4話「追いかけっこ」
(前回のあらすじ)
"アヌビスアーツ"に入社し、晴れて新社会人としての生活をスタートする事になった怜子。
これから怜子が受ける事になる新人研修は、"スケベなニワトリ"を描く事から始まった。訳も分からず混乱した怜子は、辰実のくれたヒントやデスクの本棚に置かれていたスケッチから、分解して考え始めた"スケベ"と"ニワトリ"のうち、"ニワトリ"の形を捉える事に成功する。
更に、自身がこれまで接してきた"スケベな大人"のイメージから、"スケベなニワトリ"を描きあげた事で"相手の立場になる、もしくは相手の事を想像する"術の基礎を学んだのであった。
新人研修が始まって、3日が経つ。
やる事学ぶ事の全てが、怜子には新鮮すぎて"気づいたら"帰宅している生活を数日続けていた。"また余裕ができたら楽器を弾こう"と思いながら、薄手のニット製のTシャツを脱いで洗濯ネットに入れる。
1人暮らしの部屋でキャミソール姿になった怜子は、"Studio Bianca"から届いていた大きな封筒を手に取り、糊付けされていた封をハサミで丁寧に開け中身を取り出した。
ラミネート加工された写真。白い背景をバックに映っていたのは藍染の着物に、南国の海底のような碧色の袴を着て、振り返ってカメラに視線を向けていた怜子の姿。
カメラの性能が良いのか、全てを集中して怜子にピントが向けられていた写真だった。自分が思っているより"大人になった"自分の写真に思わず驚いてしまう。
(こうやって、いつも"違う私"が見れるから嬉しくて…)
年が明けて、別に何ともなかったように生活していたから"グラビアアイドル"の仕事が教えてくれた歓びも諦めてどこかに行ってしまったというのが間違いだった。突然の事で"諦め"を持っていた部分があるから思い出す事もなく過ごして来れただけでしかない。
(でも今は、デザイン事務所の社員。今の私も"違う私"。)
また、真崎から声が掛かった時はモデルになってみたいとは思う。思い出してしまった、歓びの感情を拭い去る事ができないものの切り替えていこうとする、半々の感情ごと怜子は写真を棚に片付けた。
(もう今日は、シャワーを浴びて寝ようかな)
湯船に浸かりたかったが、用意するまでに時間がかかるのと後始末が面倒なのでシャワーを浴びて済ます事にした。これは所謂"一人暮らしあるある"。
数十分後。
化粧を落とし、体を洗い流し寝間着のシャツとショートパンツに着替えた怜子は、濡れた長い髪をタオルで拭きながらリビングへと戻ってきた怜子。スリープ状態になっている携帯の、ランプが点滅していたので"メッセージか何かが来たのかな"と思い画面を開く。
母から、着信が来ていた。
おおよそ"用件が分かっている"から、"知らない"と答えるようにそのメッセージ横にスライドして視界から消して無視する。まだ消えた感覚が無くて、着信履歴からも母の名前を消す。
連絡を返す事無く、髪を乾かしてその日は眠りについた。
*
翌日。研修4日目。
"アヌビスアーツ"は本日もおかしい。
この日は辰実が早く出勤していたのだが、何故か馬の被り物を被ってデスクで腕組みしドッカリ座っており、"おはようございます"と言っても"ヒヒーン"としか返事がない。更に出勤してきた熊谷、栗栖、マイケルも馬を被っており、辰実のように"ヒヒーン"としか答えなかった。
しかし伊達だけは馬を被っておらず、"おはようございます"と挨拶すると"おはようございます"と返してくれた。"おはよう"と話しかければ"おはよう"と答える人のいる温かさを感じる。
この不可解な状況でも、先日の"デビル黒沢"の件があったから免疫ができている事に自分でも驚けば、時計が9時になる。
"朝礼"が始まる合図は9時になり辰実が立ち上がる瞬間で、特に"朝礼を始めるぞー"とぶっきらぼうに言ったりする所は見ていない。…本日も同様に、"朝礼をするべく"辰実が立ち上がると、その音を察して事務所内の全員が立ち上がる。
「ヒヒーン!」
「「「ヒヒーン!」」」
朝礼の終わりは、辰実の"着席"が合図。結局"嘶く"だけで訳の分からない朝礼が終わると、馬4頭は一斉に被り物を脱いで素顔を露わにした。そして、何事も無かったかのように業務を始める。
「よろしくお願いします。今日は何をするんですか?」
