短編集
佐藤未鳴
傘
なんだよあんちゃん、こんな姿になっちまったおれの話を聞いてくれるっていうのかい。いやいや、珍しくないね、たまにいるのさあんたみてえな奴が。この暗くて汚え路地裏を通りがかった奴の何人かはおれを見るなりギョッとして、立ち止まるのさ。まあ色々あってよ、今じゃこの通り、頭があって脳みそも口も残ってるから話は出来ても、そこから下が傘になっちまってる。ご覧の通りだ。あんちゃんがいつも持つ部分に生首が刺さってるみてえだろ。でも別に刺さってるわけじゃねえのさ。ほら、見てみろよこの接ぎ目のところを。ちょっと前に来た奴曰く、傘の骨が首から生えてきてるみたいになってんだろ。皮膚が溶けて一つになってるって言った奴もいたね。まあどのみちおれには見えねえんだが、もし刺さってるんだとしたら抜けちまうんじゃねえかって不安だからよ、そうじゃなくて良かったのさ。おっ、何だもしかしてこのボタンに興味があるのか。元々おれの首だった部分にあるこのボタンだろ?そりゃあ押しゃ、元々おれの手や足や胴体だったはずのこの傘の部分がバッと開くのさ。そこいらのビニール傘と同じようにな。おいおいやめとけ、開いても何にも面白えこたぁねえよ。なあに、ボタンもおれからは見えねえんだが、とんだクソッタレがここに付いてることを教えてくれたのさ。なああんちゃん、もしよかったら、そうだな、ものの数分だ。そのクソッタレについての話を聞いてくれよ。これを聞きゃ、どうしておれがこんな姿になっちまったかってことも分かるんだぜ。まあどうしてってよりかは、どうやってって言った方がいいかもしれねえ。生憎おれは賢くねえから上手く話せるかは知らねえぞ。でもちょっと聞いていってくれよ。なんせこんな見た目になっちまったいまじゃ、もう表にも出られやしない。土台、身動きも利かねえ。おれはいまや傘人間、いや人間傘だからな。最近は通りがかったあんたみてえな奴に、話をすることだけがおれの楽しみなんだ。聞いた奴らは全員驚いて気味悪がって、可哀想だなんて言う奴もいたな。おれは、お前らのそんな反応を見ることくらいしか楽しみがねえんだ。あんちゃんちょっと興味持ってそうだし聞いてくだろ?へへ、そうとくりゃあ、まずはそのクソ野郎と初めて会った日のことから始めようじゃねえか。
そいつが訪ねてきたのはおれがそれまで行ってた野暮ったい会社をトンズラしてから何日か経った頃だった。ある日おれが部屋で寝てたらチャイムが鳴って、玄関行ってドアの穴から覗いてみたら、そいつが立ってたってわけだ。薄気味悪かったぜ、貼り付けたような笑顔でピクリとも動かずにいるのさ。バカみてえに暑い平日の真っ昼間から、真っ黒いスーツをいっちょ前に着飾って、葬式に行くような格好さ。セールスは相手にしねえって決めてるもんだから、しばらくシカト決め込んでるとそいつはちょっと経つごとにピンポンピンポンって、ずっと鳴らして、覗いてみるとずっとそこに立ってるもんだから、いよいよホントに気持ち悪くなって、ドア越しに頼んだのさ。帰ってくれって。そしたらそいつが如何にも上品な紳士ぶった声で、ちょっとでいいから話を聞いてくれないかって言うもんだから、何か売りにきたなら帰れよって言ってやったよ。そしたら、売りにではなく頂きにきましたなんて抜かされて、おれはちょうど金にも困ってたところだから、ここは一つ要らねえもんでも売りつけてやろうかなんて思って話を聞いたわけだ。
「お時間下さり誠に有難うございます。この辺りで物品の回収をさせて頂いている者で、スズキと申します」
「そんなことはいいからよ、何がいくらで売れんのか。それを聞かせてくれよあんちゃん」
「失礼致しました。この時期は傘を頂いております。お値段の方は傘の状態によって変わってくるので、まだ何とも申し上げ難いのですが、それ相応の物でしたら、相場としましては三万円程になるかと」
