11話「大喰らいのメソッド」ー後編
短い期間ながらも培った辰実と怜子との信頼関係を否定され、気圧されていた怜子は立ち直る。
(このまま否定されちゃ駄目!私だって強く"ある"んだ!)
「離して」
「は?」
恐怖で涙を浮かべていた筈の怜子が、冷静な口調になっている事=思い通りになっていない事に苛立った事は、その声色で分かった。しかし怒りのままに出る言葉も、次の瞬間に遮られる。
ドアをノックする音。"誰かが様子を伺っている"と察した月島は、痛くならない程度に掴んでいた怜子の髪も背中もそっと手放した。…介抱された怜子は真っ先に鍵を開けて部屋を出た。
部屋を出る瞬間、怜子が月島に見せたのは"不敵な笑顔"。
*
鍵のかかったドアの前で、ただただ月島が怜子に恫喝されている様子を見守る(壁越しに聞いているのに"見守る"と言うのも如何なものか)辰実、饗庭、古浦の3人。
「小間使いも大変でしょう、古浦さん?」
「察して頂けると嬉しいです」
"煙草吸いますよ"と言いながら、古浦はカジュアルなジャケットの内側から紙煙草の箱を取り出す。1本を口に咥え、箱に入れていた銀のジッポライターに火を点け吸い始めた。
「灰落とすなよ、掃除のオバチャンがうるせえから」
「この層の担当の方はうるさかったですね」
紫煙を吐き出しながら、古浦は"ふふ"と笑う。辰実も着ていたパーカーのポケットから缶のコーラを取り出し、プルタブを起こし弾けだす炭酸を喉に流し込む。
「ずるいぞ、俺も何かあるかな」
饗庭も服のポケットというポケットをあさると、チョコレートバーが出てきたので早速口にする。
「張り込み捜査みてえだな?」
「煙草吸ってコーラ飲んでおやつ食べてる張り込みがあるか」
「お、本格的な話か?」
「ふざけてないで様子を見守っているんじゃなかったのか」
3人がこうやって寛ぎながら(も、心配はしている)一方的な言葉の暴力を見守っている。壁の向こうで今も一方的な恫喝が聞こえたと思えば、急に優しい声になって怜子を傷つけていた。
「何やってるの?」
打ち解けた様子の3人であったが、愛結の登場により、はじめの火花が散りそうな様子に戻ってしまう。
「月島さんを何とかしたいんですが、今入ると更に激情化しそうで」
「入ってるのは、怜子ちゃんも?」
「はい。…恐らく、部屋に呼び出したのでしょう。」
辰実がコーラを一気に飲み干している間に、古浦は愛結に状況を説明する。いつも温和な表情をしている愛結が険しい様子なのは事を察しての事だろう。
「止めないの?」
「入ろうにも鍵がかかってます」
「ノックでもすればいいじゃない?」
「その前に状況を確認してください」
古浦が冷めた口調で丁寧に説明をする。愛結の表情に怒りが滲んでいる様子から、状況は察してはいるだろう。辰実達3人がやっているように愛結も壁に集中し、中の様子に耳を傾ける。
『分かるよね、一人だって?怜子ちゃんの所の愛想の悪い店長さんだって、愛結さんの旦那さん?…ここまで言えば分かるよね、"お前の味方なんて誰一人いない"って!?』
「止めに入るわよ」
様子を聞いた愛結は意を決したかのように、ドアをノックする。…暫く後に会話は止み、ドアが空いて先に怜子が出ると、追従するように不機嫌そうな様子の月島が現れた。
「…亜美菜ちゃんは、すぐ会議室に戻って。怜子ちゃんは話があるからここにいて。」
2人とも頷き、月島は古浦、饗庭とともにその場を去った。…ただ、愛結に指定されていない辰実もこの場に残っている。
「すまないが俺も話がある。大丈夫だ、説教では無い。」
「…ごめんなさい」
「ちゃんと逃げずにいた事は良い事だ」
