第3話   大嫌いな人

 帰りのタクシーの中で、わたしは自分の掌を見ていた。


 祖母が掴んで離さなかった掌だ。


 その手は、よく叩かれて、手が真っ赤になった掌だ。


 裁縫用の竹の定規は、よく撓る。


 その定規は、体罰を与える鞭だった。


 一度、祖母を怒らせたら、泣いて謝ってもその鞭が止まることはなかった。


 止まるときは、祖母の手が疲れた時だ。


 わたしの手を打つ時の祖母の顔は、般若のようだった。般若が薄ら笑いを浮かべている。背筋が震えるほど怖い顔だった。



 そんなに恨まれているのかと、いつも思っていた。


 掌が真っ赤になり、掌から血が滲み出てきても、鞭は止まらなかった。翌日、痛くて箸や鉛筆が持てない事もあった。


 体育の授業があった日には、わざわざ転んで、他の場所に傷を作って授業を休んだ。


 掌の傷は意外と目立たない。


 学校の先生も気付かなかった。


 わたしも誰かに助けを求めることはしなかった。誰かに知られたら、もっと大変な目に遭うような気がしていた。


 祖母に叩かれている事を知っていても、両親は助けてくれなかった。


 だから、両親も同罪だと思った。


 そんな体罰は、わたしが物心ついた頃から始まり高校3年生に入ってからも続いた。


 体罰が治まったのは、姉が祖母の部屋の中に入って来たときからだ。




「お婆さま、何をなさっていらっしゃるの?」




 その日のわたしはあまりの痛さに号泣していた。祖母に謝っても叩かれ続けて、掌から血が滲み出ていた。




「静美ちゃん、こんな時間にどうしたの?」


「変な声がするし、泣き声と何かを叩く音が聞こえて、うるさいの」



 変な声は、お婆さまのヒステリックな声だ。わたしをなじって、貶めている声だ。



「あら、ごめんなさいね」



 その日から、体罰を受けなくなった。


 今思うと、姉が助けてくれたのかもしれない。


 部屋を出るとき、わたしの手首を掴んで、わたしの部屋の中に泣いているわたしを押し込んだ。


 姉は何も言わなかったし、何も聞かなかったけれど、きっと祖母に我慢ができなくなったのだと思う。


 姉に優しくされたことはなかったけれど、その日だけはわたしを庇ってくれた。


 その日を境に、わたしは叩かれることはなくなった。


 祖母は姉には甘かったから、姉に嫌われるのを恐れたのかもしれない。


 祖母も両親も姉も嫌いだったけれど、わたしは一度、姉に助けられた。いつか姉に一度だけお礼をしなくてはならない。


 そのいつかは、いつか分からないけれど、姉のために一度だけ力を貸さなくてはならないと思っている。


 家を出て行った姉を羨ましく思う。


 こんなイカレた家から、出て行った姉を見習いたい。けれど、わたしはまだ一人で生きていける術がない。貯金も少ないし、大学もまだやっと2年生になったばかりだ。大学卒業までにアルバイトをして、貯金を貯めたい。マンションを借りる資金を貯めたい。いつかきっと家を出るために。


 姉は家を出て、どこに住んでいるのだろう。


 学校はどうするのだろう?


 大学4年の姉は、もう既に就職先が決まっているのだろうか?


 姉妹だけれど、話をしたことのない姉妹なので、姉の考えていることは分からない。


 好きな女の子がいると言っていた。


 姉は男になりたいのだろうか?


 自分の事を俺と言った姉を、初めて見た。


 美しい長い髪を、ハサミでバサリと切り、さっぱりとした顔をしていた。


 姉は姉なりに、この家にいることを苦痛に思っていたのかもしれない。


 家族に愛された姉と家族に疎まれていたわたし。思うところは同じだったのかもしれない。

 




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