うぜえ!!!)




――(了)

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