3人だけになったのを確認し、愛結と辰実、続いて怜子は先程まで"モデルが元グラビア相手にやっていた恫喝ショー"の現場に戻った。
"言いたくない事があれば無理に言わなくていい"
愛結が2人に背を向けた瞬間に、怜子に耳打ちする辰実。いつぞや初めて会った時に聞いた言葉であったが、その時に怜子が感じた緊張感とは違う。同じような言葉であったのに、その一言が今は嬉しい。
部屋に3人が入り、怜子が気を遣ってドアを閉めた時に振り向いた愛結が見せたのは"辰実に対する"厳しい視線。
「どうして止めなかったの?」
「止める必要が無かったからだ」
「怜子ちゃんは一方的に恫喝されてたのよ。貴方だって聞いてたから分かるでしょ?」
「それぐらい分かってる。…だが、俺が止めに入った所で何が変わる?」
怜子からすれば、初めて見る"夫婦2人"の様子が修羅場であった。"アヌビスアーツ"で怜子がこっそり見てしまった写真からも、いつも愛結から聞いていた"辰実の話"からも思い描いていたのは、互いが互いを大切にしている"仲睦まじい夫婦"の姿であって、人前で険しい表情をして相対している姿では無い。
(篠部ちゃん、驚いているとは思うが俺も愛結にこんな顔をされたのは初めてだ)
「そもそも、この子に恫喝される謂れは無いハズだが?」
いやらしい質問であった。
何が"いやらしい"かと言うと、この言葉が怜子の"契約解除"に関する話の真偽を問う質問であるとともに、愛結が怜子に対して"どう思っているのか?"を問う質問であるからだ。…論理が飛躍し過ぎているかもしれないが、整理して考えてみれば筋は通っている。これも愛結が止めに入って怜子を"残らせた"事から打ち出した計算によるモノ。
辰実のこの発言に愛結が"謂れは無い"という意思を示せば、たちまち"わわわ"の人間が怜子の契約解除を"不当なモノです"と認める事になる。そう答えるという事は、愛結は怜子の事を"悪い事はしていない"と言う事になる。たった1つの質問に答える事が、怜子の救いにはなるのだ。
「…そうよ。この子は何も悪い事なんてしていない。」
俯いていた怜子が顔を上げる。愛結が辰実に向けていた厳しい視線は、今は怜子に向けた優しい視線になっていた。海底を思わせるような瑠璃の混ざった青色の瞳に刺すハイライトが揺れているのは、いない自分の妹にも近い怜子に苦しい道を歩かせる結果になってしまった事を申し訳なく思っているからだろう。
「怜子ちゃん、…ごめんなさい。私は、貴女を助ける事ができなかった。」
驚いていた怜子が、徐々に堰を切ったように涙を流す。声を上げず、さめざめと大粒の涙を流し話をすすり始めた。写し鏡のように愛結の様子も、少しずつ悲しい表情を帯びて変わっていく…。
「辰実の所にいたから良かった、なんて言えない。…辛かったでしょう?」
愛結が怜子を抱きしめたのは、怜子が泣いているのを誰にも見られたくなかったから。"辛かったでしょう?"と言われ、必死に首を左右に振る怜子も愛結の腕にしがみ付いて離れない。
袖を濡らす、妹にも近い、もう"妹だ"と言っていいくらいの存在を、もう手放したくないくらいに見守る愛結を見守っているのも野暮だと思った辰実は、気づかれないようにそっと部屋を出た。
(黒沢辰実はクールに去るぜ)
しかし、部屋を出て暫く歩いた場所で饗庭と古浦が待っていた事に溜息をつく。
「どうしてクールに去らせてくれないんだ」
「お前に大事な用事を伝えるのに待ってたんだよ、古浦と」
「…黒沢さん、奥様を含めた4人で話をさせて欲しいのですが。今夜は空いてますか?」
黒沢家は金曜に"お泊りデー"と言って、愛結の実家に娘3人が泊まりに行くという習慣がある。考えてみれば丁度、その金曜であった。
