1話「モラトリアムへの転落」ー後編
*
急な契約解除を言い渡されて、2ヶ月が経つ。
世間では2024年の3月になっている。大学の卒論については最後の発表が終わり、卒業研究の単位が認定され月末には卒業が控えているにも関わらず、就職先が見つかっていない。契約解除に伴い、"わわわ"の正社員としての内定も取り消しとなっているためにこれからの就職先を探さなければならないという事実だけが、現実問題として残っていた。
怜子は奨学金を受けて大学に行っていた。アパートの家賃を含む生活費なんてのはグラビアの仕事で得た収入で賄っている。その収入編が途絶えてしまった現在、昼は卒論、夜はアルバイトというごくごく普通、普遍的、ノーマルな"大学生の生活"を今更ながら満喫している。
"グラビアアイドル"という事実だけが、彼女を普通の大学生から遠ざけていた。
『申し訳ありませんが、弊社では貴女の採用を見送りさせて頂きます…』
そんな電話なんて、もう10何件も来たら慣れっこだった。地元から隣県まで、何とか新卒採用で募集を賭けている会社に連絡を取り、時には大学の進路指導の係員にも相談し、必死の就活をするも結果は惨敗。
悉く惨敗。
惨敗に次ぐ惨敗。
心折れても、半ば諦めになっても、せめて正規雇用で働こうとは考えながら、履歴書で落とされ、面接の数日後には電話でお見送り、メールでお祈りと、ここまで悔しい話も人生で初めてであった。
慣れてしまった苦しみを噛み締めながらも、大学からそう遠くないT島市若松町の商店街の喫茶店の一角で砂糖とミルクを入れたコーヒーの、若干の苦みで苦い記憶を流そうとしている。喫茶店"AMANDA(アマンダ)"の少し高い位置にある窓から眺める夕方頃の商店街の様子は、少しずつ寄り道や買い物の老若男女で溢れ出す。
"今、笑いながら男の人と歩いて行った女の人も、楽しそうだけど実は悩んでるかもしれない"
そんな事をふと考えると、少しだけ苦い記憶が和らいでコーヒーで流し込めるぐらいにはなった。こうやった今辛いのも"たまたま"で、必ずいい事がある筈だと楽天的にはなれた。
…しかし、本当に"そうありたかった"将来は露と消え、怜子の手元に戻ってくる気配は無い。大学の4年を使って"やっと分かった"グラビアアイドルとしての仕事の楽しさや、あのフラッシュを浴びる時の昂揚が忘れられないでいる。一眼レフのデジタルカメラが動く音にすら、同じ感情を抱いてしまうのだ。それを知ってしまうと、こんな無理矢理に引き離されてはそう簡単に逃れる事なんてできない。
「その様子は、またまた駄目だったかな?」
さっきコーヒーを淹れてくれた、店長の天田(あまだ)は落ち着いた怜子の様子を見て声を掛ける。
「面接でしっかり話せたと思ったんですけど、どうやら駄目だったみたいです。」
「あるんだよねー。面接官も会社のイメージがどこから落ちていくか分からないから"とりあえず気持ちよくして帰ってもらう"なんてのも上手い事やってきたりするから。」
"大人は汚いなー"と笑った天田だが、怜子にはそれが冗談じゃないぐらい理解できていた。
「一方的に話すんじゃなくて、ちゃんとコミュニケーションが取れてるか見られてるんでしょうね。次からはもっとそういう所も意識していかないと。」
グラビアの仕事で大人を相手に面接やインタビューを受けた経験はあるから、それなりに質問があっても物怖じせず答える事はできる。…しかし、その"できる"は"質問をされる"という一方通行のコミュニケーションの上に成り立っていたものだった。対向車線のあるやり取りというのを、次からは意識しなければと学ばされる。
モラトリアムの終わりに近づくにつれ、大人になっていく彼女は自分の"甘かった"部分を突きつけられていくも彼女はそれを歓迎している様子だった。
