ラザラス・リフレックス・シンドローム ~ 屍者の日

えどまき

前編

 「ラザロ徴候」または「ラザロ反射(Lazarusラザラス Reflexリフレックス)」とは、脳死状態や脳幹障害の患者が急に腕を上げたり、(いくつかのエジプトのミイラの姿勢のような)胸の上で交差させて落とす反射的な動作のこと。この現象は、ヨハネの福音書にてイエス・キリストが死者の中からベタニヤのラザロを蘇らせたことにちなんで名づけられた。


――Wikipedia(EN) Lazarus Sign の項目より





 七月も下旬に差しかかった、ある暑い朝。その市立総合病院は、朝からなにやら慌ただしかった。

 騒がしいわけではない。静かではあるが、ただ、病院スタッフらの間には異様な緊張感が漂っていた。医師や看護師らが早足で廊下を頻繁に行き交い、時折顔を寄せ合ってなにやらヒソヒソと話し合っているのが見受けられた。


 入院患者の一人である安藤孝雄は、気になって何が起きてるのか看護師に尋ねてみた。

 だが、看護師らは一様に口が堅かった。顔を強張らせ、ぎこちない笑みを浮かべながら「なんでもありませんよ」としか答えない。


 暇をもてあましていた孝雄は、病院の敷地の端っこにある私設屋外喫煙所(無許可、条例違反)に行った。

 ちょうどそこには、顔馴染みとなった武井という中年の警備員も休憩に来ていた。


「武井さん」

「おお、安藤さん、ギブス取れたんだな」

「ああ、昨日でやっと。あとは腹の傷だけですよ」

「なんにせよ、回復してよかったじゃないか」

「ほんとに。まあ、労災の申請とか、めんどくさい話もまだまだあるけどね」


 いいタイミングということで、彼なら何か知っているだろうと、武井に病院の雰囲気について聞いてみた。


「……どうも、この一晩で入院患者十三人が相次いで亡くなったらしいんだ」

「十三人?」


 孝雄にはそれが多いのか少ないのかわからなかったが、普段、急患で運び込まれる重体の人を除けば、この病院で患者が亡くなるのは多くてもだいたい週に一~二人いるかどうかくらいの頻度だそうだ。一晩で十三人というのは確かに異例であった。


「いずれも発見された時にはすでに心臓が止まってたんだが、今のとこ死因がわかってない。死ぬような兆候がまるでなかった人が大半でな。まさに『猫耳に蚯蚓ミミズ』ってやつで」


 警備員のボケはとりあえずスルーするとして。

 心電図が心拍停止を検出したケースが三件。病室や廊下で床に倒れているところを発見されたのが三件。そして今朝になって、ベッドで眠っていると思ったら実は死んでいた、というのが七件。

 全員、死因を推定できるような痕跡は見つかってはいない。

 偶然と言うには些か多い。なにか共通する要因が存在するのか。

 正確なところは検査をしてみないとわからないが、これだけ多いとウィルスや病原菌などの院内感染、あるいはなんらかの毒性物質の疑いもある。病院関係者がピリピリするのも無理はなかった。

 そして、話はそれだけではなかった。


「これ、話していいのかわからんが……」


 常識的にいえば、一応それは守秘義務に抵触しそうな内容も含んではいた。ただ、どうにも常識の範囲を超えた不可解な話であり、これをどう扱うのか警備員も少々困惑していた。病院側も混乱していて、緘口令を徹底するという発想にまでは至っていなかった。

 もっとも、内容が内容だけに、ヨタ話や都市伝説の類として一笑に付される可能性のほうが高かったが。


「なに?」

「倒れてたうちの一人は廊下で亡くなってたんだけどな。

 俺が警備室にこもってたとき、防犯カメラの一つに廊下でふらふらと突っ立ってる人が映ってな。認知症老人でも入院してるのか知らんが、放っておくのもマズそうなんで連絡入れようとしたんだ。そしたら、ちょっとモニターから目を離してるうちに、気がついたらもうその人が床に倒れてるのが映っててな」

