きみに殴られた頬が痛い

郁崎有空

きみに殴られた頬が痛い

 目の前に小さな拳が現れた次の瞬間、私は背中から机の脚へと叩きつけられた。


 一瞬遅れて右頬が痛みだし、自分が殴られたのだとすぐに悟る。


 見上げると、歯を噛みしめて頬を赤らめたボブ髪のクラスメイトが拳を抱えて立っている。


「ご、ごご、ごめん!」


 私は右頬を両手で押さえながら、涙で滲む目で細い声を出す。


 予想以上に痛かったのもある。しかしそれ以上に、まさか彼女から殴られる日が来るとはミリも思わなかったのだ。


 しかし、彼女はこちらの言葉を無視して、そのまま踵を返して言った。


「……最っ低」


 聞こえよがしの声が、誰もいない夕暮れの教室の中で響く。そして、彼女は何度も机に当たるのも構わず猪突猛進のごとく走り出した。


「……なんでだよ」


 嵐の後の静けさといった教室の中、ひとりつぶやく。


 たしかに、あれはこちらが悪かった。しかし、ここまでやられるいわれはないし、彼女に非がないわけでもない。


 彼女に殴られた頬が痛む。さらに、呑み込めない状況と彼女に殴られたという事実の両方が、板挟みに私を責める。


 それは自分が思っていたよりも痛かった。気づけば私は年甲斐もなく、声を上げて泣いてしまっていた。




 次の日、全身を恐怖でびくびくさせながら、音を立てないよう静かに教室に入る。


 昨日のことがあったのだ。結局、彼女が暴れた跡をしっかり直して帰ったとはいえ、私があんなことしたという噂は広まっているかもしれない。


 ガーゼで覆った頬を手で隠し、誰にも気づかれず自分の席に座り、鞄から荷物を取り出して机に移す。


 ちらと、彼女の席を見る。彼女とちょうど目が合って、私はすぐさま視線を逸らす。


 日向真白ひなたましろ。いわゆる陽の側の人間で、天然な発言でクラスを癒すみんなのムードメーカー。彼女はどのグループにも構わず話しかけるようなやつで、それは私に対しても例外ではない。


 正直、私は彼女が嫌いだった。


 なにかあればちょくちょくこちらへ話しかけ、みだりにこちらを目立たせることをし、まわりに「なんだこいつ……」という空気を出させてしまう。こちらは陽の光を避けて生きる岩の下のダンゴムシだというのに、彼女はそれをわきまえず子供のように無邪気にそれをほじくり返すのだ。


 昨日だって、私が放課後に教室でうたた寝していたところを彼女に起こされた。そして、寝起きでよだれを垂らしていた私をバカにしてきたのだ。だから私は、一矢報いてやろうと、とっさに彼女の主張の激しい胸を触ってうろたえさせようと思ったのだ。


 彼女のことだから、かわいい反応でもして「もーやめてよー」くらいで許してくれると思っていた。しかし、結局そうはならず、こうして昨日のことに至る。


 ……デカかったな。


 ふと、手でひそかに器の形を作って、いまだ右手に残る感触を思い出す。


 布越しとはいえ、ふわふわのマシュマロでも詰まってるのではないかと思うくらい柔らかかった。自分にはないものだったため、いまだに現実味が薄い。


 まさか、本当にマシュマロだったのではないか。私は彼女が制服のポケットに入れたマシュマロを揉んだだけなのではないか。だとしたら、私はとばっちりを受けたことになる。だんだんと、なんだかそんな感じがしてきた。


