深淵から招く手と声に
遊月奈喩多
Painless
昼から夕方にかけて降り続いた雨に濡れた路面が、街頭の光を受けて白く光る夜。その男は今日も、石段を転げ落ちていた。
サスペンスドラマなら即死するのではないかというような高低差のある石段の頂上で寝そべって、そのまま下に向けて転がってくるのだ。そして下まで落ちたら
それを何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も繰り返している。
今日だけでも数え飽きるくらいの回数そうしているけれど、彼がそうしている日数もこれまた数え飽きるくらい長い。僕が彼の奇行を見つけたのは春で、今はもう秋だ。
いったい何の目的があって、何の意味があって、そんなことをしているのだろう? 塾の帰り道で彼を見かけるたびにそう思っていた僕は、気付けば塾すら行かず彼を見るためにこの場所を訪れるようになっていた。
また、男は転がり落ちてきた。
塾からの連絡を受けた母からは、もちろんひどく叱られた。そもそもお金がないと言っていたのに無理に頼んで通わせてもらったのは僕だ、それなのに無断でサボっていたのでは、母が怒るのも無理はなかった。
どうかしてる――もっともだ。塾のある日も、塾がない日も、男がなにかをぶつぶつ呟きながら帰るまで見続けてしまう。塾の友達と遊んでいたという言い訳もそろそろ苦しくなってきていたから、そういう意味ではバレたのはちょうどよかった。
けどそうやって叱られても、その後も出歩いては涙ながらに連れ戻されても、それでも僕は、毎晩ここに来てしまう。昨夜なんて抜け出そうとするのを母に見つかって、大変なことをしてしまった。
帰る場所のなくなった僕は、こうして男を見続けている。周りの人から声をかけられることもあったが、無視していればどうということもない。
呻き、手足をひしゃげさせ、それでも落ちるために階段を昇り続ける男。いったい何が彼をそうさせるのだろう? そう思いながら見つめていたら、少しずつ彼の呟いている言葉が、何かの意味を持っていそうな文字の羅列であることがわかってきた。
いあ……いあ?
その後は何を言っているのかわからなかった。だから僕は初めて、階段を昇る彼についていった。ぶつぶつぶつぶつと低い声で呟き続けるその声を、聞き漏らさないように。
いあ いあ はすたあ
はすたあ くふあやく ぶるぐとむ
……やっぱり意味がわからない。
けれど、どうしてかその言葉は僕の胸に焼き付けられたように残って、母が最期に向けてきた言葉すらも霞むほど、強く染み付いた。
ぶぐとらぐるん ぶるぐとむ
そこまで言ったところで、男は再び階段から転げ落ちた。そしてその瞳が一瞬、驚いたように見開かれて――それきり、もう二度と動かなかった。
いつもみたいに呻きながら立ち上がって這うように階段を昇るだろうから、そのときに途中だったらしい言葉の続きを聞こうと思っていたのに。ぴくりとも動かない男の姿より、そっちの方をよっぽど残念に思ってしまう自分に驚くしかなかった。
そうだ、それならボクも同じことをしたらいいんじゃないか? すごい名案を思い付いたような気がした!
「いあ……いあ……はすたあ……」
深呼吸して、震える喉を振り絞るように、声を出す。頂上から見下ろした階段は、下から見上げるよりも遥かに長く見えた。
だから、一瞬だけ躊躇した。
同じことをしたら、よくわかった。
転がり落ちるのは思っていたより、いやまったく痛くない。むしろ頭が冴えてくるようだった――いあ、いあ、はすたあ。
彼が言いかけていた言葉の続きはきっと、もうわかっている。
身体中が重みを増していくような鈍い衝撃ばかりの世界で、僕は唇や舌が切れるのにも構わず、ただ、ただ唱え続ける。
巡礼の道は、まさにここから始まった。
深淵から招く手と声に 遊月奈喩多 @vAN1-SHing
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