「へぇ……」

「それでこりゃヤバいって、すぐに当直の看護師といっしょに現場に行って、心臓マッサージやらなんやらいろいろやったものの、結局ダメだったんだが……」


 そこで警備員の男は思わせぶりに言い淀み、ちらりと周囲を見回した。そうしてから、孝雄の目を覗き込むようにして、話を続けた。


「その人の体、俺らが現場に着いたときにはもう完璧に冷たくなってたんだよ。気温より低くて、長時間冷蔵庫で保存されてたんじゃないかってくらいに。

 最初にモニターで見かけてから、五分も経ってなかったんだがな」


 一般的に、体温が二五度以下だとこん睡状態、二十度を下回っていたらほぼ死亡しているはず、だそうだ。現場付近にはそこまで体温を奪うようなものもなく、その状態でどうやってここまで来れたのか、医者も首をひねってたという。


「えぇと、それはつまり、その廊下まで来た時点ですでに普通ならとっくに死んでる体温になってて、そこで倒れたんじゃないか、と?」

「そういうことになるな」

「まさか。ゾンビ映画じゃあるまいし」

「まあ、倒れてたのが再び起き上がったりはしてねえな」


 話が急に胡散臭くなってきた。

 孝雄はゾンビ物のお話は映画・小説・ゲーム問わず大好きだが、さすがに現実でそういった話を信じられるほどでもない。


「日本で、しかも病院で怪談話ってなら、ゾンビ物よりも、呪いだとか怨念だとかの心霊的ななんかのほうがまだしっくりくるかな。この病院、化けて出てくるような曰くとかないんですか?」

「そういうのはないな。わりと新しい病院だし」

「そいや、その監視カメラ、なにか妙なモノが映ってたりとかは?」

カメラ、な。いや、俺も気になって、昨日の分の録画、早送りで一通り見てみたんだが、特に変なモノは映ってなかったわ」

「そうか」

「一部、ブロックノイズだらけで判別不能になってたがな。デジタルなのになぜか砂の嵐が乗ってた部分もあったぞ」

「うわぁ……」

「まあ、誰かがカメラをハッキングでもしてた可能性も否定はできんがな」

「人為的だと?」

「少なくとも、心霊現象や生物災害バイオなアレを想定するよりは現実的だろ」

「何のために?」

「さあ、そこまではな。ここで何か死人が出るようなことが行われてて、それを隠蔽するためにカメラに細工した、みたいな陰謀論的なのから、あるいはもっと単純に、大量死の件とはまったく無関係のイタズラ説とかな。ただの憶測で良けりゃ、なんとでもこじつけられるが」


 結局、話のネタにと思って聞いてみたものの、明らかなことといえば十三人が原因不明で亡くなったことくらいだった。

 遺体の体温やカメラのノイズの件については保留。


 入院先で起こったこととはいえ、ただの入院患者である孝雄が気にすることでもないだろう。トラブルが自身に降りかかってこない限り、所詮は他人事ではある。話が胡散臭くなったのもあって、話はそこで終わりだった。

 そのはずだった。





 その夜。孝雄は特にすることもなく早々に就寝していたが、深夜にふと寝苦しさを覚えて目を覚ました。

 寝起きでぼうっとしたまま、トイレに向かった。


 深夜の病院は静まり返っていた。

 廊下には誰もおらず、孝雄の足音だけが響き渡った。


(こう静かだと気味悪いな……)


 これまでは特に何も感じなかったが、ここで昨日何人も亡くなったと思うと急に不気味に感じられた。

 孝雄は用を足して、洗面台で顔に浮いた冷や汗を洗い流した。

 つい、洗面台の鏡の中を覗き込んでしまったが、別段、自分の後ろに何かがいたりするようなこともない。


(はは……、なに神経質になってんだか……)


 孝雄はそう信心深いほうではないが、病院の雰囲気や昼間の話で少々緊張してしまっていたようだ。

 そうして、トイレを出て廊下に戻り、視線を上げたところ、


「わっ!?」


 廊下の先、5mもないところに人影があった。孝雄は自分以外みんな寝静まっていると思い込んでいたため、誰かがいるなど予想もしていなかった。思わず心臓が縮み上がり、半歩後ずさっていた。