 ひとりそんなことをしているうちに、ホームルーム五分前のチャイムが鳴る。私はすぐに手の形を崩して、いそいそと準備を続けた。




 四時限目が終わり、授業の教材一式を片付けて弁当のポーチと水筒を取り出していたところ、ガタンと喧騒の中でも大きな音が鳴る。


 見ると、日向真白が後ろの机に椅子をぶつけて立ち上がっていた。


「ちょっと、ひなたーん! いきなりどうしたの?」


「あ、ごめーん! 力入っちゃった!」


 明るい声で笑いながら、鞄から出したコンビニ袋を抱えて椅子をしまう。突然キレたのかと思ってビクッとしたが、別にそんなことはなく安心した。


 と、思ったところで。


 ぎろりと、一瞬針のような視線を感じる。私の全身の肌に悪寒が走り、ポーチから出そうとしたお弁当を取り落とす。


 絶対に彼女だ。そう思い、先ほどの席に向き直ったところだった。


 目の前を、誰かの腹が遮る。


「ちょっと来て」


 日向真白だった。


 いつもと違う低い声で、わざとらしい笑顔で脅すように袖を掴む。


 いまの私は、いつもの街で熊に遭遇したようなものだ。そんなことになれば、当然なにもできるはずがない。


 私は観念して、すぐに立ち上がった。そしてそのまま彼女についていこうとして、彼女はしかし動かない。


「お弁当忘れてるよ」


 彼女はこちらのポーチと水筒を取り、私に手渡してくる。


 私は泣きそうに震えながらそれらを受け取り、彼女についていく。


「あれ? ひなたん、黒崎くろさきと一緒?」


「あ、うん! よぞらんと仲良くなりたくて!」


 誰がよぞらんだ。


 いつもならそうつぶやいているところだが、いまは怖くて声も出ない。現に、彼女の手が私の手首をぎゅうと強く握っている。


 黒崎夜空くろさきよぞらの高校生活はもう終わった。これから私は、彼女によって高校生活どころかこれからの人生まで無責任に踏みにじられてしまうのだ。


 涙をどうにかこらえる。ここでボロ泣きしたら、余計にみじめになりそうで嫌だったからだ。


 私は彼女に引っ張られて、そのまま教室を出た。




 屋上の真ん中に、私と日向真白の二人。


 お互いに立ったまま、少し背の低い彼女が両手を合わせて頭を下げる。


「昨日はごめん! いきなり殴っちゃって!」


「あ、いや……」


「やっぱ跡残った? ごめん、力加減してなくて!」


「いやその、本当にいいから……」


 にへらにへらと、どうにかやり過ごそうとする。


 なんだ、いつもの日向真白じゃん。


 心でほっと安堵していると、彼女はいきなり無表情に変わった。


「で? なんであんなことしたの?」


 どきりと、胸が高鳴る。


「あ、あんなこと……?」


「昨日、その……揉んだよね?」


 冷や汗が浮かぶ。


 視線が泳がせ後ずさるが、彼女もそれ以上にこちらへ迫る。そうして、互いの身が触れ合うくらいの距離まで近づく。


「な、なにを……?」


「よぞらん揉んだよね! 私のおっぱい! 手の形作ってにやけてたの見てたんだから!」


「え、いや……よ、よく考えたらあれ、ポ、ポケットに入ったマシュマロの袋だったのかなって――」


「バカ!」


 また昨日と同じようなところを殴られ、コンクリートの床に尻もちをつく。


 ポーチと水筒が手から離れ、がたんごろんと乱暴に転がった。お弁当はもうめちゃくちゃで、水筒はおそらくどこかへこんだだろう。鼻血がたらりと垂れるなかで、そんな呑気なことを思う。


