第2話 藤原時平

 孤高の凄腕、沖田光一おきたこういちは、恋人の仇である悪党、五月女俊樹そうとめとしきとその手下たちに復讐を果たすが、自らも息絶える。


 光一の妹は彼を生き返らせるために神にすがるが、その際、神と恐ろしい契約を結んでしまう。それは光一が生き返ると共に、光一に殺された者たちがカラスとして蘇り、さらに今後も光一が殺す人間はみんなカラスになって生き返る、というものであった。


 彼に殺された悪党どもは燃やさない生き返るカラスとして蘇り、彼への復讐を企てる。


 旧石器時代の遺跡が残されており、約3万年前からこの地に人が住んでいたとされる。菅原道真のたたりを恐れた藤原時平の妻と娘が関東に逃れ、高津地区に住み着いたといわれている。


 中世には米本城が構築されたが、1558年、城主の村上綱清(清和源氏村上氏流、千葉家家臣)が原因不明の自殺をし、廃城となった。江戸時代には、佐倉藩領、天領、旗本領に分けられた。成田街道大和田宿は、成田山新勝寺への参拝客(成田参詣)のための宿場町として栄えた。


 藤原基経の長男として生まれる。父の基経は陽成天皇を廃し、光孝天皇を擁立して太政大臣として朝政を執り絶大な権力を有していた。光孝天皇は常に基経の意を迎えていた。


 仁和2年(886年)16歳で元服。元服式は内裏の仁寿殿で行われ、正五位下が授けられた。その際の告文は学者で知られた参議・橘広相が起草し、光孝天皇が自ら清書した。さらに自ら加冠の役を果たした上に、時平が儀式の際に用いた冠巾は天皇の衣服であった。この特別待遇は基経と同様、天皇の擁立に功があった藤原百川の嫡男、藤原緒嗣の元服に習ったものと見られている。


 翌仁和3年(887年)正月には早くも従四位下・右近衛権中将に叙任され、8月に宇多天皇が即位すると、時平は蔵人頭に補せられた。寛平2年(890年)従四位上次いで従三位と越階昇叙され、20歳で公卿に列す。寛平3年(891年)父・基経が死去するが、時平はまだ21歳と若年のため摂関は置かれず、宇多天皇の親政となった。また、藤氏長者は大叔父の右大臣・藤原良世が任じられた。


 時平は寛平5年(893年)、中納言兼右近衛大将となり、敦仁親王が東宮になると春宮大夫を兼ねている。寛平9年(897年)正三位・大納言兼左近衛大将に叙任される等順調に昇進した。


 寛平9年(897年)宇多天皇は譲位して敦仁親王が即位した(醍醐天皇)。宇多上皇は新帝に与えた「寛平御遺誡」において、時平を「功臣の後」「第一の臣」「年若いが政理にくわしい」と評し、「(時平を)顧問に備え、その補導に従え」としている。さらに譲位に際しての詔書で時平と道真に対して奏請と宣行の権限を与え、事実上政務を委ねる意思を示した。またこの年には、前年の藤原良世の致仕(引退)によって空席となっていた藤氏長者に時平は補されている。一方で時平と道真のみに政務が委ねられたことに反発した納言たちが職務をボイコットし、宇多上皇が勅を出すことでようやく復帰したという事件も起きている。昌泰2年(899年)時平は左大臣に任ぜられて太政官の首班となり、同時に菅原道真も右大臣となった。しかし道真は宇多上皇の側近の地位を引き続き占め、醍醐天皇と時平、その近臣たちとの間に対立が生まれつつあった。また、時期は明確ではないが同母妹の穏子を醍醐天皇の女御として入内させているが、これは宇多上皇の反対を押し切ってのことであった。


 昌泰4年(901年)正月、道真は「宇多上皇を欺き惑わした」「醍醐天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀った」として、大宰員外帥に左遷された(昌泰の変)。また道真の子と、宇多上皇の近臣らも流罪となっている。道真の後裔である菅原陳経が「時平の讒言」として以降、現在でもこの見解が一般的である。平安期の説話集である『宝物集』『十訓抄』『古今著聞集』などでは時平の讒言の記述はあるが、「虚言」「奏事不実」とややぼかした言い方となっている。ただし、『扶桑略記』延喜元年七月一日条に引く『醍醐天皇日記』は、藤原清貫が左遷後の道真から聞いた言葉として、「自ら謀ることはなかった。ただ善朝臣(源善)の誘引を免れることができなかった。又仁和寺(宇多上皇)の御事に、しばしば承和の故事(承和の変)を奉じるのだということが有った」と記載している。これにより、廃立計画自体は存在したという見解もある。


 道真はその父菅原是善の時代から基経・時平家との関わりが深く、時平とも度々詩や贈り物を交わす関係であった。昌泰2年(899年)には、父基経の事業を受け継いで建設した極楽寺(現在の宝塔寺の前身)を定額寺とするための願い状の代筆を依頼するなど、文章家としての道真を高く評価していた。道真の失脚は、藤原氏による他氏排斥の一環として考えられている。しかし単に時平の陰謀によるものではなく、道真に反感を持っていた多くの貴族層、時平を含む藤原氏、源氏公卿、学者らの同意があった。


 道真左遷後の時平は意欲的に政治改革に着手し、延喜2年(902年)最初の荘園整理令を出し、史料上で最後といわれる班田を実行した。また『延喜式』の編纂を行った。醍醐天皇の治世は延喜の治と呼ばれている。


 延喜9年(909年)に39歳で死去。『扶桑略記』では『浄蔵伝』からの引用として道真の怨霊によるとされ、以降はもっぱらその見解が取られるようになった。時平の死後、弟・忠平が朝廷の中心を占めるようになり、時平流は次第に没落していった。

 


 

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