棋力全意のめおと
花里 悠太
第1話 日常
「そこまでだな。」
男は落ち着いたトーンで女に話しかけた。
密室に二人。緊迫した空気が満ちている。
男には余裕が。女には焦燥が。
追い詰めた側と追い詰められた側のコントラストがくっきりと浮かび上がっていた。
女は追い詰められている様子でうなされるように呟く。
「違う、まだ、まだよ。助かる手段がある、はず。」
男はその様子を見てため息をついた。
「いい加減に諦めたらどうだ。どう見ても無理だろう」
女は答える。
「諦めたらそこで終了なのよ。私は絶対諦めない!」
しかしその言葉とは裏腹に表情には焦りが見える。
「まあ、勝手にすればいいさ。ただな。時間は待ってくれねえよ」
男の言葉を裏付けるように時計の電子版の数字が進んでいく。
「うううう、でも、それでもなんとかしないと。。」
ピーーーーー!
突如けたたましくなった音を横目にガッツポーズをとる男を横目に女は項垂れていた。
「よし、今日の夕飯、片付け、寝る前のマッサージよろしく!」
「があああ。。切れ負けた。。あ、まいりました。」
「「ありがとうございました。」」
将棋盤を挟んで二人が挨拶する。
けたたましくなったのはチェスクロック。将棋の際に利用される計測用の時計である。
男の名前は田原遼。女の名前は田原彩香。二人は夫婦である。
会社の同僚で社内恋愛の結果、結婚した。
二人には共通の趣味があった。それが将棋である。
そもそも付き合う経緯からして変わっている。
会社近くの居酒屋。時刻は22時を回った頃、カウンターで1つあいた隣の席に座っているのにもかかわらずお互い食い入るようにスマートフォンを見つめていた。
ある瞬間、二人同時に立ち上がって、気まずげに見た時に初めて隣に同僚がいることに気づいたという。
二人が見ていたのは将棋のタイトル戦中継だった。
最年長でのタイトル奪取に向けた苦労人の棋士がタイトルを獲得した瞬間。
この感動を分かち合える人が身近にいると思っていなかった二人は運命を感じたと、後の結婚式でも語っており、周囲を困惑させていた。
兎にも角にもお互い、意気投合。将棋が結んだ縁は強く結婚まで漕ぎ着けた。
そんな二人の生活にはルールがある。
将棋勝った方が偉い人。
奇跡的に将棋の強さ、棋力が五分五分だからこそ成り立つ夫婦間の揉め事は将棋で決めるという一般には全く馴染まないルールだった。
「今日は家事多めにマッサージついてたからな。負けるわけにはいかんかったぜ。」
「あー悔しい。それにしても急に穴熊ってどういうことよ。宗旨返したの?」
「いや、驚くかなーと思ってさ。本で読んでアプリで最近試してたんだけど中々勝率よかったから。」
「そんな付け焼き刃に負けたのがなお悔しい。。私の振り飛車はまだ負けてない。。。」
「はいはい、ご飯よろしくー」
「ムカつく、、わかったわよ。でも私がここさしたらどうするつもりだったの?」
「そしたら同歩、、、はダメなのか。あれこれ不味かったかな」
「私も自信なかったのよね。。でもそっちの方がよかったか。」
将棋を指さない人には何を言っているのか全くわからない会話だが、ありのままを話せば本人たちは幸せなのである。
将棋を愛してやまない夫婦は今日も穏やかに過ごしているのだった。
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