涙2
それから一時間ほど後。俺はクロと自宅前にいた。
もちろん、目的はキーアイテムの奪取だ。
俺たちは家のドア前に立ち、二匹でにゃぁにゃあと鳴いた。
クロは珠姫とまた会えるのが嬉しいのか、少し浮かれた様子だ。
俺は鳴きながら珠姫の部屋を見上げる。
窓が開き、初夏のぬるい風にカーテンが揺れているのが見える。灯りが点いているので、珠姫はきっと中にいるはずだ。
果たして十分もしないうちにドアが開き、珠姫が姿を現わした。
服装はいつもと同じような、水玉のTシャツにショートパンツだった。
だが面相は、以前とは違っていた。
先日珊瑚と話しているときは、遠くて気づかなかったが、珠姫はかなりやつれていた。眼の下に隈まである。夜もよく眠れていないのだろう。
責任は、恐らく俺だ。
絶句した俺たちの前で、珠姫は精一杯の笑顔をつくると、
「おやぁ。戻ってきたんだね~。ふたりして可愛いぃ」
と、ふにゃけた声で言った。
珠姫は手を伸ばすと、まずクロを抱いた。
クロがびくり、とたじろぐ。珠姫のことをまだ魔に魅入られた者と思っているのか、あるいは恋心がそうさせたのか、俺にはわからない。
俺とクロは、珠姫に誘われて家に入った。
自分の家なのに、他人行儀である。
一歩中に足を踏み入れた俺は、仰天する。
玄関の靴が、まったく揃っていない。廊下には埃と、母と珠姫のものだろう長い髪の毛が落ちている。さらにリビングには、コンビニ食の容器が散乱している。
俺は悄然とする。俺のせいでこの家は、今危機に瀕しているのだ。家事担当の俺がいないせいで、何も立ち行かないのだろう。
母の気配はなかった。おそらくまたデスマだ。兄も母もいない家で、独りで過ごす珠姫の気持ちはどんなものか。
すまない。珠姫、母さん。俺のせいじゃないんだけれど、こんなことになってしまって。一刻も早く人間に戻れるよう、努力をするから――。
珠姫はソファに座り、クロと俺の背中を撫でていたが、突然、
「こんなに汚れちゃったから、洗わなきゃならないよね~。一緒にお風呂入ろっかぁ」
と言った。
俺は
しかも俺もクロも、そんなには汚れていない。毛繕いも毎日せっせとしている。なのにこいつは風呂に入れようとしている。
呆れた。前から整頓もできないくせに潔癖だと気づいていたが、想像を上回っていた。
部屋の隅に逃げた俺とクロの前に、珠姫は立ち塞がると、にへ、と緩んだ笑みを浮かべた。
俺たちは、風呂にいる。
どうしてこうなるのか。兄妹で風呂に入るなんて、もうかなりやばい年齢である。人間に戻った後、猫が俺だったことは隠し通さねば。きっと殺される。
湯舟に珠姫が浸かっている。やつれた顔に血色が戻って、喜ばしい限りだ。
俺は濡れたまま、洗い場にいる。次に起こる事態を想像したくない。
ざば、と珠姫が立ち上がる。湯気の向こうに色んなものが見えそうになったので、俺は思わずぎゅっと眼を閉じる。
珠姫は洗い場に出ると、俺とクロを洗いはじめた。
湯で薄めたアミノ酸系シャンプーを身体につけ、ごしごしとこする。
うわ、気持ち悪い。辛い。早く終わってくれ。
祈りが通じたのか、珠姫はさほどには長く洗うことなく、俺の上に丁寧にシャワーで湯をかけた。これは結構気持ち良かった。
横を見ると、クロも同じ心持ちなのか、それとも珠姫に洗われて感動しているのか、鳴きもせず大人しくシャワーを浴びていた。
目の前には、珠姫の細いくるぶしがあった。上には棒のようなふくらはぎ。その上は見ない。
見えないのではない。見ないのだ。俺は紳士だからして、兄妹でそんな趣味に走ることはない。断じてない。
珠姫は俺たちを抱くと、湯舟にそっと戻った。全身が温かい湯に包まれる。水は苦手だが、これは確かに気持ち良い。
クロなどは忘我の域に達してしまったのか、眼がとろんとしている。
珠姫がそっと語りはじめた。
「
俺はただただ話を聞く。胸が痛い。
「学校でもね、肩身狭いよ」
頬から顎、胸へと涙が落ちていく。俺はどうしたらいいのかわからないまま、ただそれを見つめる。
「たまきぃ、小さい頃、お兄のお嫁さんになりたかったんだぁ。もちろん今は、そんな気持ち悪いこと思ってないけど~。お兄、かっこよくなくなっちゃったからさぁ。でもね、やっぱり大切なんだぁ。大切な、たった一人のお兄だから――」
珠姫が嗚咽する。俺は前脚を伸ばし、肉球で珠姫の頬に触れる。
珠姫はありがと、ありがと、と言いながら、しばらく泣いていた。
珠姫も俺たちも湯でふやけてしまうのではないか、と心配になるころ、ようやく風呂から開放された。
珠姫は真新しいタオルで俺たちをよく拭ってから、自室に連れて行った。ドライヤーをかけられなかったことは僥倖だ。
「ちょっと待ってて~、ご飯食べてくるから。本当はアイスだけでもいいんだけどぉ、お兄が怒るからぁ」
いたずらしないでね、と言って、珠姫は部屋を出て行った。
「罪な男だな。お主は」
とクロが言った。俺は憤然とし、
「うるさい。おまえらが飛行機の上で暴れたりするから、俺たち兄妹がこんな目に遭っているんだ」
「すまぬな。反省している」
「ふむ。で? 珠姫と一緒に入った湯はどうだった?」
「や止めろ。ともかく今は、〈刻駕〉の気配を探す。いいな」
「わかった」
俺たちは、家捜しをはじめた。
妹の部屋を荒すのは気が引けた。特に相手が精神的に参っているときにこんなことをするのは、かなり罪悪感をともなう。だがやるしかない。
自分のテリトリーだけは綺麗にしておきたいという発想からだろうか、珠姫の部屋は、玄関やリビングに比べて片付いていた。
この間広がっていた五芒星や本は、どこかにしまったらしく、影も形もない。
「少しだが、〈刻駕〉の気配がするぞ。どこかにあるはずだ。徹底的にやる」
クロが断定した。こうなったら
そのとき、ぎ、とリビングのドアが開く音が聞こえた。
ままままずい。珠姫の奴、もう食事を終えたのか。戻ってくる前にアイテムを見つけなきゃ。
焦り、二匹で押入れの中を引っかき回す。珠姫はトイレに入った後、階段に足を乗せ、ぎしり、ぎしり、と重たく響く音を立てながらゆっくりと登ってくる。
刻刻と近づく珠姫の気配。慌て捜索する俺たち。苦しいほどに息が詰まる。
「まだか! 早くしろ!」
「もうすぐ、もうすぐだ!」
応えたクロの声は上ずっていた。明らかに焦っている。
珠姫が二階にやって来たとき、クロが叫んだ。
「これだ! あった!」
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