「今日は、"君にしかできない"仕事を頼みたい。」
言っている事は冗談だろうが、"何だろう"と怜子はワクワクしてしまう。
「トビ」
「はい只今」
"ミーティングテーブルに来てくれ"と熊谷に言われ、怜子はテーブルの一席に腰かける。熊谷がテーブルに拡げた紙には上下に矢印が描かれ、その先に何か描かれている。
上下に"カッコよさ"と"可愛さ"
左右に"男性的"と"女性的"
そして目の前に置かれる、"平仮名"の書かれた紙の山。手に取って眺めてみると、"すいか"とか"おに"とか、統一感の無い単語ばかりなので全く何が何だか分からない。
「トビさん…、一体これは何ですか?」
「よくぞ聞いてくれた!」
スイッチが入ったように、急に熊谷のテンションが上がる。"トビの奴はオタクっぽい"と栗栖は言っていたが、怜子も今この瞬間納得できた。怜子にも秋葉原的な趣味のある友人はいたが、"自分の得意な話題"になると急に水を得た魚のようになったのだ。
「"アヌビスアーツ"では、"ひらがなTシャツ"というデザインTシャツをやってるんだ。…見てくれ、この黒地にシンプルな白文字の"平仮名"を!これこそが芸術なんだ!」
(この平仮名が書かれたTシャツが…)
"芸術"と言われればよく分からないのだが、熊谷が自分の仕事に対して情熱を持っている事は分かった。自分のやっている事に対して誇りを持って取り組んでいる人に対しては好感が持てる。
「怜子ちゃんには、この平仮名にどういうイメージを感じたか整理して欲しいんだ。…これからまた新しい"作品"を作りたいんだが、是非とも女の子の視点が欲しくてね。」
眼鏡を指で整えながら、熊谷は説明を続ける。
「今までの"ひらがなTシャツ"は、どれも男性向けなものばっかりだったんだ。これからは"女性向け"の平仮名Tシャツというのを世に出していきたい!」
(このTシャツを着ている女の子を、私は見た事が無いわね)
「ちなみに僕は先日、"ささみ"と書かれたTシャツを着て商店街を歩いている女子高生を見た事がある。」
「え、いたんですか?」
「ちなみに"ささみ"は永久欠番だ。」
「"ささみ"が、ですか…」
「そう。話せば長くなるから割愛するけど、"ささみ"っていうのは"ひらがなTシャツ"の生き字引的な人が作ったヤツで、その人以外は作ってはいけないという決まりがあるんだよ。」
(そんなTシャツに権威もあるんだ…、世の中は分からない所ばっかりだわ。)
「変な意味じゃ無いんだけど、あの"ささみ"のTシャツを着ていた女子高生が誰か、僕は気になるんだけどね。」
「どういう子なんでしょうね?"着ている"という事は"女の子ウケする平仮名Tシャツ"が作れると思いますから、話とか聞いてみたらいい気がします。」
"女性視点"というのが欲しいのであれば、実際に着ている人に話を聞いてみるのもアリだと思った怜子は素直に口にする。熊谷と怜子のやり取りを、缶のコーラを飲みながら眺めていた辰実は何か思い当たる節があったようで、ミーティングテーブルにやって来て話に入った。
「その"ささみ"のTシャツは、俺の妹だ」
「え、黒沢さんの妹!?」
余談であるが、辰実には妹が2人いる。
「先に言っとくが、上の妹は9歳違いで下の妹は16歳違い。言っておくが兄妹3人とも同じ両親から生まれているからな。」
「凄く歳が離れてますね。私と妹、弟でも5歳差、6歳差なのに。」
「今まで俺は、俺以上に歳の離れた兄妹を見た事が無い」
"でしょうね"という熊谷と怜子のツッコミをアテにして一杯やるように、辰実はコーラをあおる。コーラを飲みながら怜子が平仮名の書かれた紙を1枚ずつ眺めていると、携帯がバイブする。
「失礼」
画面を見ると、"真崎さん"と書かれていた。"Studio Bianca"の真崎である。
「真崎です。黒沢さん、今大丈夫ですか?」
「ええ、どうしましたか?」
真崎の様子に、いつもの軽い感じが無い。
辰実は、自分のデスクに戻って電話を続けている。それが"真崎から"の連絡である事は知らないが、いつものぶっきらぼうな表情が、真剣味を帯びているから少し気になってしまう。
思わず立てた"聞き耳"をよそに、熊谷の熱弁が終わり怜子は"平仮名"の仕分けを始める。これが"素晴らしい作品"に繋がってくるのであれば、どこか面白さを感じさせた。
"しいたけ"は男性的なのか?女性的なのか?
