停滞1
翌朝。
俺は
幼馴染みだけあって、珊瑚は俺の家からさほどには遠くない場所に住んでいる。
俺の家と同様、白い壁の二階建てだ。もっともうちの灰白色と違い、こちらの白壁はぴかぴかと新築のように輝いている。おそらく定期的に清掃しているのだろう。見習うべきことだ。
辺りにはブチの匂いが濃くたちこめていた。湿気を含んだ土のような匂いだ。おそらく珊瑚を追ってこの近辺までやって来たのだろう。悔しいことだが、クロの予想は当たったということになる。
が、登校時間になっても、珊瑚もブチも姿を現わさなかった。
いつも早々と学校に来て、その日の放送の準備をしていた珊瑚が、である。
俺の心が重くなる。やはり俺のやったことが原因で、珊瑚は学校で居心地が悪くなったのだろうか。
珊瑚の演技を茶化す者はいる。何しろ普段の彼女とのギャップがありすぎる。
ギャップを好意的にとらえる者もいるだろう。だが彼女を
何より、インチキプロダクションに騙された珊瑚が、まだ演劇に未練があったという事実が、露わになってしまったのだ。本人は隠しておきたかっただろうことなのに。
俺のせいで珊瑚が不登校になどなってしまったら――。
不安のあまり、往来でのたうち回りそうになった頃、ようやくドアが開き、珊瑚が出てきた。
珊瑚は
ああ、やはり。
俺はうなだれる。責任が重くのしかかる。
と、門に向って歩いてきた珊瑚と、眼が合った。
珊瑚は一瞬、怯えたように眉根を寄せたが、すぐに近寄り、健気に笑むと、俺の前にしゃがみ込み、人差し指を伸ばしてきた。
俺はついつい首を伸ばし、爪の先に鼻を近づけてしまう。猫の習性だ。
「昨日のミケちゃんだよね、ね。どうしたの? こんなところで」
この優しさ。俺のせいですべてが起こったというのに。学校に行きづらくなっているというのに。
俺は感動に打ち震えつつ、精一杯の反省を込め、「ごめんよ、俺が悪かった」と言った。もちろん通じないだろうが。
案の定、珊瑚は俺の顎の下をさすさすと撫でつつ、
「そうだよね。君は全然悪くないよね、ね。きっとわたしが変なことやってたから、びっくりして怖くなって暴れちゃったんだよね。ごめんね」
なんと謝ってきた。珊瑚、それは逆だ。珊瑚こそ全然悪くない。
珊瑚は、こともあろうにこう言った。
「わたし、自分以外になるのが好きなんだ――でもそれを他の人に知られるのは恥ずかしいことだよね。いい機会だよ。もうやめる」
彼女は痛々しく笑んだ。
困ったことになった。
俺は犬のように後を追い、学校に向って歩く。ブチの出現を待っているのだ。
だが気はそぞろ。そう。まさしくこれは困ったことだ。
珊瑚は芝居をしないと言った。以前から隠していたことだが、将来にわたっても封印すると決めたのだ。
それはいかん。力の持ち腐れだ。
俺は是が非でも、珊瑚に気を建て直させ、再び役者道に進ませなければならない。そうじゃないと、死んでも死にきれない。自分の人生さえままならぬのに、珊瑚の人生を左右してしまうなどという事態は、あってはならないことだ。
そのためにも俺は、人に戻らなきゃならないだろう。そのためにはまず、ブチの気配に耳と鼻を澄まさなければ。なのに――。
俺はのしかかる罪悪感によって、心ここにあらずの状態に陥っていた。
だから、気づかなかった。
目の前に、鬼が現れていることにさえ。
鬼とは
花連は、つかつかと歩み寄ると、凍りついた俺の前にそびえ立ち、のしかかるようにかがんだかと思うと、俺の腹の下に手を入れ、ひょいと持ち上げた。そのまま民家の塀の上に俺を移し、
「どこがへ行げ。なるべく遠くへ」
と、北関東訛りで言い捨て、前を行く珊瑚に声をかけた。
「珊瑚。だいじか?」
あ、と言い珊瑚が振り向く。相変わらずの不憫な笑みを浮かべて。
「花連、おはよう。どうしたの?」
「迎えに来たんだ。珊瑚が心配だったがら」
「そうなんだ。ありがと」
珊瑚が少しだけ俯く。花連は近寄り、そっと珊瑚を抱いた。
「無理すんじゃね。辛かったら休んでもいいがら」
「大丈夫だよ。大げさだなぁ、花連は」
癒やしだ。俺にはできない癒やしを、花連がしているのだ。悔しいことだが。
身体を離し二人は歩き出した。俺は花連が怖かったが、後を追って塀の上の細い路を歩き出す。
気づいた花連が、俺を
「どうしてあの子猫、ここにいるんだ?」
「さあ。わからないなぁ」
てへ、と笑んで髪をかきあげる。
「そんな、
「大丈夫」
珊瑚が珍しく花連の台詞を遮った。
「わたし、平気。だから本当に気にしないで。ね、ね?」
満面の笑み。花連は深々と溜め息をつき、
「わがっだ」
と言った。
その後、振り向いて俺の方を睨みつけるのも、忘れなかったが。
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