 よく見ると、そこにいたのは高齢の男性で、患者衣を着ていた。俯いていたので、顔まではよくわからない。ほんの微かにだが、痙攣したみたいに小刻みに頭を振っていた。

 老人は何をするでもなく、ただそこで静かに突っ立っているだけのようだ。認知症かなにかだろうか。


(まったく、脅かすなよ……)


 過剰にビビってしまったことを恥じ入りながら、孝雄は心の中で悪態をついた。

 孝雄は深呼吸して、気を取り直した。老人に軽く会釈したが、老人は特に反応することはなく、その場に佇んだままだった。

 反応の無い老人を横目に、孝雄は部屋へ戻ろうと老人の脇を通り過ぎようとした。


(あれ……? 夜中に、廊下にただ突っ立ってるって、これって……)


 孝雄はその時になってようやく、昼間の警備員の話を思い出した。

 カメラに映っていた廊下の人物。

 それについて考えようとした瞬間、不意に老人の左腕が持ち上がった。老人は俯いたままで、体も動かさずに、ただ左腕だけが独立して動き出したかのようだった。

 そして、ガシっと孝雄の肩をつかんだ。


「ひっ!?」


 咄嗟に孝雄は飛び退こうとしたが、老人の左手ががっちりと肩に食い込んでいて離れられない。

 老人を振り払おうと、孝雄は老人の腕をつかんだ。


(つ、冷てえっ!?)


 まるで冷水のように、老人の腕は冷たかった。気温で冷めてぬるくなってるというのではなく、氷かドライアイスで冷やしてたんじゃないかというくらいに冷たい。

 その意味を考えて、孝雄はぞっとした。


 老人の体が孝雄の方へとゆっくりと向きを変え、俯いていた顔が上がった。

 孝雄と正面から向き合った老人の顔は、弛緩したように表情がなかった。両目が白濁していて、視線が左右それぞれ別の方向に向いてることだった。斜視どころではなく、カメレオンのごとくバラバラに動いていて、孝雄を視ている風ではなかった。


(なんだこれ!? なんだこれっ!?)


 あまりの異常さに、孝雄はパニックになった。


「は、離せっ! 離せよっ!!」


 老人の腕を引き剥がそうと、孝雄は無我夢中で暴れたが、一向に外れない。老人の指が食い込んでいる肩が猛烈に痛んだ。いったい、この老人のどこにそんな力があるのか。

 すると、老人は何を思ったのか、ゆっくりと顔を孝雄の手に近づけてきた。


「ぐっ、なんっ!? や、やめろっ!」


 老人の口は、ぐわっと顎が外れたかのように大きく開かれた。唾液が糸を引いている口内に見える歯列は、乱杭歯と呼ぶのも躊躇われるほどに並びが悪く、個々の大きさもまちまちだった。


 もうあと1~2cmというところまで老人の口が迫ってきたとき、


「おい、何やってんだこりゃ!?」


 警備員の武井が現れて、老人を羽交い絞めにして引き剥がし始めた。だが、それでも老人はなかなか手を離そうとしなかった。


「三田さん、鎮静剤かなんかないのかっ!?」


 武井は一緒にやってきた三田という看護師の男に慌てて尋ねた。


「と、取ってきます!」

「急いでくれっ! それと、医師も連れてきてくれ!」


 緊急時ということもあって、三田は全力で走って戻っていった。


「武井さん! 気をつけてっ! 噛まれる!」

「うおっ!?」


 いつの間にか、老人はその顔を背後の武井に向けていて、あんぐりと開けた口を羽交い絞めしている武井の腕へと近づけていた。

 武井は腕をほどくと、老人を蹴り飛ばした。その拍子に孝雄を掴んでいた手も外れ、老人は床に倒れこんだ。

 老人はもがくように手足をばたつかせていたが、しばらくしてゆっくりと立ち上がった。

 そして、直立不動の姿勢になったと思ったら、今度は首を超高速でプルプルと左右に振り出した。その動きは秒間に三~五回は振っていそうで、速すぎて表情がわからなくなるほどだった。