笑っちまうだろ?いまこの話をきいたあんたと同じように、おれだってこいつはイカれちまってんだと思った。どこのどいつが傘を三万円で買うってんだよ。頭の悪いおれだって、傘をそんな値段で仕入れて儲かる奴なんているわけねえって考えることぐらい出来るさ。よくよく考えてみると、ボロボロのアパートの端っこにあるおれの部屋を、おれみてえな馬鹿野郎にもお高いことが分かるような、それはそれは立派なお洋服を着たそいつが訪ねてきたのも変だったさ。めんどうなことに巻き込まれるのも嫌で、おれは断ったのよ。そしたらそいつは慣れてんのか知らねえけど、スッといなくなりやがった。そうですか、なんてすました顔で言っちゃってよ。忘れもしねえ、これがおれとあいつが初めて会った日のすべてさ。
それから、そのスズキってやつは翌日にまたやって来た。チャイムが鳴って覗いたらまたそいつがいるもんだからよ、びっくりしたさ。全く同じ格好で、でも今度はビニール傘を持ってた。もう来んなってドツいてやろうと思ってドアを開けたよ。そしたらすげえ勢いで話し始めたのさ。
「見て下さいサトウさん!こちらは三万二三〇〇円の査定額が出た傘です!昨日は急に要領を得ないお伝えの仕方になってしまい申し訳ございませんでした。実物をご覧になって頂いた方が早いのではないかと思い、こうしてお持ち致しました。如何でしょうか」
よく見てみると、そのスズキってやつは四十かそこらなんだろうな。こいつはそこそこ歳食ってこんな怪しい商売してんのかよって思っちまったよ。それで、そいつがあんまり真面目に話してくるもんだから、ちょっとは付き合ってやらねえとこいつが惨めでしょうがねえと思っちまって、その傘をおれも何となしに受け取って開いてみたのさ。その日もクソ暑くて雨なんて降らねえってのに、玄関前で男二人で傘を広げて眺めてるんだぜ。キレイでもねえビニール傘だから、いっそう気持ち悪いだろ?
「なんもねえじゃねえか。これが三万いくらってどうしてそうなるんだよスズキさんよ」
おれがワケを聞くと、そのスズキって野郎は練習してきたように流暢な調子で最初は話し始めたのさ。だけどもやたら小難しい言葉ばかり使いやがって、しばらく話してこのおれがほとんど分かってねえことに気がつくと、スズキはかいつまんで説明してくれたよ。
「要するに人間が傘に変わることがあるのです。小さく醜い芋虫が大きく美しい蝶に変態を遂げるように、軟弱な人間が頑丈な傘に、怠けた人間が勤勉な傘に変形することがあるのです。元々は人間であった傘に最近は注目が集まり、価値も高まっているため、私たちはそのような傘を買い取っているのです」
ここまで来るとおれはそのスズキってやつが暑さかストレスかでイカれちまってることに同情しちまったし、さすがにこいつは危ねえ奴なんじゃねえかと思えて怖くなっちまった。なんせそのスズキって奴の血相もマジなのさ。冗談なんて一つも言っていませんけどって顔でこっち見ながらそんな話しされてみろよ。あんちゃんだってビビっちまうぜ。結局その日はスーツ姿のスズキには帰ってもらって、おれは気がおかしくなったあいつの面倒は一体誰が見てるんだろうなんて考えたりしてたのよ。
でもよ、その晩になってみると、スズキの言ってた話が頭ん中を妙にグルグルグルグルしちまって。人間が傘になるなんて話をよく思いつくもんだなんて思いながら、玄関の鍵を閉めに行くとよ、置いてあったビニール傘に目がいっちまうわけよ。あいつの言う通りなら、この先っちょがつま先で、くるっと曲がった持ち手は頭かなんて思いながら眺めてるうちに、なんだか面白くなってきてよ。おれだって、別にあのスズキってやつが傷つかねえなら、ちょっとした金を手に入れるのに悪い気はしねえじゃねえかと思ったのさ。えらく信じられねえ話ではあったが、冗談でもなんでも付き合ってやりゃ諭吉三枚くれるっていうんだからノラねえ手はなかったのさ。