「分かんなかった、理解できなかった……よぞらんがそんなことするなんて、って……怖かった……」


「……ごめん」


 雰囲気に流されて、なんとなく言った。それでも私は、あれが彼女の方に非があるということを曲げるつもりもなかったが。


 あと何回か謝ったら、ほとぼりが覚めて帰ってくれるか。そう期待していたところで、彼女がいきなり倒れていたこちらにがばりとのしかかる。


 気づけばもう、抵抗ひとつできなかった。そのまま彼女は仰向けの私に馬乗りになり、こちらをまっすぐ見下ろしている。


 目には涙が浮かんでおり、口元は悪魔じみてにやついていた。


 そのまま彼女は私のブレザーのボタンに手をかけ、取れるような勢いで乱暴に外していく。


「や、やだ……!」


「よぞらんがおっぱい揉んだんだもん! わたしだっておっぱい揉んでもいいよねぇ!」


「意味わかんない! やめて! 犯罪!」


「自分でやっておいて!」


 ブラウスシャツもほとんど脱がされて、キャミソールとブラがかき上げられる。


 彼女は緊張気味に、そのゆるく隆起する肌色と頭頂の紅色を食い入るように見つめる。


 怖い、逃げたい、いますぐここから抜け出したい。


「み、見ないで……」


「……君が悪いんだから」


 彼女の指先が、そっと触れる。


「んっ……!」


 指の腹でつーっと撫でる感触で、変な気持ちになる。


 そのままぴとりとてのひらを被せ、二度三度動かした。


 どうして私は、クラスメイトにこんなことをされているのだろう。まさか彼女がこんなことする子だと思わなかった。


 そこで私は、ようやく気づく。


 ……彼女も同じだったのだ。


 私は今更そのことを悟り、そのまま身を任せて目を閉じる。



 わたしは兄が嫌いだった。


 ただそれは、昔からそうだったというわけでもない。元々好きでも嫌いでもなんでもなく、特別優しくもないが暴力を振るうわけでもない、まあまあ一般的な方の兄だった。


 たしか、胸が膨らむようになり、ブラをつけ始めたあたりからか。その頃から兄は、わたしのことをいわゆる『いやらしい目』で見るようになっていた。


 最初は気のせいだと思った。しかし、それを幾度も感じるにつれて、それが気のせいでもなんでもないことを確信する。


 家が団地だったこともあり、わたしと兄はあまり広くない部屋に同じ部屋を共有しており、寝る時も川の字――他に兄弟はいないから一本足らない――の布団で寝ていた。わたしはそれが怖くて仕方なく、母にも相談してみたが「気のせいでしょ」「自意識過剰」「そんなこと言われたって部屋がないし」とまるで相手にもしてくれなかった。


 そして中学の頃のある日の夜、兄がついにコトを起こした。


 夜中にふと目が覚めると、寝巻きの中でもぞもぞとした感触があった。


 嫌な予感がして、わたしは兄の布団の方を見た。すると、伸びた手が隣の布団の中へ引っ込んでいったのだ。


 わたしはぞっとして、パニックになり必死に叫んでいた。「ヘンタイ!」だとか「たすけて!」だとか「キモい!」だとか、少ない語彙ごい罵詈雑言ばりぞうごんの限りを大声で投げ続けて、少しして両親がわたしたちの部屋に来た。


 結局、兄は「そんなことはしていない」と主張し、両親もその言葉を信じてしまった。一方で、わたしは「思い込みの激しい子」という目を向けられるようになり、一時は父と寝室を入れ替えたりしてくれたが、ひと月も経たずおためごかしのようなことで無理やり説得させられ、なんの問題も解決しないまま元の寝床に戻された。


 ただ、それ以降は胸を触られることはなくなった。しかし、それでも兄がいやらしい目で見ているという印象は変わらなかった。


 棚からわたしのブラを取り出してぺたぺたと触ったり、ズボンを脱いでマットの上でブラに顔をうずめていたり、風呂から上がったところでスマホ片手に洗面所に入ってきたり。そのような時にはいつもあからさまに興奮に鼻の穴を膨らませていて、そこには確かな悪意が感じられた。


 そしてそれは、学校にもあった。


 クラスの男子はわたしをあきらかに性的対象として眼差していた。そしてそれは、同時に女子たちの反感を買った。なんと、何気なく男子と接しているだけで「男に媚を売っている」という印象を持たれたのだ。


 さすがにわたしも、同性の友達に嫌われるのだけは身にこたえた。わたしのことをいやらしい目で見てこないとすれば、間違いなくそちらだったからだ。


 だからわたしは、なるべく女子の方に好かれるようと動いていった。たとえ悪意的に利用されてると分かった時でも、わたしは必死で道化を演じ続けた。いま思えば、はたから見ていて相当に滑稽こっけいだったかもしれない。


 そうして、わたしは高校に上がった。


 なるべく知り合いと会わないよう微妙に遠い高校に入学し、そこから普通に穏やかに生きようと思った。それでも、身体に染みついた癖はなかなか離れることがなく、気づけばわたしはまた中学の頃と同じことを繰り返していた。


 そんなある日のこと。


 わたしは少し気疲れしていて、学校のトイレの中でため息を吐いていた時のことだった。


「バカみたい」


 後ろから声がして振り返る。


 ぼさぼさとしたセミロングと猫背の少女が長い前髪をかき分けながら、わたしの横を通り過ぎる。


 黒崎夜空くろさきよぞら。わたしも二度ほど話しかけたことがあるが、嫌われているのかいつも露骨にこちらを避けてくる子だ。


 友達もおらず、休み時間はいつも本を読むか机に伏せて寝ている。そして、好きこのんで一人でいるのかと思えば、体育の時間などの集団行動でいつもあぶれて情けなく縮こまり、日陰者のくせに頭も大して良くないという、ものの見事な社会不適合者だ。


