たかだかたか

Masashi Mori

何の変哲もない誕生日 前半

iPhoneから鳴り響くアラーム音により、7時10分頃に目が覚め、画面は2017年6月15日(木)を示している。機械仕掛けのようにトイレに入り、鏡に映った若干しゃがれた顔を眺めて存在を確かめた。用を足し、シンクで手を洗い、水道水をコップに注ぎガラガラっと喉をうがい、口をゆすいだ後に一杯の水を飲む。電動歯ブラシを操作しながら、眺めた洗面鏡に映る自分の顔は頬がやや緩んで見えた。

カーテンを開き、窓を開放すると、ベランダは濡れた形跡があり、若干じめっとした雨上がりの空気が入り込み、暖かい陽を仰いだ。頭がぼやっとしているのは前夜にウィスキーを深酒したせいかもしれない。ああ、なんて心地よいのだろう、休日前の夜は。思い出してまた気が緩む。


時計の針は既に長短が重なりそうだった。掃除と洗濯をこなし、ワイドナショーに没頭しすぎた。スウェットを脱ぎ捨て、ミラーのタンクトップ、ラコステのオレンジ色のポロシャツに袖を通し、リーバイスの501、VANSのスリッポンを履き、お気に入りのセルロイドの鼈甲眼鏡をかけ、へアーウォーターを吹きかけ、軽めのグリースを髪にのせた。

最寄り駅の三鷹駅から総武線に乗り、新宿駅を経由して会社のある西新宿駅へは向かわず、吉祥寺駅で下車した。


井の頭公園改札口は休日に比べて人がまばらだ。駅を背に右手の飲食店が連なる道を進む。トラックや自転車が行き交い、気を配りながら端を歩き、注文するメニューを想定する。横断歩道の先、目的地が視界に入り安堵した。

いせや総本店は混雑と威勢と煙が混じりあう。創業から90年近くとは、もはや武蔵野のレガシーだ。

店員を呼び、決めていた「瓶ビール、ミックス焼き鳥、自家製シューマイ、ガツ刺、生野菜」を注文。

野菜をオーダーするなんて、健康に配慮している証拠だろう。親父も同じ年頃には野菜(セロリを中心)を好んで頬張っていた気がする。あの時の食卓が懐かしい。

直ぐに運ばれてきた瓶ビールは冷や汗をかいている。注がれる黄金色の泡体が空のコップを埋めていく。コッコッコッと心地よいリズムを刻み、高揚した僕は大人になった自分へ少しだけ酔倒する。

陽の明るさが嗜む酒を心地よく弾ませ、天井を見上げた。思わず、軽くフゥーっと息が漏れる。タバコはたしなまなくなり、いまは出ない白い煙が懐かしい。


「新しいジャンルの映画を撮りたい」

「俺は純文学を書く」

隣席で熱弁する若者の汚れない情熱がまばゆい。互いの頬は火照っていて、良い塩梅だろう。

恐らく20代前半だろうか。今日で35歳になった自分とは10歳近くも離れていると思うと、時の速さに恐縮する。木枯らしすさぶ冬も半ズボンで過ごしていたのはついこの前のような気がするのに。

年に1度の誕生日、麻実と銀座界隈で洒落たランチも検討したが、外資系コンサル会社に勤める彼女は常に繁忙期だ。

「申し訳ないけど、昼間はゆっくりしてきてよ。自由にさ」

「サンキュー。まぁ、いせやとみたかのフルコースだけどね」

麻実は右上唇を上げた。

「夜は気合い入れてご馳走作るからさ」


特別どこもにも行く当てなんてない。武蔵野の土地が心地よくて。

武蔵野に縁もゆかりもない。それは過度な表現かもしれないが、生まれは東京都北区。武蔵野市、三鷹市に友人が多く、大学時代に一人暮らしをしていた、そんな程度の武蔵野かぶれ。程度が溢れて、来年の4月に控えている結婚後は新居を三鷹に構える。夢に見たマイホームなんてどこかのミュージシャンの歌詞にあったかもしれない。

「マサルさん、麻実のことよろしくね。そしてわたしも」

ちょっとだけ頬が赤らけた晴美さん(義母)がチャーミングだった。目にうっすらうかぶ、瞬けば零れるであろう、滴。

「はい」

とうなずき、ハグした6月。あっという間に新しい季節が訪れる。


若者を横目に悦に浸り、思い起こせばすぐ傍らにいる思い出たち。時の流れは急降下の長い長い滑り台のようだ。輝かしいものなんてない。実直にタフに社会に出てからのこの10数年、勤めてきた。

学生時代は縁あってフリーペーパーのライターを経験したことから、新聞記者を目指したが、夢破れ、ありていに言えば、挫折した。

ジャーナリズム誌の購読、エッセイや小説への傾倒をとおして、30代前半から小説を書き始めた。あつく勤しんだ学生時代はとうに過ぎ去り、現実が目の前におののく。仕事、重圧、知人、友人、恋人との関係、対価で満たされるお金や幸福に触れる現実の生活をこなしていく。

「俺はどこにいくのだろう、あてもなく」と一人で耽っている。


瓶ビールを1本追加して、レモンサワーで〆た。お勘定を済ませ、吉祥寺を闊歩することにした。


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