翌日そのおかしな奴は案の定ひょっこりやって来たよ。
「どうだい、おれんちの傘も見てくれないかいスズキさんよ」
「もちろんですとも!」
まあそれでおれは玄関に投げっぱなしだった傘をスズキに見せたわけだ。どこで買ったのかも忘れちまったビニール傘さ。スズキは大喜びしたと思うと、急に傘のいろんな部分をジロジロっと眺め回し始めたよ。女の裸でも見てんじゃねえのかと思う目つきでよ、舐め回すって言った方がいいのかもしれねえな。脂汗流しながら、ブツクサ言ってて気色わるかったぜ。そのうち、こいついつまで見てんだと思ったくらいでスズキは二万ちょっとですなんて言っちゃってよ。相場は三万円ですなんて言ってたやつがふざけんなよって感じだろ?でもまあビニール傘をそんな値段で買ってくれるんだからおれも口出ししなかったよ。これで気持ち悪いスーツ男が家の前に来ることもなくなるんだし、喜んで二万円とちょっとで手をうったのさ。
さてさてここからがやべえところだ。おれが変わっちまったのはその日の夜からだった。最初は気のせいかななんて思ったんだけどよ、そうじゃなかった。売っちまってからというもの、人間が傘になるなんて話が急にマジに思えてきてよ。ちょっと前に隣で失踪だなんだとか言って騒がれてたあいつも、もしかしたらもしかするかもなんて思えちまうのさ。馬鹿らしいだろ。それからというもの、日に日にどんどん気になるようになっていった。まずは眠れなくなったのさ。ああ、明日起きたらおれは人間でいられるかななんて心配を本気でするようになった。布団に入るなり時計の音、アパートの廊下の足音、外で真夜中まで遊んでる阿呆の声、いつもは気にならないようなよく分かんねえ音まで、全部が全部気になるのさ。パチパチパチパチ。ギシギシギシギシ。耳栓はめても、耳鳴りなのか知らねえけど音は止まねえ。そんなんだから次第に食う気も無くなっちまった。痩せこけて、例えでもなんでもねえ、腹と背中がくっついて、腕が骨だけになりかけた頃、変わり始めたのさ。まずは手も足も指先から動かなくなってきてよ、あれ?なんて思った頃にはもう膝も肘も固まっちまってた。細い見た目なのにからっきし動かねえで、黒ずんじまって、馬鹿みてえだがまるで傘の骨みてえだった。それから肩も足の付け根もピクリともしないようになって、おれは部屋で気を付けの格好で寝たきりになったのさ。胴体と頭は形を残してて、あとは棒だよ。その頃にはお腹もすかなくなって、眠たくもなくなって、おれはもう人間じゃあ無くなっちまってたんだな。なんとなく、ああこれがあいつの言ってた傘になるって話のことかなんて納得しちまったよ。
日の出を二回くらい拝んだ頃、気を付けしてたはずの体が緩んできた。頭はこの通り、いまと同じように動くからよ、首を起こして傘の骨みてえになっちまってる部分を見てみると、残ってた胴体もいまや棒っきれさ。極め付けは、よくみるとそこに透き通った膜が張ってるときたもんだ。おれの部屋は汚ねえからよ、ハエだのなんだの汚ねえ虫も埃も付いちまってよ。ちょうど鼠がおれの上を通って行った時にゃ、膜から引いた糸がべったり毛に絡まりついてたさ。それからおれは見るのも考えるのも辞めたさ。大声出すための身体も残ってなかったから助けを呼ぶことも出来なかったね。
それから何日かが経って、遠くでガチャリとドアの開く音がしたのさ。このおれのとんでもない状態を見られるのが今更恥ずかしく思えて、とっさに隠れようとしちまった。まあ、すぐに自力じゃ動けねえことに気づいたがよ。のしのしと近づいてきたのは、あのスズキだった。おれを見るなり少し驚いた様子で話し始めたよ。
「これはこれは……サトウ様、傘になられているのですね」