 先ほどの言葉は、あきらかにわたしに向けられていた。わたしはすぐに、トイレに入ろうとする彼女の腕を掴む。


「……な、何?」


「バカってなに?」


「あ、いや……」


 笑顔を作ってそう訊くと、先ほどまで狼みたいなすました顔をしていた彼女が、途端に子犬のように変わる。


 なにがバカみたい、だ。それはそっちじゃないか。内心そんなことを思いながら、距離を詰めてやる。


 彼女の背中が仕切り板にぶつかり、彼女は口をへの字に曲げて、震える唇で口走る。


「だ、だ、だってそうじゃん! しょ、娼婦しょうふみたいに人に媚び売って、なにが楽しいんだって……」


 娼婦……。


 ぞっとする単語に、思わず手を離す。彼女は背を向けて舌打ちをし、あっという間に個室へ駆け込んでいった。


 違う、そんなつもりじゃない。わたしは、そんなんじゃない。男に媚びなんか売ってない。


 よろよろと、彼女の入った個室からひとつ空けたところに入る。便座に座り込んで、発作的に髪をくしゃくしゃと掻きむしる。


 ひどい。ひどすぎる。自分は自らの怠惰たいだで苦労してるくせに、人の努力をバカにして。わたしのことなんかなにも知らないくせに。陰キャのくせに。社会不適合者のくせに。


 わたしはどうにか声を抑えながら、その場で泣いた。そしてその後、わたしは授業に出られないまま保健室へ向かい、高校で初めての早退をした。




 それからだった。黒崎夜空のことをやたらと気にするようになったのは。


 わたしは休み時間のたび、わざと目立つように彼女に声をかけた。そして、重箱の隅をつつくように色んな質問を浴びせてやり、ペアを組む時や昼食の時は真っ先に仲間に入れてやった。彼女のようなミミズが、さんさんのお天道様の下でアスファルトに焼かれて苦しんでいく様が見たかったからだ。


 彼女はあからさまに嫌そうな顔をしながらも、渋々付き合った。見えないクラスカーストの強制力の前には、誰も逆らえないのだ。


 わたしの影響で、周囲の彼女に対するいじりが強くなった時があった。その時はわたしがまた道化になってヘイトを逸らし、すぐに火消しをしてやった。別に放っておいても良かったが、なんとなくその空気が嫌だったのだ。


 そしてその日の帰り、わたしは彼女の方から声をかけられる。


「あの、その……」


「ん? なに?」


「あ、ありがと……」


 おどおどとした様子で、そんなことを言われた。


 わたしにはそれがなぜだか嬉しく、その日は自然に心の底から笑っていた。


 途端に、彼女のことがかわいく思えてきたのだ。思えば、彼女はわたしが絡むといつも子犬みたいだったことを思い出す。


 その後、わたしは彼女と無理やり一緒に帰り、電車の中で別れた。


 わたしは先に降りた彼女の背中を追うように、しばらく手を振り続けていた。




 それから、少しして。


 ホームルームが終わり、みんなが部活動なり帰宅なりと動いていくなか、彼女はすうすうと眠っている。


 いつしか、わたしの中にわだかまる彼女への悪意はひどく薄まっていた。それどころか、だんだんとそのようなかつての感情に恥じらいすら湧くようになっていた。


 わたしは鞄の中のものを探すふりをして、他のクラスメイトがいなくなるのを待つ。それから、クラス当番や担任に適当なことを言って人払いをしたところで、まだ寝てる彼女の肩をぽんぽんと叩く。


 そうして、耳のそばでそっとささやいてやった。


「よぞらん、起きて」


 彼女はがばりと起き上がり、こちらを見て驚いていた。その様子がかわいくて、思わず笑顔になる。


「おはよ。もう放課後だよ」


「……さいで」


 気を取り直していつもの無愛想になり、机の中のものを鞄の中にざらざらと入れていく。はみ出たプリント類やらクリアファイルやら教科書やらノートがところどころ折れていて、結構汚い。だけどそんなところも、なぜだかかわいく思えていた。


