蜂蜜は甘いので
イブは初めて授業をさぼった。リラもきっと初めての経験だったに違いない。眠気に堪えるはずだった午後の授業中、最悪な気分でガラスの温室に向かうと、通用口があっさりと開いてさらに絶望的な気持ちになった。
陽光の降り注ぐ温室でイブは一人だった。こんなにも温かいというのに、芯まで凍えている。指にも足先にも熱が戻ることはなく、寒くて仕方なくて自分の体を抱えた。
一体何のためにキルティング校に入学したのだろうか。少なくともエドワードを殺すためではなかったし、リラを危険に合わせるためでもなかった。
吐き気に似た感覚が、胸をぐるぐるとかき回す。イブはしばらくそのまま立ち尽くしていた。
温室の植物に囲まれて、気が遠くなるほどの時間がたった。
——終礼の鐘が鳴る。イブは植物の陰に姿を隠した。
初めに温室に現れたのは三人の女生徒だった。その中には先日イブを門前払いしたローズもいた。銀の徽章を胸に着け、三人とも髪をきっちり纏めている。赤、白、紫のリボンを付けた彼女達は、中央の空間を瞬く間にサロンへと整えていった。手早く丁寧な仕事だ。
クラブロイヤルがやってくる前に、大体のセッティングは完了する。空のティーポットと伏せられたカップは最後の仕上げだ。これまでも紅茶はエドワードが来てからカイが入れていた。
準備を完了すると彼女たちはガラスの温室を退出した。北校舎との渡り廊下で出迎えるのだろうか。サロンは初めて侵入した日と同じ光景が出来上がっていた。すなわち、ティータイムの用意がされていて、誰もいない状態だ。
間もなくエドワードが温室にやってきた。その側にはカイがいて、少し遅れてルーベン、ジェイデンが続いた。彼らがお決まりの席に着くと、ティーを用意するためにカイは中央のサロンを離れる。
出ていくべきは、このタイミングだ。イブは植物の陰から飛び出した。
「殿下」
「……驚いた。イブじゃないか」
ちっとも驚いていない顔でエドワードは目を瞬かせた。あまりに不審な登場だったのでジェイデンが腰の剣に手を当て構えている。ルーベンは驚いた顔をしながらも、その口元が面白そうに笑っていた。
ルーベンとジェイデンはどうでもいい。問題はエドワードである。
「話があるんだ。この前誘ってくれたティータイム、今日は参加してもいいかな」
「……カイが離席している間を狙ったね」
「本題に移る前に始末されそうだからね。……それで、返事は?」
「……ふっ、いいよ。お座り」
エドワードは向かいの席にイブを促した。これで第一関門突破だ。
温かい紅茶を用意したカイが戻ってくる頃にはちゃっかりと居座る事ができた。カイ相手では問答無用で組み伏せられ、身体調査で毒薬が見つかる可能性がある。
案の定、戻ってきたカイは悪魔の形相に早変わりしたが、エドワードに制止された。ぐっと文句を飲み込んで、クラブロイヤルの面々とイブにも紅茶を用意してくれる。
温かな紅茶に、スコーンが並んだ。たっぷりのクロテッドクリームといちごジャム、それから蜂蜜が入った三連のプレートはテーブルの中央、ティースタンドの隣だ。魅力的なティーセットなのに、今日は全く食欲がわかなかった。
「それで? 本題とやらを聞こうか」
エドワードは指を組んでその上に美しい顔を乗せた。イブとは対照的にリラックスした様子だ。
イブは心を決めて、顔を上げた。
エドワードのティーカップの横にガラスの小瓶を並べる。正々堂々、正面切って。エドワードの視線とクラブロイヤルの注目が集まるのを確認してから、イブははっきりと告げた。
「これは毒だ。殿下に飲ませることになっている」
「僕に言っちゃうんだ」
「言わないと殿下が死ぬだろう」
イブの声は微かに震えていた。自分にそんな繊細なところがあったとは意外だが、繊細どうこう以前に人の命はそれだけ重い。
「まあ、最後まで聞こうか」
エドワードは冷静で、イブにはありがたかった。イブを排除しようと暴れるカイをジェイデンが押さえているが、見なかったことにする。
「リラが人質に取られた。管理小屋の用務員が犯人だ」
「ふーん、駄目じゃないか。僕に飲ませないとリラが死ぬってことだろう」
「だからこうして頼んでいるんだよ。殿下はリラに興味ないのだろうけど、私はリラを助けたい。力を貸してくれないか」
「……」
言うべきことを全て伝え終えて、イブは頭を下げた。机に額を擦るほど深く下げた。