「ふざけんな、てめえのせいでこんなことになったんだ!なんとかできねえのか」
「無闇に大声を出されますとおホネに響かれますのでご遠慮なさって下さい。それに、こうなってしまった以上は誰にもどうすることも出来ません。まあしかし、これまでの様に怠惰な生活を続けるよりかは、せめて傘になり社会的に有用な存在へと生まれ変わるのも悪くはない、むしろ喜ばしいことなのではないでしょうか」
「どうすることもできねえって、じゃあどうなるんだよ!」
「サトウ様のように頭だけが変態を完了させられず、気苦労されていたお客様を傘にさせて頂いたことがあります。傘になる瞬間はあっという間で、ご本人になんらか衝撃はあったのかも分かりませんが、声も出さないまま、あっけなくというと失礼かも分かりませんが、スッと傘になられました。特段、大きな苦痛もなく変態は完了するかと思います」
スズキはおれの首だった場所の辺りに手を伸ばしてきてよ、おれは何されるのか分からねえのが怖くて必死で止めたよ。あいつによれば、傘を開いちまえば、自分はまだ人間だって信じてるおれの脳みそが「諦めて」全部が傘になっちまうらしいのさ。そんなの嫌でよ、じゃあどうしますかなんてスズキが言うもんだから、一人で部屋にいるのだけは勘弁してくれって必死で頼み込んで、たまに人が通り掛かるこの路地裏に連れてきてもらったのさ。腹は減らねえし眠くもねえから、ここでつっ立ってられるってわけだ。スズキって奴は初めしばらくおれの様子を見に来て、どうですかご決心はつきましたかなんて聞いてきてたがよ、あいつはおれを売り飛ばす気でいるのが見え見えだから断ってやってたのさ。そしたら来なくなったぜ。スズキがおれを生かしておいてくれる理由は全く分からねえが、まあ有り難えこった。
さてと、これがいきさつだよあんちゃん。そんな顔してるってことはまだ信じてねえみてえだけどよ、なによりてめえの目の前で傘にぶっ刺さった頭が喋ってるのが何よりの証拠だろ?ああそうだ、話はここで終わりさ。ん、どうしたのさ、おい、やめ
***
その人間傘は頭部直下にある、生物的なぶよぶよとした質感のボタンを押されるや否や、何日か前まで糸を引いていたとかいうご自慢の透明なビニール膜をびらびらといやらしく見せびらかしながら寝転がっていた。幾度となく繰り返されてきたのだろう流暢な身の上話は、友人に待ちぼうけを食らわされていた青年の暇を潰す程度の娯楽性は持ち合わせていたものの、いまやその暗く汚い路地裏は静まりかえり、横たわったビニール傘はそんな話芸のお披露目会など初めからありませんでしたと訂正しているかのようであった。
青年が傘を手に掛けたのは、退屈ではないその話が終わる頃にちょうど連絡があったものだから、その傘の発する声がやけに耳障りなこともあって、まあいいかと思い絶命させてやっただけに過ぎなかった。ましてや、こんなにふしだらでみっともない傘を売るつもりはなかったし、その顛末に同情したが為に楽にしてやろうなどと思えるような温かな心も持ち合わせていなかった。
それから青年は友人との待ち合わせ場所に向かう道中で、あれだけ愚かな人間でも傘になって人の役に立てるとは神様というのも捨てたものではないなと、しみじみと感じたものであった。もちろんこの青年は普段から神様のことなんてこれっぽっちも考えたことのない類の人間であったので、待ち合わせ場所に着いた頃には、この出来事のことと併せて神様のこともすっかりどうでもよくなってしまっていた。
ところで件の傘はその後、通り雨が降ったある日拾われたものの、そこそこ強い風で骨が折れたため持ち主は愛想を尽かし、今もどこかの路地裏に放られたままであるという。
短編集 佐藤未鳴 @manari_sato
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