"たけのこ"は、やや女性的で可愛さがある。
"せんべい"は間違いなく男らしいだろう。
辰実と真崎との会話に耳を傾けながら、平仮名の整理をしていく。直感やだいたいの勝手なイメージを頼りに整理しているが、"あるゾーン"を除いて平仮名が埋まっていく。
"たぬき"は女性的なのだろうか?男性的なのだろうか?可愛い単語であるが、左右の位置づけに困りながら、傍らで思考を巡らせる。
怜子を探る者、辰実が予想した者。それが誰かは分からないが、"誰なのか"という疑問はある。それは確実に、自分の事を知っている者だろう。まだまだ先の事を想像するには情報が無さ過ぎて、これ以上の想像ができない。
歯痒い気持ちを宥めながらも、怜子は全ての平仮名を上下左右の基準に収める事ができた。
「できました!」
「ありがとう怜子ちゃん。…さて、どうなった?」
出来上がりを楽しみに待っていた熊谷が、ひょこっと身を乗り出す。続いて栗栖やマイケルもやって来た。
「何となく、見えてきたんじゃないか?」
更に言えば、辰実も缶のコーラを片手にひょっこり現れていた。さっきまで張り詰めた様子で真崎と電話をしていたのに、急に緩い雰囲気を醸し出しているのだから怜子も驚いてしまう。
「どうだトビ、今年の"品評会"はいけそうか?」
「いけるっすねコレは。やっぱ"女子向け"がテーマだから女子がいると強い!」
「…よし、いくらかアイデアができたら俺にも見せてくれ。」
"はい"とか"へい"とか、思い思いの返事を男3人組はする。気合が入った野郎共を見届けたところで、辰実はどこかに出る準備を始めていた。
「ちょいと、"Studio Bianca"に行ってくる。」
"行ってらっしゃいませ"とお辞儀した伊達に見送られ、辰実は消えるように事務所を後にする。…が、すぐさま財布を忘れて戻ってきたのは誰にもツッコミを入れる事ができなかった。
ここで話を、ひらがなTシャツのアイデア作りに戻したい。
怜子が整理した"平仮名"には、1ヶ所だけ穴がある。それは、熊谷が用意した平仮名には"可愛い"、"女性的"を併せ持つ平仮名が1つたりとも存在していなかった事なのだ。
「どうやら、俺達は女子の心が分からないみたいだ」
「まだ絶望するには早いヨ栗栖」
1つも該当していないという事実は、中々にショックだった。裏返せば"新しい平仮名Tシャツの開拓先が存在している"というプラス要素なのだが、"鎖国的なデザインが跋扈していた"という現実が大きい。
「しかし、栗栖の考えた"たぬき"は掠ってないか?僕の考えた"なんばん"もそうだけど。」
「おお、そう言われると元気が出てきたぞ」
ここからが、アイデア出しの段階になる。
「とりあえず、"女性的"で"可愛い"単語はこれじゃないかって感じで出していってみよう。書いて書いて書きまくる…、では始め!」
大きめのメモ用紙を持ってきた熊谷。ミーティングテーブルに4人が集まって思い思いの単語をマジックで書き始める。"ブレーンストーミング"とはこういった形のアイデア出しで、簡単に言えば"とにかく出し続ける"という単純明快な事に名前がついたものなのだ。
*
"Studio Bianca"
真崎に呼ばれ、スタジオに着くや否や事務室に案内される。こぢんまりとしたテーブルと椅子だけの無機質な部屋には、真崎ともう1人、色眼鏡をしたいかつい男が座っていた。
「お待たせしました」
「いえいえ。こちらこそいきなり来てもらってスイマセン。」
"こちらは商店街でスイーツ店をしているボビーさんです"と、真崎は厳つい男の事を辰実に紹介する。"この男は知り合いですよ"と辰実は答えた。
「あらら、ご存知でしたか」
「彼とは中々に長い付き合いですよ」