 彼女が鞄のファスナーを閉めて立ち上がったところで、わたしはいつものように彼女を見回し、気になったところを指摘した。


「よだれ垂れてるよ」


 あまりに耐えられず鼻で笑いながらハンカチを取り出し、彼女の口端からこぼれたよだれの跡を拭う。


「まったくもう……君、赤ちゃんでちゅか? ……ってね」


 彼女への感情を隠しながら、照れ臭くおどけてみせる。


 ここ最近、たまに自分で自分のことがわからなくなる。この日もまさにそんな時だった。


「…………」


 そんな情けない顔を見つめていると、彼女がいきなり怖い目つきを向け始めたことに気づいた。どろっとした、憎悪かなにかに満ちた目だった。


 まあでもどうせ、なにもできないでしょ。わたし以外の友達もまともに作れないヘタレだし。そう思いながら、彼女の腕を取ったところで。


 なにかがブレザーに潜り込み、わたしの胸に触れた。見るとそれは、彼女の方から伸びた手だった。


 彼女は目を逸らし、胸を揉んだ。その顔にはたしかに下心があり、口元がいやらしくにやついていた。


 いつかの兄のことを思い出す。暗闇の中で寝巻きの下の胸を撫でて楽しんでいた、あの兄のことを。血の繋がった実の妹を性的に消費して楽しんでいた、あの顔を。


 ぞくりと、鳥肌が立った。飼っていた子犬がケダモノになったような、そんな不快感が全身を走る。


 気づけば、手が出ていた。わたしは自分の身を守ろうと彼女を殴り飛ばし、机の脚に叩きつけていた。


 もう彼女と一緒にいたくなくて、わたしは彼女に背中を向ける。


「……最っ低」


 そのまま何度か、誰かの机に乱暴にぶつかりながら、教室の外へと逃げ出していく。


 気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い……。


 止まらない涙を拭いながら、この現実から逃げるように走り続ける。




 その日の夜中、LOINに通知が入った。スマホを見るくらいの余裕もなかったが、眠れなかったこともありなんとなく確認する。


〈本当にごめん〉


 通知だけでも読めるくらい簡潔な内容。ただ一言そう書いてあり、誰だと思いながら名前を確認する。


『黒崎夜空』


 その名前を見て、複雑な気持ちが湧き上がる。そのまま、スマホを布団の上に軽く投げ捨てた。


 彼女から連絡をもらったのは、今日が初めてだった。


「なんで今更……」


 隣の仕切り板を見る。


 なにをしでかすかわからない兄と何もしない両親に業を煮やし、DIYで作った『国境』だ。「こいつを破れば領域侵犯りょういきしんぱんと見なし、どんなことをされても文句は言えない」という条約を兄と血判付き契約書で結ばせたのだ。このこと以降、兄と両親はほとんどわたしと口を利かなくなった。


 彼女とはこうなりたくなかった。できれば『普通の友達』でいたかったのに。


「……バカ」


 帰りだって散々泣いたのに、また泣きそうだった。手の甲で涙を拭って、歯を食いしばってこらえる。


 明日、どう会えばいいのだろう。


 そう考えて、ますます眠れなくなる。



 真白と二人、屋上でごろんと寝転がる。


 気持ちいいほどの青空。これで微妙な曇り空だったら微妙な気持ちになってたところだ。惜しむらくは、鼻の穴の片方に円筒状に丸めたティッシュが詰まっていることだ。


 下着とブラウスシャツのボタンだけ整えて、あとはめんどくさくなって放ったまま。昼食もまだ食べていない。


 今日はもう、疲れたのだ。


「……普通、直で触るかっての」


 真白の方へ、ヤケ気味に吐き捨てる。


 彼女はなにかすっとしたように、晴れやかな顔をしていた。


「君だってわたしのおっぱい触ったでしょ」


「私は布越しだった」


「同じですー。布越しだろうが直だろうが、傷つくことに大差ないんだから」


 ちょっかいをかけるように隣から伸びてきた手を、必死に払う。


 真白は腫れた目のまま、いたずらっぽい顔をして見つめている。あきらかにこちらをからかっていると、改めてそう確信した。


「あーもう、自分の触ってろよ! そっちのがご立派だろうが!」


「あーセクハラー! サイテー! クズー!」


「セクハラはそっちもだろ!」


 なんだかだんだんバカらしくなってきて、私も笑う。


 真白に襲われて胸を揉まれた後、真白は途中で理性を取り戻し、唐突に仰向けに寝転がって自分の話をし始めた。最初は死ぬほど興味もなかったが、腕を掴んで無理やり聞かされたのだ。