「やればできる。…さあ、気を取り直して次に挑戦だ!」
ガッツポーズをする天田に激励されると、自然と次は上手く行く気がしてきた。
(p6)
「…それで、次はどこの会社を受けるの?」
「決まって無いんです、それが」
これはまた大学の進路指導に頭を1つ下げて、どこか紹介してもらわなければと思っていた所ではある。これがまたひと手間で、そこから履歴書の準備もひと手間、面接もひと手間と、手間だらけの事を何故最初にしておかなかったのかと昨年の春辺りで何も考えていなかった自分を引っ叩きたくなる。
それを考えると、グラビアの仕事に対する未練やらが長い髪を引っ掴んで引き留めようとする感覚に陥って、色んな事に対する怒りがこみ上げてくるので仕方なく怜子はこれからの"上手く行く"可能性に心を躍らせた。
"明けの明星"というべき状況であるが、まだいい方に人生が進む可能性は消えちゃいないという事実の裏返しなのだ。
「決まってなければ、1つ行ってみないか?」
希望はあっても状況は状況、悪くなっていく状況の中で縋れる所が1つでも多く残っている事は嬉しかった。
「どこか募集してる所があるんですか?」
「商店街のデザイン事務所なんだけどね。知ってる、"アヌビスアーツ"っていう店なんだけど?」
"初めて聞きました"と怜子は答える。商店街の雑貨店や服飾店、飲食店ならある程度は知っているが、それ以外はサッパリだ。
(新曲を出す時に、ガールズの皆でデザイナーの人と衣装考えたりしたのは楽しかったなー…)
ふとした偶然でグラビアになる前は、ライターになりたかった。それが逸れまくって"デザイン"という分野になるのも面白そうな話だと思う。どうなるかは分からないが、いい方向に向かえば良い。
「面接させてくれるなら、させて貰いたいです。」
「お、そうかい。…広告以外にもデザインとかの仕事も幅広くやってるから、いざ入ってみたら楽しいと思うよー。」
そんな話をしていると、ぼちぼちアルバイトの準備をしなければならない。…と言ってもアルバイト先はここにいる"AMANDA"なので制服に着替えるぐらいなのだが。すぐさまロッカーに行き、リクルートスーツのジャケットを脱いでロッカーに入れていたハンガーに掛ける。白色のカッターシャツを脱ぐ前にタイトスカートのジッパーを下げて、綺麗に畳みハンガーに付いていたクリップで挟む。
最後にカッターシャツを脱いでハンガーに掛けた。ロッカーのドアの裏に付けられている長方形の鏡が、怜子の肩を映す。白いキャミソールに隠れきらない、ブラの線から見えた深海のような青が、愛結の"頑張ってね、怜子ちゃん"というエールに聞こえたような気がした。
制服のカッターシャツ、スラックス、エプロンを着て髪を結ぶと、さっきまでのくたびれた就活生は何処かに行ってしまう。
午後5時、ここからは"店員"篠部怜子。
コーヒーの淹れ方は分からないが、2か月目にして簡単な料理やデザートの盛り付けはできるようになった。接客に関しては、グラビアの経験から申し分なくできており、他の店員とも打ち解けられてはいた。
とりあえずは、上手くやれている。
「ご注文は、以上でよろしいですか?」
「いらっしゃいませー」
「あ、はい!今向かいます!」
「お待たせしましたー」
「お会計が1200円になります」
「ありがとうございました!」
どこの店だって使っているような接客のテンプレでも、どんな人が言うかによって違う。日頃の鬱憤を笑顔に浄化していく怜子の様子は、"正しい接客"と言っても間違いは無いのだろう。
平日のためか、待ち時間が出るほど店は混まない。
閉店が8時、ラストオーダーが7時半。だいたい6時半ぐらいにはもう客足も落ち着いてきているので、その時間であれば消化試合ぐらいの気持ちで怜子は余裕を持って仕事ができていた。
