02、ガーマアスパル一家、夜逃げする

「あと15分くらいで来てくれるそうだ」


 父親のアソワールが2階から荷物を下ろしながら言った。


「正面じゃ人目につくわ。裏口にお願いしたから分かってはいると思うけど」


「大丈夫さ、信頼できる業者だ。ここに越してくるときも世話になっただろう?」


 その時、投げ込まれた石と一緒に粉々になったガラス片が飛び散った。


「母さん!」

 エルマーニョは叫んだ。


 地獄のように長い15分だった。見知らぬ男がバットを持って襲い掛かってきたとしてもなんら不思議ではない。

 家の外には怒りに狂ったやつらの顔が無数に並んでいるのだから。


「これ以上は持っていけないな、家財道具は諦めるしかない」


 夫のアソワールがたくし上げた腕で額の汗を拭い、2、3ばかりの鞄を部屋の中央にドサッと置いた。


 準備は完了、エルマーニョは”弟”を抱えて2人のそばに飛び出した。エルマーニョの目元に乾いた涙の痕を見つけたカリィパムはいつもの柔らかい表情に戻り、視線を同じくしてこう言った。


「ごめんね」


 母さんは悪くないのに。

 エルマーニョは母に抱き締められながら安心感とは別に嫌悪感を感じていた。


 家族3人でご飯を食べたり、休日にはお客さんや近所の友達を招いて大きなパーティーを開いたりしたことを思い出した。すべてが遠い昔のようだ。


 床に散らばったガラス片を見るだけでエルマーニョの心はひどく落ち込んだ。

 電気もわずかしかついていない。窓の外は空襲でもあったように赤々と染まっている。


 人々の雑踏、叫び声、破壊音……。ガーマアスパル一家がこの豪邸に移り住んで二十年数年、こんなことはただの一度もなかった。


「大丈夫、必ず約束の時間に来てくれる」


 アソワールは言葉とは裏腹に、落ち着きなく天井を見たり外の様子をうかがったりしていた。そろそろ15分たっただろうか、エルマーニョは我慢できずにこう聞いた。


「どうして裏口なの?」


 アソワールはなんの隠し立てもすることなくこう言った。


「私たちは夜逃げをするんだよ」


「夜逃げ?」


「誰にも知られずに、住む場所を移すということだ。エシルバの父親が反乱を起こしたせいで、親族であるわれわれの身にも危険が及んでいる。

 デモを起こした一部の連中が暴徒化して、私たちにも怒りを振りまいているんだよ。でも、大丈夫。なにがなんでも私はお前たちを守るからね」


 シュンとするエルマーニョの額に優しくキスをした後、アソワールは耳を澄まして天井を見上げた。


 激しく窓ガラスが割れる音がしたかと思うと、今度はドサッと鈍く響いた。この家は広い。2階だけでも10部屋以上ある。


「あなた」


 カリィパムが不安げに夫の目をみつめた。アソワールは「大丈夫」と視線を返し、近くにあった棒を持って2階に続く階段を上り始めた。


「行っては駄目」


 アソワールは静かに首を振った。


 エルマーニョは自分が重しにでもなって父の足にしがみつきたい気持ちだった。でも、恐怖のあまり遠ざかっていく彼の背中を見ることしかできなかった。


 残された2人と赤ん坊は、アソワールの姿が完全に消えると身がよじれるほどの不安と悲しみに襲われた。


 しかし、息子と赤ん坊を残してはいけないと考えたのか、カリィパムはかたくなにその場から動こうとしなかった。


 事態が動いたのは5分とたたないうちだった。


 裏口のベルが鳴った。


 ドキリとしたが、裏口を知っているのはあらかじめ合鍵を渡してある引っ越し業者だけだ。そのことを知っているカリィパムは胸をなでおろした。


「業者が来てくれたんだわ! あなた、早く戻ってきてちょうだい。ここから逃げるのよ!」


 それでもカリィパムは用心深くのぞき穴で確認すると、待ってましたとばかりに勢いよく裏口のドアを開けた。エルマーニョが物陰からチラッと見ると、引っ越し業者の制服をきた背の高い男が2人立っていた。


 1人はモジャモジャの髪が帽子からあふれ、もう一人は無精ひげを生やしていた。エルマーニョは赤ん坊のエシルバを抱えるだけでも重労働だったが、また上から物音がしたので父親の様子を見にいくことにした。階段の手すりがあるところまで行き、そっと上から物音がしないか耳を澄ました。


「父さん?」


 返事がない。2階はしーんとしている。


「父さん!」


 いよいよ心配になって、エルマーニョは階段の1段目に右足を掛けた。

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