「なんだ……、『コレ』……」

「……」


 あまりにも異様過ぎて、孝雄も返す言葉がなかった。老人の行動は不規則すぎて、理解も予想もまったく不能で、完全に理解の範疇を超えていた。


「武井さん、鎮静剤持って……って、うわ、なにこれっ!?」


 三田が医者らしい人を連れて戻ってきた。


「武井君、あんた、なんかしたのかね?」

「いや、取り押さえようとしたんだが、噛まれそうになったんで蹴っ飛ばした。そしたら、ああなった……」

「蹴っ飛ばしたって……あんた、さすがにそれはマズいだろう。しかし、いったい何が起きればあんな……」


 医者たちにも見当がつかなかった。


「えーと……、コレ、どうします……?」

「と……、とりあえず、ストレッチャーに固定して、鎮静剤打とう……」

「は、はい」


 唖然としていた一同だったが、ふと我に返って、医者の指示に従った。入院患者である孝雄には手伝う義務はなかったが、なんとなくその場の雰囲気に流されて、作業に協力していた。

 ストレッチャーを持ってきて、その上に老人を乗せ、手足をベルトで固定した。

 三田は静脈注射の準備を進め、医者は老人の眼球にペンライトを当てて瞳孔反応をみたり、脈をチェックしていた。

 そして、患者の状態に困惑していた。


「あの、静脈がよくわからないというか、血圧どうなってんですかコレ」

「極端な眼球運動障害がみられる。対光反射、なし。体温、異常に低い、というか冷たくなっとる。脈拍…………なし。心拍………………なし。呼吸も……しとらんなあ……」


 状況的に蘇生の可能性はほとんど絶望的とはいえ、まだ患者は動いており、医療従事者としては本来ならば心臓マッサージなどで救命措置を試みなければいけないところではあった。

 しかし、医者も看護師も手を止めてしまった。


「脳波はわからんが、反応見た限り脳幹にも既にかなりの障害が出とるだろう。体温含めて、普通に考えるともう動ける状態じゃないはずだが……」

「なんか、まだ動けてますねぇ」

「武井君、君が昨日言っていたのはこれかね?」

「いや、体温が異常に低いのは同じだが、昨日のは俺が駆けつけた時点でもう動いてなかった。たぶん昨日のより悪化してて、ずっと長く動き続けてる」

「ふむ……」


 老人はストレッチャーに固定されながらも、うなされるように首を振り、体を捩じらせていた。手も握ったり開いたりを繰り返していた。

 医者も看護師も、老人の状態にひたすら困惑するばかりだった。

 さらに五分が経過した頃、老人は唐突にパタリと動かなくなった。


「死んだ……?」

「死んだというか、止まったって感じですねぇ……」


 ようやく、普通の死体になった、とでも言うべきだろうか。


「あの……、よくわからないんでけど、つまりこの人は死んだまま動いてたと?」

「常識的には、あの状態であれだけ動けるというのは少々信じがたい、としか言いようがないな。ラザロ徴候といって、脳死状態の体が脊髄反射だけで動くケースもあるというが、これだけ継続してはっきりとした活動を見せたというのは聞いたことがない」


 孝雄は医者たちの会話が気になって聞いてみたが、医者は微妙に明言を避けた。

 いずれにせよ、孝雄が関われるのはここまでだった。後は専門家に任せて、孝雄はベッドに戻ることにした。





 だが、結局のところ安眠は不可能だった。一時間もしないうちに、市内の各所で救急車のサイレンがひっきりなしに鳴るようになり、市立総合病院にも連続して患者が運び込まれることとなった。

 さらには、念のため病院内の入院患者をチェックしてみたところ、かなりの人数が異常を示していた。

 急患も、入院患者も、大半があの老人と同様の症状を示していたのである。

 事態は病院のキャパシティを超えてしまい、野戦病院の様相を呈してきた。明け方には事態を嗅ぎつけたマスコミらも押し寄せてきて、大変な騒ぎとなった。


 そして、騒ぎはこの地方都市の一病院だけには留まらず、日本全国で、さらには全世界で同様の騒ぎが起きていたのだった。

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