イブにはもうテーブルクロスしか見えないけれど、頭の後ろで騒ぎになっていることが分かった。ジェイデンやルーベンが指示を出して、エドワードの許可ですぐ動けるように体制を整えている。
「イブ、顔を上げて」
エドワードは優しい声で続けた。
「僕が力を貸したくなるいい方法がある」
「なんだそれ、どういう文法だよ」
イブは体を起こしながら眉を顰めた。
とっておきの秘密を話すときのように、エドワードの目がきらきらと輝いている。青みがかったグレーの瞳に長い睫毛が影を落として、人間離れした美しさを形成した。
「——君、靴を舐めたことはあるかい?」
「……は」
イブは言葉を失った。
咄嗟にクラブロイヤルの面々へ視線を送るも、誰ひとりエドワードを止めない。あの紳士的だったジェイデンでさえ、じっとイブの反応を窺っている。
イブはすぐに理解した。
本気なのだ。エドワードは本気で靴先を差し出している。
「殿下、性格が悪いって言われないか」
「言われないかな。思われてるだろうけど」
相変わらず天使の微笑みだ。けれど今はもっと凶悪なものに見える。
「ああ、断ったっていいんだよ。リラが殺されたところで、僕は困らない」
「……分かっている癖に」
イブは眉間にしわを寄せた。これ見よがしに足を組んだエドワードの前に膝をつく。
「ああそうだ、美味しくしてあげよう。僕は優しいからね」
甘ったるい声がイブの頭に降った。
王子殿下は蜂蜜をティースプーンに取り、傾ける。そうしてイブの反応を窺っているところが本当に悪趣味だ。
琥珀色の蜂蜜が綺麗に磨かれた革靴の先にとろりと落ちた。
「……」
選択肢はない。
イブは両手でそっと革靴を支え、唇で触れた。一度、二度。もっと。
薄く開いた唇から舌をのぞかせ、ちゃんと蜂蜜を舐めとる。
「どんな味なんだい? 屈辱? 辛酸? それとも嫌悪かな?」
はは、とエドワードは声をあげて笑った。
もう、許されたのだろうか。イブはうーん、と首を傾げた。
「いや、普通に蜜の味だよ。殿下の靴は磨かれていて綺麗だし、気にならないかな。甘くておいしい」
「……」
真面目に感想を述べたのに、なぜか空気が固まった。カイが生ごみを見る目をしていることだけは分かる。
「……あれ? 私、変なことを言ったかな」
「……ふ、ははっ、あははは! イブ、君って……!」
突然エドワードがゲラゲラと笑い始めた。不気味だ。
「なんだよ」
「君って、かわいいね」
エドワードは満足そうにイブの頭を撫でたかと思うと、その額に口付けた。
その後、事件は呆気なく結末を迎えることになる。話を聞くと、通用口の件はエドワードも調べさせていたらしい。
エドワードがまっすぐ管理小屋に向かったので、イブは気が気ではなかった。リラが殺されてしまうのではないかと訴えても「大丈夫」と答えるばかりで、安心材料がない。状況を分かっているのか疑いたくなるくらいだ。
「だから大丈夫だよ、イブ。何度も言ったけど」
「……ジェイデン」
「あー、俺も心配いらないと思うぞ」
中庭を歩きながら、ジェイデンも頷いた。護衛としてエドワードに連れ立っているのだ。ルーベンは北校舎に残り、学校への連絡や警備員の手配に忙しくしている。
「カイを先行させただろ」
「カイじゃどうにもできないよ。カイよりもずっと大きな体で……それに人質もいる」
「うーんどういえばいいのか……まあ、見たらわかるか」
ジェイデンにも説明を放棄されてしまった。
全く納得できないまま管理小屋の前まで到着すると、中からリラの悲鳴が聞こえた。
イブは慌ててドアを開き、その光景に絶句する。
「……」
——用務員は後ろ手に縛られ、床に転がっていた。関節を外された両足がだらりと床に投げ出され、リラを青ざめさせる。用務員の背中に膝を置いて口に布を噛ませている男子学生が、カイだった。目は光を失い、表情も抜け落ちている。
「お前のせいであの女が……お前がいなければ……」
ぶつぶつ言いながら、無抵抗の相手の顎を殴った。ほらな、とジェイデンが呟いてカイを止めに行った。このままでは管理小屋が凄惨な事件現場になるところだ。
何も見ていないし聞いていないことにして、イブはリラに駆け寄った。
「リラ、大丈夫だった?」
「イブ……」
小さく震える体の細い手首に拘束の跡が残っていた。青ざめているのはどちらかというとカイのせいだと思われる。拷問まがいの光景を見せられたのだから無理もない。
「すまなかったリラ。巻き込むべきではなかったね」
