第二章 その7
「ああ、分かった。報告ありがとう」
男子生徒は生徒会室の来客用の席から立つと、副会長に軽く会釈をして帰って行った。自席に戻り、さっそく今しがた来た生徒の交際申請の画面を開き、追記情報を打ち込んでいった。本当に相談があった。初めての交際に不安を抱いて自分の行動が条文に違反してないか気がかりになり訴える生徒だった。だから、相談というよりまさに報告だった。
この新制度発足に当たり、不安を抱く教員や保護者への説得材料として講習会の実施がその方策の一つとして提案していた。実際四月からの三か月の間で避妊に関するセミナー、妊娠から出産・育児までの医療や経済についてのセミナーを開催しており、生理学や感染症に関わる講義も行っていた。来校していただいた教授先生や専門家も高校生のうちにこういう内容をするのは良い機会とおっしゃっていた。将来に備えてはというのは、これこそ教育なのだと。
今日の生徒のように、そもそも交際の方法の良し悪しをネットで検索してそれが正解なのかどうか確信を持てない場合もある。となれば、
「そういう提案とか基本的な範囲についても情報流した方が良いってことか」
独り言になる。背もたれに寄りかかる。頭の後ろで手を組む。肩で一つ大きく息をした。ハウ・ツーとかマニュアルとかそういうのとは違う。違わなければならない。画一的な進展など描いていたわけではない。生徒は電車ではない。ただ単に線路に乗って進んで行く電車ではない。だからと言って乗客でもない。では、運転手か、いや話しが整い過ぎている気がする。太古の北極星、そこまで簡素・素朴でもなく、方位磁針か、指す方は確かにある。進むと森がある、まっ直線に行くか、迂回するか、けれども指す方は確かに分かっている、だから行ける。そういう感じがあればいいのか。
方向性がおぼろげだが浮かぶと、気を取り直すように、タンブラーを持ち上げた。軽く振った。手を机について重々しく立ち上がった。鞄から財布を出し、小銭を確認した。さっきの男子生徒のファイルを閉じた。個人情報の保護は厳守である。生徒会室にも鍵をかける。それでも急ぎ足で自販機から戻って来るのが須田という人間であった。
冷たいお茶が潤してくれる。思考が作業再開前に戻る。自称恋愛専門家を呼ぶと言っても、予算はもう組んであるから謝礼にそれほど出せる予備はない。それに講演会スタイルを連発するのは生徒側が飽きる可能性が高い。妙案が浮かばなかった。交際申請を行った生徒たちのファイルを開く。さっき来た男子のものだ。書き込まれた情報を読み込む。それからクラスメートのファイルを開く。クラスの中でもそう接点のない生徒のものではない。よくつるむ三人の男子たちのものだ。あえてファイルを開かなくても、どういう交際をしているのかよくしゃべって来るから容易に思い出せる。続いて別クラスのもの。名村のファイル。熟読の必要はない。ファイルを開いたまま腕組みをした。名村からは個人的にどこどこへ輪島と行ったとの連絡がある。ほぼ箇条書きのそれらはまるで身の潔白を主張しているようだった。さっきまでの思案が鈍化する。ブラックコーヒーを飲みたくなった。ホットの。その上澄みの泡を飲み干してしまいたい。そうすれば思案が再び動き出す。そんな気がした。時期が時期だけに自販機にはホットの飲料はない。生徒会室に電気ケトルはあるものの、コーヒーの粉は切らしている。首を横に振って、画面をにらんだ。全然頭が動かなかった。
「よくしゃべる女子でもいれば頭のリフレッシュにもなるだろうに」
呟いてハタとした。手を口に当てる。それから背筋を伸ばし、わざとらしく咳払いをした。生徒会室のドアを横目で見てしまった。もう一度咳払いをした。腕時計を見ると、十六時になるころだった。パソコンのファイルを続々閉じ、シャットダウンした。ペンケースをカバンに戻すと、立ち上がろうとして止めた。脱力するように、背をもたれ両腕を垂らした。天井を見上げる。
「何を言っているんだ、俺は」
呟いた、と言うより嘆いた。自嘲をするなんて初めてだった。
「帰ろ」
倦怠をごまかすのも初めてだった。戸締りをする体が重かった。ペットボトルのお茶を鞄に片付け忘れていたのに気づいて持ち上げた拍子に口をつけた。
「ぬるい」
買って時間がそう経っているわけではないのに、そう感じた。翌日に行う業務について予定を立てずに帰るのも初めてだった。
夏休み明けには交際申請を済ませると言う輪島との口約束は守られなかった。
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