"よう"と手を挙げ、ボビーは辰実に挨拶をする。辰実もぶっきらぼうな表情で手を挙げ挨拶をした。
「それで、ボビーはどうしてこちらへ」
「うちの嫁が"小遣いが貯まったから着物を着て撮影したい"と言い出してな。それで来てみたら、黒沢お前んトコの新人が映っていたもんでな。」
「そんな事では無くて、奥さんの着物姿を拝みに来たのだろう?」
「お、俺はそんなの興味ねえよ。新作のアイデアが沸かねえから、とりあえず真崎さんと話をしにな。」
(逸らしたな、"むっつり"め)
「相変わらず素直じゃないな君は。…それで真崎さんと話をしてみれば、"うちの姫様"の事を探りに来た奴が"Studio Bianca"にも"Bobby's Sweets"にも来たからこういう状況になったと。」
「お前も、相変わらず察しが良いのは助かるぜ。」
「確か真崎さんが言ってたのは、"わわわ"の古浦という男でしたね。俺とは面識の無い男ですが、もし"何か関わっている"とすれば篠部の事でしょう。」
"篠部"という苗字に反応し、ボビーは身を前に屈めた。"わわわ"という単語もあれば彼も気づく事を分かっていたので特に何を反応するでもなく彼の発言を待つ。
「篠部ってあの、"グラビア"の篠部怜子か?」
「その通り。年明けに契約解除され、天田さんの店でバイトしていた所を採用した。…何かあるかもしれないとは思ったが、ここに来てさらに色が濃くなってきた感じだ。」
「だけどお前、楽しそうだな?」
真崎にはいつもの"ぶっきらぼう"な表情をした辰実にしか見えなかったが、付き合いの長いボビーには分かるのだろう。いかに2人の間で友情が育まれているかよく分かる。
「"流れ者"になった俺を、商店街は受け入れてくれた。…同じように彼女も助けてやれないかと思ってるだけだ。それに俺は"責任者"だからな、社員が働くのに邪魔な事情があれば排除するのが責務だろう?」
「ちゃんと話ぐらいまとめろよと言いてえが"最高"だぜ、お人好しめ。」
"褒めるんなら着物姿の奥さんにした方がいい"とボビーに悪態をついた辰実は話を戻す。
「ところで、ボビーの店に"探り"を入れに来た男はどんな奴だった?」
「線の細くてスカした野郎だ。あの子の事を聞かれたが"知らん"とだけ言っといた。」
「…それは、こういう奴か?」
辰実はスマートフォンで"とある"写真を見せる。事務所の防犯カメラに映っていた"怜子を盗撮していた男"の写真、それを見せるとはまり込んだようにボビーが"コイツだ"と答えた。
「黒沢さん、うちに来たのもこの人です。」
「ここに来て全員"同じ"男、更に篠部怜子の後を追うように…。」
("古浦"という男の顔が分かった。ひとまずこの男の動きがあれば気を付けなければ。…あわよくば尻尾を掴めれば"契約解除"の裏側を知る事もできるのだが、簡単にはいかないだろう。)
追っているのか追われているのか、未だ分からない状況であるが"確かに"進んではいる。即席のボートが陸から海に引きずり出され始めるみたいに、何かが動き出してはいた。
*
「お疲れ様でしたー」
「気を付けて帰るんだぞー」
"アヌビスアーツ"の就業時間については、基本的に8時30分から17時30分のうち、休憩1時間を引き算した8時間である。勿論の事、労働基準法なんてのには余裕で引っ掛からない。
この日については誰もが余裕あるのか、流れるように辰実と伊達を残して皆が帰ってしまう。
「黒沢さんも、もう帰られますかな?」
「いや、俺はちょっと確認作業を」
「ほうほうそれは。お体など壊されぬよう。」
とは言いつつ、自分のデスクでは無く、"防犯カメラ"の映像を確認するためのモニターに移動し、マウスを転がせ始めた辰実の様子を、後ろから見守り伊達は帰らずにいた。