「妻には俺から話しておきます。時間を作りましょう。」
*
"アヌビスアーツ"。
怜子を巡るトラブルはあったものの、"表向きは"キックオフミーティングは滞りなく終わり辰実達は蕎麦を食べて帰って来る事ができた。…戻ってきたのは昼の1時を過ぎてからで、ここから辰実と怜子は"若松物産"の広告作りのために夕方まで作業という予定。熊谷、栗栖、マイケルの3人は怜子も1枚噛んだ"ひらがなTシャツ"のサンプル確認をしにすぐさま出て行った。
「お疲れ様でございました」
"わわわ"のミーティングルームに拵えられたものよりは確実に小さいが、"アヌビスアーツ"のために用意されたミーティングテーブルの方が心は落ち着いた。自分のデスクから"9630"とポスターカラーで書かれたノートを手に取ると、伊達もその正面に座る。
「肩が凝りますよ本当に、デカい企業は。いかにうちの事務所がいい仕事場かよく分かります。」
「ほっほっほ、左様でございますか。」
ふとした事でも、あまり口を開く辰実では無いのだが伊達には思った事を直ぐに言ってしまう。立場上は辰実が責任者であるが、伊達は立場が上の人とも言えないし部下でも無い"よく分からない"立ち位置であるのだが、彼がいなければ"アヌビスアーツ"は回らない。
辰実に倣ってやったのか、"Reiko"とピンク色のポスターカラーで書かれた黒色のノートを持って、怜子もミーティングテーブルの一席に座る。
「それは黒沢さんが、大を相手にも小を相手にも、常々背筋を伸ばして向き合っておられるからです。」
「背筋を伸ばす、ですか」
「率いる勢の大小に関わらず、"将たる者"は常に堂々とあるモノ。…それを実現しておられれば、肩も凝りましょう。」
「古来より小が大を制すための戦い方、でしたか?」
「そして時には耐え抜き、時には隙を突き攻める!…心躍るモノがありますなぁ。」
「実現するためには、常に"攻める"気持ちと"相手を前に逃げない"という気持ちが必要になります。俺も常に忘れずいたいものです。」
伊達が淹れてくれたレモンティーを、ゆっくり口にする辰実。
「…そう言った意味では、今回のミーティングは"成功"だったのかもしれません。」
辰実は怜子の方を見たが、怜子の方は恥ずかしそうな顔をして両手を使いカップに口をつけレモンティーを飲んでいた。
「立役者は、怜子さんですかな?」
「そうですね。彼女が逃げず耐えてくれたお陰で、勝機が視えました。」
"ほう"と伊達が興味深そうに背を前に屈めたのに、更に恥ずかしくなってカップを置き肩をすくめてしまう。
「結局、私は何も言い返せてません」
「…そうか?俺は聞いていただけだし、愛結が止めに入ったという結果にはなったが、それでも君は最後まであの場から逃げずに耐えた。」
「結果そうなっただけです」
「結果そうなったからいい。それでも君は愛結が止めに入るまで耐え続けた、…それは"逃げずにいた"と言う事、言うなれば"攻めの姿勢"を崩さなかったという事だ。」
「黒沢さんが言ってた、"相手を前に逃げない"という事ですか?」
「そうだな。結果として愛結が"止めに入った"とかではなく、愛結が"止めに入るまで耐えた"。…その結果どうだ?君が謂れなき理由で"わわわ"を追い出された事を愛結が教えてくれた。そして、愛結が君の事をどう思ってるか分かっただろう?」
「あの場で、愛結さんと話ができて良かったです。…でも、あの場には古浦さんもいましたよね?」
(最も、古浦が"止めに入れなかった"理由も考えられる。…それを問い詰めるのは今夜だが。)
「ああ。だが古浦さんは止めに入らなかった」
「結局、古浦さんは私の事を見放してるんですね…」
「まだそれを判断して良い状況では無い」
