14、さよなら蛙里
こうして、一夜にして人生ががらりと変わった。
蛙里で過ごす最後の晩、エシルバの部屋にユリフスがしんみりした顔でやってきた。待ちわびた彼女の顔を見つけてようやく笑顔を取り戻したが、自分でも疲れていて無理をしているのは明らかだった。
「このまま誰も来てくれないんじゃないかって思ってた」
「今日はいろいろあったから、きっとエルマーニョも心の整理がつかないんだわ」
「約束するよ。年末には戻ってくる」
「約束なんてしなくても、いつでも戻ってきて」
エシルバは彼女の手の中に小さな箱を見つけ、目を引き付けられた。
「それはなに?」
ユリフスは丁寧にふたを開けた。中には美しい「くし」と「はさみ」が入っていた。彼女は鼻から溜息を漏らすと、座りなおしてエシルバの正面を向いた。
「ほら、ちょっと後ろを向いてみなさい?」
彼女の言い方がなんとなくお母さんらしくて、エシルバは急に照れくさくなった。仕方なくユリフスに背中を見せ、あとはされるがままになった。
「蛙里の男の子は、20歳になるまで髪を腰丈まで伸ばしておかなければならない。成人したら、家族の誰かに髪を切ってもらう。まぁ、成人を過ぎてもそれぞれのけじめで髪を切るっていう人もいるんだけど。変な習わしよね」
ユリフスはくせのあるエシルバの髪をとかしながら言った。エシルバは頭を引っ張られながら、どこか安心しながらうなずいた。
「あなたはこれから外の世界に出て……いろんな物事に出合う。その時に、この風習が嫌だったら切っても構わないのよ」
「ユリフスに切ってもらいたい」
エシルバは後ろで驚く彼女の息を感じた。
「でも、これは風習じゃなくて……僕らの約束。いいよね。僕は成人する時じゃなくて、結婚するときに――この髪を切ってもらうんだ」
「あら、じゃあ随分と先のお話ね。あなたが結婚する時になったら、いいわよ。私があなたの髪を切ってあげる」
エシルバはクルリと振り返り、結びかけの髪束を持った彼女のことを見つめた。
「”僕ら”の約束だよ」
ユリフスは一瞬考え込んでから、半信半疑といった感じで笑みをこぼした。
「あら、約束は片方だけじゃ意味ないのよ?」
「ユリフス、お願いだよ」
そう懇願すると、しばらくしてユリフスはまた笑った。
「分かった」
「本当?」
彼女の手はエシルバの毛束をつかみ編み込んだ。
「じゃあ……あなたが私の未来の旦那さんってこと?」
「悪くないでしょ?」
「考えもしなかった」
恥ずかしそうにほほ笑みながらユリフス言った。
「大人は口をそろえてこう言うんだ。子どもの時よりも、大人になった時の方が時間が早く感じるって。きっと、僕らが大人になるのもあっという間さ。それに、髪を伸ばす理由なんて、僕らだけが知っている秘密でいいじゃないか」
ユリフスはうーんと数秒考えてから遠慮がちに笑んだ。
「そうね。よし、できた、と」
エシルバはユリフスが編み込みを終えたところでくしを取ると、ニンマリ笑った。
「このくしは僕が持っておく。はさみはユリフスが持っておいて」
「いいわ」
ユリフスは会話を心から楽しんでいるみたいだった。
「じゃあ、他の誰にも切らせちゃ駄目よ? 私がそのはさみを握るまで」
エシルバはユリフスが編んでくれた髪を見て満足げに笑った。「もちろん」
「おやすみ。明日は早いわ」
ユリフスはエシルバを寝かすと毛布を掛けてそばに座った。エシルバは急に不安になって、彼女の顔を見た。「お願い、行かないで」
部屋を出ていきかけてユリフスは足を止めた。エシルバはベッドから飛び降りて泣きながら彼女の胸に飛び込んだ。
「本当は怖くてたまらないんだ。だって、世界が終っちゃうなんて! そんなの僕、嫌だよ」
「みんな、そう思ってる。だけどね……エシルバ。私が怖いのはあなたを失うこと」
ユリフスはそう優しく話し掛け、しゃがみこんでエシルバの泣き顔をのぞいた。彼女は袖を伸ばしてエシルバの目元を優しく拭いてくれた。
「でも、きっと大丈夫。あなたはどんな未来でも変えることができる。それに、一世一代の告白ができたんだからきっと立ち向かえるわ、星の戦士さん」
ユリフスはエシルバの頬にキスした。
「これは私からのお守り」
翌朝、エシルバはパッと目覚めた。いつも通りの朝だったので、昨日の出来事が全て夢
だったのではないかと思うほどだった。しかし、窓の外をのぞいてがくぜんとした。やっぱりあったのだ。あの黄金色のロラッチャーが。
一方、エシルバには昨晩から考えていたある悩みがあった。友達のアルに、このことをなんて伝えればいいのかということだ。直接会って伝えればいい。けれど、彼は家族と出掛けているため今は里にいない。
ある日突然、親友に”90億人の命”が懸かっていると分かれば、彼はなんて言うだろう。なにより、その父親が犯罪者だと知ったら……
エシルバはアルが驚き、そして悲しむ姿を浮かべた。でも、きっと理解してくれるはずだ。叔父さんやユリフスたちのように……
なぜなら、エシルバは信じているからだ。
アルという1人の少年のことを。