 兄に性的ないたずらをされていたこと、親はそれをどうにもしてくれなかったこと、体つきが女になっていくとともに男のいやらしい目つきが苦痛になってきたこと、同性の友達が欲しくてここ数年頑張っていたこと、別に自分は男になんか媚びてないということ。


 そして、私のことが嫌いで嫌がらせしてたことや、それがだんだんぶれてきていたこと、そして私に胸を触られて嫌だったことも話してくれた。


 私は申し訳ない気持ちになり、改めて「ごめん」と謝った。真白は「ごめんって何回言ってんの」とバカにしながらも、笑いながらこちらを小突いて許してくれた。


 そうして、今に至る。


 私は青空を見上げながら、ガーゼで覆った頬を押さえて、どこともなくつぶやいた。


「あー痛い。痛いなー。誰かさんに殴られたところがすげえ沁みるなー」


「人のおっぱい揉むからでしょ。天罰だよ」


「担任にチクったら停学にできるなー」


「君、そんなプライドないことできないでしょ。そもそも、わたし以外とまともに話もできない社会不適合者のくせに」


「……結構クソだよな、お前」


「君が欠点だらけなのが悪い」


 気づけば、真白とまともに話せるようになっていた。いままで得体の知れなかったものの正体が知れて、ちょっとだけ親しみが持てているのかもしれない。


 手の甲に、なにかが当たる。見ると、彼女の手の甲が当たっていた。


 また胸を触るのかと、もう片方の腕で庇うと、その隙にがっと手を取られた。


 指を絡みつかせるように、指と指を隙間なくぎゅっと繋ぐ。


「でもまあ、人のおっぱい触るのが、あんなに気持ちのいいことだと思わなかった」


「私は最悪だった」


「君も触ったでしょ。マシュマロがどうとか最っ低な感想も一緒につけて」


「あれはまあ……」


「あっ、ごまかしたー。自分の言ったことの責任も取れないんですかー」


「あーうるさい。ボロ泣きしてもうちょっと大人しくなるかと思ったら、なんでまだうるさいの」


 そんなことをしてるうちに、チャイムが鳴る。もはや昼休みのれなどではなく、五時限目が終わりを告げるチャイムだった。


 今日は色々あり、わたしとしては気にしてなかったが、念のために訊いてみる。


「んで、どうする? 戻る?」


「やだ、サボる」


「そうかよ」


 ちなみに先ほど繋いだ手は、融け合ったようにまったく離れてくれない。どうやら、私も巻き添えにするつもりらしい。まあ、どのみち置いていくつもりもなかったが。


 ふと、私は結局真白に一矢報いることができてなかったことを思い出す。怒りはもうなかったが、暇だったからまたなにか仕掛けてみる。


「そういえば、なんか斎藤が前に噂してたな。『ましろんって私のことやたら好きだよなー』とかなんとか」


「……まさか。おっぱい揉んでくるスケベなんか、誰が好きになりますか」


「だったら、これ離せよ」


「やーだ。犬はしっかりリードに繋いでおくのが一番だって、改めて考えさせられたんだから」


「誰が犬だよ、誰が」


 わたしはどうにか引き剥がそうと頑張り、がたがたがたがたと小競り合いをする。まったく取れない。


 なんだかバカみたいで、お互いまた噴き出してしまう。


「彼氏作ろうかな」


「は?」


「そしたら、お前みたいなクソ重いやつから離れられるし」


「……ハッ、君に彼氏ができるわけないでしょ。エンコーでもするつもり?」


「とか言いながら、本当は私に彼氏なんか作って欲しくないんだろ。私のこと大好きすぎるから」


「……違うし。そんなんじゃない」


「重い女は嫌われんぞ」


 返事が途絶える。なにか思うところがあったのかもしれない。


 あくびが出るほど長く待って、彼女が答えた。


「……それは治す」


「そっか」


 頬を赤く染めた、かわいげのある横顔をじっと見つめる。


 なんだかんだ、黙っていれば可愛いやつだと思う。黙っていたらそれはまったくの別人で、特に関わり合うこともなかったろうが。


 それにしても、右頬が痛い。やはりいくらこちらに非があるからって、ここまでされるいわれはなかったと思う。


 この痛みは、この時のことは、これから一生忘れられないだろう。特に根拠もないが、なぜだかそんな確信があった。




〈了〉

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