古浦の事を思い出して俯く怜子にかけた辰実の言葉は、怜子を慰めるものでは無かった。辰実の視点から見ても、古浦が"怜子の為に動いている"と言うのはあくまで推測しか無いが、その意図が確認できず"怪しい"と思える行動しかしていない。
「俺も、彼が何を考えているか分からん。」
「そうですか、黒沢さんも…」
「だが今夜は、彼が何を考えているかを知るいい機会かもしれない。」
「古浦さんと会う約束でもしてるんですか?」
「ああ。今夜、俺と愛結、饗庭が呼ばれている。場所は、商店街にあるホテルのレストランだ。」
"古浦と会う約束をしている"と聞いて、怜子の目の色が変わった。長く一緒に仕事をしてきた人の裏切り、その真相を知りたいという気持ちは当然だと言っていい。
「私も一緒に行かせて下さい。古浦さんと直接話がしたいです。」
さっきまで恫喝に怯えていた女の子の顔では無かった。"元々と言えば自分も共に真実を追求する"と目で辰実に訴える怜子の気持ちは分かる。
「いいや、俺だけで行く。」
「駄目…ですか?」
「向こうがメンバーを指定している。内容は、恐らく君に関する事だ。」
「私の事ですか」
「あの男は"確実に"何かを知っている。君を指定しなかったという事は、"知られたくない"内容なのだろう。」
(知られたくない事…。絶対に"私の契約解除"に関する事だ。信頼関係があると思ってた、でも古浦さんは私に何も言おうとしないのかもしれない。まるで私が"蚊帳の外"みたいだ。)
「まるで君の事を部外者みたいに扱う態度だな。」
(本当、黒沢さんの言う通り。どうして私が"部外者"なの?…私がやられた事なのに?どうして勝手に大人達で物語が進んでいるんだろう?)
「君の物語を勝手に動き回る前に、1つ教えてくれ。…言いたくない事は、無理に言わなくていい。」
「優しいんですね、黒沢さんは。」
「よく使っていた言葉だよ、優しいなんてモノじゃない。」
ミーティングテーブルの一席に肩をすくめて、ちょこんと座っている怜子の姿は、辰実よりも1周り下の"女の子"だった。"わわわ"に入る前は下ろしていた長い髪も、蕎麦を食べる時に結んでいた事に今更になって辰実は気付く。そんな彼女の姿を、"面接"の時に見た事がある。
1つだけ違う事があった。
流されるままに"アヌビスアーツ"にやって来た怜子と、中心にいながら"蚊帳の外"でいるのに何かをしようともがき始めた怜子。
「話をするのは俺だ。…だが話の中心にいるのは君だ。せめて俺に、何かを持って行かせてくれ。何か彼に伝えておく事でも良い。」
(良かった。私にも、何かできる事があるんだ!)
じわりと両目の端に流れようとしていた涙を、手首で拭う。右手で長い髪をなぞるようにヘアゴムを外し、首を左右にゆっくり動かして髪を整えようとすると、憂いの混じった表情と黄色味を帯びた薄い色の肌、恥じらいを塗った桃色の唇、そして右往左往と不規則に描かれる茶色い線が一枚の絵になった。
怜子の手にあったのは、黒色のヘアゴム。何の変哲もないように見えて、表面を覆う繊維の中に金色の意図が光る。
「これを、古浦さんに渡して下さい。…それであの人は、全てを理解してくれると思います。」
「渡せば良いんだな。忘れないようにしておくよ。」
「ありがとうございます。」
このヘアゴムを渡す事に何の意味があるのか、怜子の意図は辰実に分からなかった。…それでも、この数週間という短い日の間でハッキリとした色になってきた彼女の目を見るだけで"訊かずとも"この先を拓いてくれると信じるだけのものはあった。
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