エシルバは椅子に座り、ペンを持った。
アルへ
僕はきょう、蛙里を去ることに決めました。
突然で驚いたかと思います。
詳しく説明したいけど、あまりにも長くなるので取り急ぎまで。
君には手紙でなく、ちゃんと口で伝えたいんだ。
落ち着いたら必ず電話します。
君には最大限の”ありがとう”を。
エシルバ
1階のリビングに下りると家族全員が起きてエシルバのことを待っていた。エルマー
ニョとユリフスは何も言わずにエシルバをギュッと抱き締めた。
「もう随分と前のことなのに、お前を初めて抱いたときのことを今でもよく覚えてる。両手で抱えるのが精いっぱいだった」
エルマーニョは懐かしみながらエシルバの額に指を当てた。
「どんな時でも忘れるな、俺はお前の味方だって」
「忘れない」
里を離れる決意は固めたはずだったのに、彼を前にするとそうではない気持ちがうずいた。ユリフスは言葉を投げかける代わりに、深い愛情を込めた視線を一心に注いでいた。
「困ったときは、いつでも言って。大事なのは強がることじゃない。素直になって、正しい大人と友達に頼ることよ」
「僕にはユリフスたちがいる。だから大丈夫だよ」
別に強がりを言うつもりはなかったが、結果的に無理を言った格好になった。案の定、ユリフスはすぐに気付いたのかエシルバの肩に両手を置いて真剣に見つめた。
「いいえ、エシルバ。離れているからこそ、あなたには身近で助け合える人が必要なの」
「それって、友達をつくれってこと?」
「向こうに行っても、信頼できる人を1人でもいいから見つけなさい」
「自信ないよ……僕」
「できるわ」
「きっとみんな僕を怖がる」
「エシルバ」
ユリフスはゆっくり語り掛けた。
「相手を変えることはできない。私たちはみな違う存在だからよ。それは私、エルマーニョや叔父さんであったとしても同じだし、私もあなたを変えることはできない」
「でも、僕はユリフスと一緒にいて変わったよ! エルマーニョもそうでしょう?」
急に話を振られ、エルマーニョは「あ、あぁ」と言った。
「それは、エシルバが私に心を開いてくれたから」
エシルバは当惑して自信なくうつむいた。
「難しいよ。どうやったら相手は心を開いてくれるの?」
「時間はかかるかもしれないけど、心を閉ざした人にはあなたから心を開きなさい。心は光。ずっと見向きもしなかったつぼみが初めて花開いた時、心は通い合う。少しずつ相手はあなたの認識を変えていくのよ。とても素晴らしいことなのよ。人間が持った欲の中でも、黄金色のように輝く大切なもの。それは今、あなたのこの胸のなかにもしまってある」
胸の中にある黄金色の大切なもの――彼女の言葉は魔法のようにスーッと身に染みて自信へと変わっていった。
「……分かった、そうしてみる」
エシルバは目に力を込めて言った。
「きっと、すぐに帰るよ。またね――ユリフス」
エシルバはかばん一つ持って玄関のドアを開け、後ろを振り返らずに歩いて行った。しかしここで、耐えきれない思いが心を揺さぶった。足が自然と家の方に向き、アソワー
ル叔父さんの前で止まっていた。
「考えたんだ。僕が叔父さんの立場だったら……きっと同じように考えたって」
「私を、かばわなくてもいいんだよ。お前はもっと、怒るべきだ。本当のことを隠し続けた私のことを」
「叔父さん」エシルバはごしごし目をこすった。「言うのもつらいけど、言わないほうが
ずっとつらいんだ、きっと――今分かったよ」
アソワール叔父さんはエシルバを引き寄せると優しく抱いた。
「ユリフスが、僕に教えてくれたんだ」
慣れ親しんだ叔父さんの匂いに包まれながら言った。
「助け合える人が必要だって」
アソワール叔父さんはしばらく無言だったが、やがてこう言った。
「その通りだよ。人は助け合って生きているからだ。この先、必ず手を差し伸べてくれる人が現れる。そして、お前自身も人を助けられるようになる」
「本当に?」
「本当だとも。なぜなら今――私はお前の言葉に救われたからだ」
アソワール叔父さんはエシルバを優しく抱き締め、やがて名残惜しそうに引き離した。
エシルバはポケットに入れた手紙を取り出した。
「最後に……一つ、お願いがあるんだ」
そう言って、エシルバは手紙を差し出した。
「そのお願いは聞けないな」
どうして? とショックを受けてエシルバは叔父さんを見上げた。
最後のお願いなのに聞いてくれないなんて……シブーになりたいとわがままを言ったことが原因だろうか? それとも、こんなことになって、やっぱり心の底では迷惑に思っていたのだろうか。エシルバはありとあらゆる反省をしながらうつむいた。
「最後と言わず、何度でも――頼りなさい」
エシルバは驚きすぎて何もしゃべれなかった。
叔父さんの手には、エシルバが心を込めてしたためた手紙があった。
「アルに渡すんだろう?」
エシルバはうなずいた。
「あぁ、しっかり頼まれたよ――エシルバ」
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