「やっぱり」
数分、カチカチとクリック音をさせながらモニターと睨めっこをしていた辰実が急に声を出す。何に気づいたか気になって伊達も、モニターを覗き込む。怜子が帰っていく所と、その後に男2人が彼女と同じ方向に向かっている様子だった。"たまたまではないのか?"という疑問が浮かべば、特に怪しい2人でも無い。
…辰実は、この2人に何かあると察知したのだろう。
1人は金髪の伸びた髪の、前髪辺りをヘアゴムでまとめた細身の男。もう1人はやや肥満体の、髪がボサボサの男であった。肥満体の男の、何かをしでかしてやろうとしている笑みが印象に残る。
「今のが、さっきの映像です」
と言い、辰実はモニターを置いている机の、天板の"裏から"テープが貼り付けられたメモを取り出した。
"これが昨日の6時半の映像です"と、メモに書かれた時間の映像を再生すると、また怜子の帰る場面が映っている。先程観た映像と同様に、その後ろを不良風の男と肥満体の男が歩いて行った。
「そして昨日」
怜子が帰った6時過ぎの映像に、また同じ男2人が映っていた。そのまた前も、更に前も。
「尾行しておりますな。」
「更に言えば、篠部の面接をした後に、ガラス割って脅迫状入れ込んできた2人です。…幸い、防犯カメラには気づいてないみたいですが。」
防犯カメラのモニターから離れ、辰実は自分のデスクで帰り支度を始める。
「…とりあえず、彼女に何かあるのは確かです。最も、"わわわ"から追い出したのに執拗に追いかけるのかは分かりませんが。」
*
喫茶店"AMANDA"。
「どう、仕事は?」
家に帰るついでに、ピーク前の合間を縫って怜子は天田に会いに行っていた。"就職祝いだ"と言って天田が持ってきてくれたザッハトルテに、夕方の静けさが染み込んでいる。
目の前で漂うモカの薪に火を点けたような香りが、疲れた心を和ませた。
「勉強する事が一杯で、これからも一杯ありそうで何が何だか…」
「入りたてなんて、そんなモノだろうね。でも、あの黒沢さんは知恵が回る人だから、心配しないでついて行ったらいい。」
面接でも垣間見たのだが、天田もああ言っているのであれば人柄は良いのだろう。一見してぶっきらぼうに見える男も、覗けば七色に光る。…しかし、"本当に大丈夫だろうか?"と思うのは初日から"スケベなニワトリ"を描かされた事に起因する。
それもまた考えなのだろう。"大人の考える事は分からない"、とモカと共に流し込む。目もくれなかったが、誰かお客さんが来たようで"ゆっくりして行ってね"と天田は言ってキッチンに消えていった。
ザッハトルテの力強いチョコレート味を、モカで馴染ませる。苦いものに甘いもの、という簡単な組み合わせながら束の間の贅沢であった。ここにBGMも無い空間があれば100点のまま静かに間食をしていたのに、ざわざわと男女の声が目立ち出したのはさっき来た客の所為だろう。ゆっくりしていこうとは思ったが、早めに出る事にした。
とは言え、折角のザッハトルテを早口で片付けてしまうのは礼儀が悪い。
気にしないフリをして、何事も無かったように角を削った三角をフォークで切り崩す。それでも遠ざけられなかったのは、"向こうから"声を掛けられたからであった。
「あ、怜子さ~ん!」
(p7)
腰から下の軽い、活発な声に顔を向ける。波をかけた金のロングヘアに派手な服装をした、ばっちりギャルメイクな女の子だった。…これがただのギャルならどうという事は無く、"普遍的"よりも抜きんでた容姿の女の子で、ハッキリとした両の瞳が刺すように怜子を見つめる。
