拝啓、粉雪舞い散る原稿へ

俺氏の友氏は蘇我氏のたかしのお菓子好き

桃花咲征く初版より、敬具

小説家。


その職業は過酷なものである。独り書斎に籠り、中々増えぬ原稿の文字数と睨めっこを続ける。


その睨めっこに勝てることは少なく、勝てたとしてもその勝利が正しいものかすら分からなくなり、何度も再戦を繰り返す。


また、そうやって書き上げた原稿が売れるのかも、完全なる未知数である。


そして…………本人も辛いが、それを支える者もまた相応に過酷だ。













雪の降る武蔵野を一人の女が歩いていた。


女は都会の社内人によく見るシャンパンゴールドのスーツを着て、少し高めの黒ビールを履いた至って普通のOLであった。


この武蔵野。


住所上では東京であるが、実際には東京ではない。


電車の本数も少ないし、高層ビルなんて精々駅前に一、二本。


一般的に東京と言われて皆が思い浮かべるような華々しい、有機ELと無機質なガラスに縁取られた人口密集地とはかけ離れている。


「………チッ…」


女は初めて訪れた武蔵野の予想外の天気に軽く舌打ちをした。


この時代天気予報の精度も随分向上したが、ハズレが無いわけではない。


女は今日に限ってそのハズレを引いてしまったことに若干腹を立てつつ、雪が薄く積もった冷酷なアスファルトの上を、その靴の音をカツカツと打ち鳴らし歩いて行く。


傍から見れば好きな男に振られた小娘。または取引先と馬が合わなかった営業と行ったところか。


この女、背はスラリと高いので周りからよく年上に見られるが、実際には働き始めてまだ半年の新人である。


女は小学生の頃、テレビに映る都会の風景に憧れた。


その憧れは持続し、大学から東京に行こうとしたが、親から国立にしてくれと懇願され、東京の国立は全て己の頭では到底辿り着けそうもなかったので断念した。


勉強に最後まで精が出ず、行けたのは家から少し離れた国立大学。


受験直前に頑張った程度で入れるくらいの頭の良さで、世間ではまあそこに入れれば良しとするかと言われるような学校であった。


大学の四年間の生活はさして特筆するようなことのないものだった。


一年生で手を伸ばしたアルバイトもバンドもすぐにやめ、その後の三年と少しを惰性で過ごした。


何をやっても続かないと自分を呪う女だが、都会への憧れだけは何時までも冷め止まなかった。


大学では断念したが、社会人になるのならば絶対にと東京の企業を受けるも、ことごとく見送り。


周りが就職やら院進学やらを決める中、唯一取ってくれた丸ノ内の広告代理店に焦りから就職した。


焦って決めたもので詳細な内容なんぞ見ていなかったが、行ってみて驚いた。


オフィスはボロボロ、従業員は三人。置いてあるパソコンなんて何世代前のものかも分からない。


照明に至ってはすべて蛍光灯と来た。

今どき田舎の一軒家ですらLEDを使うというのに。


女は辞めようかと迷ったが、少人数な分横と縦はがっしりしており、その会社の人は皆優しくて案外居心地が良いもので、これを辞めずにいた。


給料は高くもなければ低くもない。一人暮らしなら少し余らせる程度であったし、さして文句もなかったのだ。


「はぁはぁ……」


女が右手に持った紙袋を左へ持ち替えて、少し休憩をと道端に立ち止まる。


延々と続いていくかのように見える無駄に太い坂道を、ギンと睨むように見つめた女は少ししてからその足を動かし始めた。


先程から目つきの悪いことはまるでヤクザか極度の近視かというところであるが、残念。


女は乱視であった。


普段はシャンパンゴールドの薄い縁の四角いメガネをかけているが、この雪の日に限ってはそれを外してきていた。


所謂、おめかしというものだ。


そんなことをするくせに頑なに化粧は薄いままだし、格好は仕事のまま。


本当に掴みどころのないというか、変なところを気にする女である。


「…………ここ……ね…」


古びた一軒家の前で女は立ち止まった。


「…………」


女はガタついて錆の多い扉をそっと開けると、そこに己の耳を突っ込んで中の音を聞いた。


中からはつけっぱなしの台所のファンの回転音と、季節外れもいいところの風鈴の音、そしてカタカタというキーボードを打つ音だけが聞こえた。


カタ、カタカタ…カタカタカタカタ…………カチ……カタカタ……


規則的に聞こえて全くの不規則なその打鍵音は、玄関から最も離れた書斎から響いてくる。


「………いる……」


女はわざわざここまで歩いてきたのだから在宅なのは良いことのはずなのに、何故か悔しそうに呟いた。


「ど…う………しよ……」


女はしとしと降る雪の真っ白さに隠された奥行を見つめて、ぼんやりと言う。


それは誰かに答えてほしいものではなく、自分で自分に訪ねた独り言というものであった。


「………よし。」


決意を決めたように片脚のヒールを打ち鳴らした女は、バッといきなり立ち上がる。


「…………。」


焦る気持ちを抑えるために胸に手を置き、女は昔ながらの黒塗装が剥げてきている玄関に手をかけた。


「おっ、おじゃま…………」


汗でわざわざセットしてきた髪が崩れているのも気にしないほどに、女は緊張していた。


だがここでやらねばもう機会はないと、自分の持つだけの勇気をこの雪たちに染みらせて、女は立ち入りの声をかけようとした……………がしかし。


その声は途中で止まり、ズルズルと言う布切れの音が代わりに響いた。


「ぐふっ………うぐ…………ぶ………ぐぅっ……まだ………会えないの………」


女は薄く伸ばしたファンデーションの上に弾かれたその水粒を拭うこともせず、玄関のサビが会社用の服につくのも気にせず、玄関扉に背を預けていた。


カタカタ………カチッ……トン………カタカタカタカタ…


家の中からは変わらぬメンブレンの控えめな打鍵音と、ほんの少しの布ずれの音だけが響いていた。


この家の主は女が中には入ろうとしたとき、わざとそのエンターキーを強く押した。


家の主と女。二人は恋人であったはずなのに。


確かにインターネットという仮想世界でのみの関係であったが、わざわざ女が電車を乗り継ぎ雪道を歩いてまで来てくれたというのに、それはあんまりではないか。


「ぐぅ…………んっ………ぶぅっ………」


女はそれからずっと嗚咽していた。


ふと女が顔をあげると、その視界にはしんしん降り続く雪と、雲のない真っ青な空が見えた。


“雪はもうすぐ止む”


女はそう確信した。


だから待つことにした。


だってもう少し。あと少し待てば、彼に会えるのだから。


彼の綴る物語は気候とともに変わりゆく。


この雪が振り切った時には、彼は頭を掻きながらすまなそうな笑いを浮かべて、この錆びれた扉を開いてくれるのだろう。












武蔵野の風は冷たくも暖かく。

冬の訪れと恋の初稿を告げてゆく。


書き切った先に待つのは改稿かそれとも校正か。

武蔵野の地はそれを教えてくれる程優しくはなかった。

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