第2話 檻
琵琶の弦が切れてしまったのだ。千寿は申し訳なさに顔を赤く青くして頭を下げた。
「失礼致しました。すぐに弦を張り直して参ります」
席を立とうとしたら、藍色の袖に引き留められる。
「いや、此方こそ申し訳ない。楽しくて、つい長く興じてしまいました。先ずは折角のご馳走とお酒をいただきましょう。弦の張り替えはその後に」
艶やかでやんわりとあたたかな声。叱られなかったことに千寿は胸を撫で下ろし、その場にてお酒を注いでまわる。年配の男が若い男に千寿を紹介した。
「中将殿。こちらは鎌倉の御所の女官で千手の前と申す者。先頃御所にあがったばかりの新参者です。琵琶の音をご所望ということで試しに召しましたが、如何でしたかな。もしお気に召さねば、琴か篳篥の出来る者を替わりに召しますが」
千寿はドキリとして目線を落とした。先の合奏は、この貴人の気に入るかどうかを見定める為の試しだったのだ。
——きっと取り替えられるだろう。
千寿は俯いて身を強張らせた。だって千寿は美人ではない。琵琶も上手く合わせられた気がまるでしない。
チラリと投げかけられた視線を感じて千寿は小さく縮こまった。
———怖い。
でも、ややしてゆるゆるとした声が答える。
「いえ、千手殿の琵琶は素晴らしかった。叶うならもう少しお付き合い願いたいのですが、どうでしょうか?」
——え?
耳を疑って、思わず顔を上げてしまう。藍色の直垂の男性と目が交わる。秋の空のような、遠く深く澄んだ瞳。その瞳を覗き込んだ瞬間に千寿の心は囚われてしまった。けして好きになってはいけない人への恋の檻の中に。
「では、千手の前。ここは我らに任せて弦を張り替えてらっしゃい」
年配の男性に促され、千寿は立ち上がって小部屋を出ると建物を出た。急いで女官部屋へと戻り、弦を張り替えていると仲間の女官が話しかけてきた。
「千手様、どうだった?中将様ってとても凛々しくてお美しい方よね。平相国殿の五男で正三位であられるのに、先の一ノ谷の合戦で虜囚となられたのですって。お気の毒だわ」
お願い。今は黙っていて。口にはせずにそう願いながら、千寿は震える手で懸命に弦を手繰る。でもどうしたことか、今日は上手く張り替えられない。指先を何度か振り、握りしめては開いてを繰り返す。その間も女官達のお喋りは続く。
「御所様は中将様と対面されて、そのご立派な様子にとても感じ入ったらしくて、虜囚としては格別の対応をするように藤原邦通殿に命じたそうよ。工藤祐経殿は、元々、中将様の兄君、小松内府(平重盛)殿の家人だったから顔馴染で、よく共に楽も合わせてたらしくて、それで皷がお得意なのですって」
「へぇ、やはり京に縁の深い方は雅ね。女のあしらいもこなれていて、如何にも風流人だわ」
千寿はやっとのことで弦を張り替えると立ち上がった。女官仲間に黙ったまま頭を下げると急いで部屋を出る。
「本当にお可哀想に。あんなにお若くて素敵な方なのに殺されてしまうなんて」
戸を閉める前に聞こえてしまったその言葉が千寿の頭の中をぐるぐると巡る。
——殺される?
堂々として優雅で楽しげで、とても死に向かうような人には見えないのに。
でも、建物の周りを取り囲む武者達の姿と殺気を感じた途端、それが嘘ではないことがわかる。千寿は息を詰めて琵琶を強く握りしめると渡戸を渡って建物の中へと入った。小部屋の前で声をかけ、返事を待って静かに戸を開ける。三人は親しげに談笑していた。
「おや、千手の前。張り替えは無事に済みましたかな?」
年配の男性が穏やかな笑顔で迎えてくれる。彼が藤原邦通殿だろう。千寿は黙って頷いた。
「では、続きと参りましょうか」
藤原殿の朗詠に工藤殿の鼓が重なり、中将殿の龍笛が知らない旋律を奏で始める。初めて聞く曲だったけれど、どこか懐かしい旋律だと感じた。千寿は撥は床に置き、弦に五本の指を添わせた。彼らの波に合わせて弦を軽く弾いて付いていく。声と鼓と笛に琵琶。それぞれが放つ音の波は狭い部屋の壁にぶつかり、梁に弾かれ、乱れ舞い散りながら落ちてくる。夏の蛍のようにチカチカと瞬いて消えていく光。調べは次第に物悲しく啜り泣くようにか細くなっていき、やがて音が全て消えた。残されたのは、床下から漏れ聞えてくる、ジーという虫の声だけ。ふと我に返った千寿が顔を上げたら、藤原殿は袖でそっと頰を押さえ、工藤殿は拳を握りしめて下を向いていた。中将殿はじっと動かず、優し気な微笑みをたたえて、建物の外を吹く風の音にでも耳を傾けているような風情だった。
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