白磁の肌に紅いリップ、綺麗に整えられた鼻筋に、スレンダーで姿勢が良い彼女を"モデルさんですか?"と言いたくなる輩は多い。実際、このギャル風の女の子はモデルなのだ。
「久しぶり!元気してた?」
「亜美菜ちゃん…」
月島亜美菜(つきしまあみな)。怜子と同じ大学にいた女の子で、読者モデルであったが怜子の正社員採用と共に"わわわ"専属モデルになる予定であった。
元気そうな様子を見れば、人気の読者モデルのまま専属に上がったと分かる。
「今何してるの?もしかしてフリーター?」
「普通に会社員として働いてるよ」
「知ってるー。」
聞いておいて"知ってる"と言ってくるのは面倒臭い。知っていても"どうという事は無い"では済まないのだが、どうしてもこの月島亜美菜という女の子は、"読者モデル"の頃から人気があってスタッフそして現場の上から猫可愛がりされていたためか"何を言っても許されると思ってる"と一部から言われているような人物であった。
…勿論、そういう味を占めてしまった人間が"これで終わる"事は無い。月島は体を前に屈めて怜子の左耳に口元を近づけた。
"本っ当、気に入らない"
怜子だけに聞こえる音で、鼓膜ごと感情を冷たい刃で串刺しにする。
「小さいデザイン事務所なんだってね。…いつか私のステージ衣装も作ってもらえるよう口利きしてくれるのかしら?その時は容赦なくダメ出ししまくって立場を分からせてあげる。」
この女の本性である。スタッフを後ろ盾に、人気のモデルやグラビアには敵意をむき出しにし、現場スタッフの下の者には威圧的に接する。…これがもう1つ、偉い人にはよく媚びるのだ。
悪い所程よくできているのは、世の中の嫌な法則の1つである。
「…野良犬みたいなデザイン事務所は別にいいわ。それよりももっと気に入らない事があるし。袴の撮影なんて地味な事、やりたくなかったから断ったんだけど何で"怜子ちゃん"がやってるの?」
世が世なら場所が場所なら、名女優だ。月島は自分の言葉に合わせて顔を悪いように千変万化させながらあるゆる方向の言葉で怜子をなじり続ける。
「アンタ、グラビアの後輩イジメて辞めさせたのに、何でのうのうとカメラに映る仕事なんてやったの?…馬鹿じゃない?"契約解除"ってさぁ、"罰"なんだよアンタへの。…どうして自分のしでかした事に責任取れないの?慕ってくれた後輩に最低な事しといて自分だけのうのうと好きな事しようとしてるなんて、本当に許されると思ってる!?」
「違う…」
"はぁ!?"と怜子の言葉を制した後、月島の次の言葉に咄嗟に身構えようとしてしまった怜子であった。…しかし、その"次の言葉"は、月島の肩を叩いた誰かによって制される。
「ちょっと何?」
「ねえ、もっと落ち着いた空間で久しぶりのコーヒーブレイクがしたいんだけど」
背の高い女性であった。黒髪ボブが良く似合う、"お姉さん"という感じの美人。日本刀の切れ味と形式美を併せ持つ両の瞳が、高い身長や細身の体躯、黒いパンツスーツとマッチしていた。…これがモデルなら、どんなマニッシュもコンサバも着こなせるのだろう。
「そんなの知りませ~ん」
大人を舐めてかかった月島であったが、スーツの女性の目の奥のハイライトが魅せる鈍色の輝きにたじろぎ、何も言わず席に戻って行った。
「ありがとう…ございました」
「いいわよ別に。…何があったか知らないけれど、貴女も気持ちを強く持ちなさいな。」
怜子が頭を下げると、スーツ姿の女性も席に戻って行った。突然現れた格好良い女性が、ホットコーヒーに何回も息を吹きかけてから飲んでいたのは内緒にしておきたい。
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