イブは深く頭を下げた。今回、リラは完全にとばっちりである。ルーベンを止めてくれたり、クラスメイトの嫌がらせから守ってくれたりしたのに。結局何も返せなかった。
リラは深く落ち込んでいるイブの肩を掴み、そんなことよりと詰め寄った。
「貴女、どうやったの? 殿下が私を助けて下さるわけないわ」
ジャガード家の令嬢なだけあって、リラはよく分かっている。エドワードとは共通のいとこがいる関係だ。年も近いことだし、幼い頃から知っているのだろう。
今ならリラがクラブロイヤルを嫌っていた意味が、正しく理解できる。
答えようとしたイブの肩が掴まれた。エドワードは優雅にしか見えない手つきで、けれど強引に肩を抱く。
「やあリラ。簡単だよ、イブは僕に従ったまで」
「従った……?」
「あー、うん。靴を舐めたんだ」
イブは少しでも刺激を弱めようと極々何でもないことのように答えたのだが、リラは悲鳴を上げた。当然である。
「っ最低だわ! それが我が国の紳士がなさることですの!」
「リラって本当につまらないよね」
エドワードはイブの肩から手を離すと、やれやれと息を吐いた。
今度はリラがイブに近寄り、両手を包みこむ。白くて柔らかで華奢な手は温かく、イブも満更ではない。
勝手に気分を良くしているイブに、リラは泣きそうな顔をした。
「ごめんなさい。今度はちゃんと守ってみせるから」
いつだって自分の正義に従っている気持ちの良い令嬢である。
しかしエドワードはきっぱり断った。
「いらないよ。イブに手を出す奴はもういない」
「……意味がよく分からないな」
イブは首を傾けた。クラスメイトの嫌がらせのことを言っているのか、用務員のことを言っているのかも不明だ。
エドワードはイブの襟を掴み引き寄せた。前触れもなかったのでバランスを崩してエドワードに体重を預ける形になる。
「何だよ、全く」
「ご褒美だよ」
不満を口にしたイブを、エドワードは優しく諭した。その目線はイブの襟に向けられている。
——イブの襟に見覚えのない徽章が付いていた。金色に輝くヒナギクの徽章だ。
呆気にとられるイブに天使は微笑んだ。
「クラブロイヤルへようこそ」
後日、キルティング校を衝撃的なニュースが駆け抜けた。普通科の、それも平民がクラブロイヤルに加わった——暗殺未遂の件は伏せられており、あまりに唐突で違和感が拭えない。しかもイブの名前と共に一瞬で広まったので、すっかり時の人である。
当然クラスメイトからの嫌がらせはぴたりとなくなり、けれど遠巻きにされているのは変わらなかった。イブはクラスに馴染む日はもはや永遠に来ないような気がした。
徽章を身に着けると、改めてクラブロイヤルの威光を実感した。何しろこの学校の生徒は全てにおいてクラブロイヤルを優先する義務がある。
食堂に座ると赤いリボンのローズがどこからともなく現れて、お気に入りのサンドイッチを運んでくれた。しかも窓際のテーブル席に真っ白なクロスを広げてくれるので、食堂が優雅なレストランへと早変わりだ。
「ごめんなさいイブ。私にできることは何でも言って。今更だけど……でも、力になりたいの」
向かいに座るリラの表情は浮かない。イブがクラブロイヤルに加わってからずっとこうだ。イブ自身はクラブロイヤルを謳歌しているつもりだが、責任を感じさせてしまったようだ。
だから、イブも根気強く楽しんでいることを伝えるようにしている。
「大丈夫だよリラ。嫌な奴なのは間違いないけど、何だか上手くやれる気がするんだ」
「そういうところが心配なのよ……」
「誰が嫌な奴だって?」
「!」
食堂の喧騒に紛れて、いつの間にかエドワードが立っていた。食堂を利用している学生もエドワードに気付いてざわざわとどよめいている。
「もちろんエドワードだよ」
クラブロイヤルに加わってすぐに殿下と呼ぶなと指示されたので、イブははっきりその名前を口にする。
エドワードはリラの敵視も気にせず、じっとイブを見つめた。
「……自分の立場は分かってる?」
「当然だ」
「かわいい僕の犬らしく鳴いてごらん」
「わん」
これくらい、お安い御用だ。天使のご機嫌取りはすこし特殊である。
リラの美しい顔がなんともいえぬ表情に歪んだので、それだけが残念だった。
第一話「革靴は蜜の味」
完
・エドワード=キルティング『調教』
・カイ=パイル『献上』
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