「いらっしゃいませー」
入口のドアを開けた時の、バーチャイムが戯れる乾いた小気味良い音が響く。誰が入って来たのかは、キッチンで食器を洗っていた怜子には分からなかった。
ホールスタッフが持ってきた注文の伝票には、"トマトパスタ"に1と書かれていた。
フライパンにオリーブオイルをひいて熱したら、茹で上がったパスタを投げ込む。そこに予め新鮮なトマトをドロドロにしていたものを注ぎ、少し湿気が飛ぶまで混ぜながら焼く。具材は無いから、トマトの酸味と塩味だけのシンプルな味わいで"逆に洗練された感じ"があって人気の一品だという。お好みでチーズもトッピングできるのだが、あればなお美味しい。
黒い皿に盛り付け、三つ葉を頂点に乗せれば完成。できたての良い匂いが羨ましい間に、注文をしていた席へと運んでいく。
「お待たせしました!"トマトパスタ"です。」
"お、美味しそう"というカップルの彼女の喜ぶ声を横目に"ごゆっくりどうぞ"と一礼し店内の巡回を始める。店内を回ってみれば、冷水を欲しがっている者や店員に助けを求める者と、様々な人がいる。小さな要望にすぐ気付ける態勢を作っておくのも接客の基本である。
この巡回のルーティーンも、怜子は楽しかった。
食事を前に歓談する人達、1人でも食事を楽しむ人。誰かの楽しそうな様子を見ているとどこか嬉しい。
そんな折に、さっき来た客が見かけた顔の男だと気づく。席に設置された呼び鈴を鳴らしたスーツ姿の男の所に他のホールスタッフが駆け足で寄って行き、注文の伝票をエプロンから取り出し、"お待たせしました"と一言。
「オムライスを1つで。」
「かしこまりました。」
古浦であった。先日にあんな事があったから、あまり積極的に話をしたい相手ではない。
すぐさまオムライスの注文を受けたホールスタッフが、キッチンに伝票を渡す。キッチンに入っている天田がすぐさまフライパンに油をひいて熱し、角切りにしたチキンと玉ねぎを炒め始める。強火ですぐに火を通せば、後はケチャップとライスを放り込んで"オムライス"のライスの部分は出来上がる。
チキンライスを別容器に移動させた後、玉子の部分に取り掛かる。溶き卵を満遍なく注ぎ、火の通りにくい中心部を菜箸で軽くかき混ぜ、それらが半熟になるのを天田はじっと見ていた。直ぐに固まり始めた卵にチキンライスを乗せ、包み込んで皿に置けば上から特製の甘辛いデミグラスソースをかけ、飾りでパセリを乗せれば完成である。
他のホールスタッフが運んで行ったオムライスを、古浦はどんな顔をして食べているかなんて、片付けをしていた怜子には分からなかった。
「あ、そうだ怜子ちゃん。"アヌビスアーツ"の面接、やってくれるってさ。」
「え、本当ですか?」
正直な所、古浦の事なんて考えたくは無かった。一方的に人の話も効かず契約を打ち切った"隣に"いた彼の事を思い出した所で気持ちが良いものでは無い。…それよりも、目先の事を考えている方が人生も効率的だし怜子も気が晴れたままでいられる。
「うん。ちょっと話をしてみたら、"来たいようなら面接するよ"ってさ。…それでイキナリだけど、明日の10時とか大丈夫かな?」
「大丈夫です!」
別に予定が無いので時間はいくらでも合わせられる旨の話は、天田にしていた。それでも明日に面接を受けさせてもらえるとは有り難い話である。
「月並みだけど、頑張って!」
"頑張ります"と、怜子は笑顔で答えた。
*
閉店し、店の片づけが住んだ所で、アルバイトは勤務終了である。
「お疲れ様でしたー」
「はいお疲れー」
「やっべ大学の課題やんないと…」
挨拶と懐かしい焦りが飛び交う、夜の商店街にはまだまだ行き交う人がいる。喫茶店は閉まっていても、まだまだラーメン屋や居酒屋と空いている店だってあるが、明日の面接の事を考えると寄り道をする気にはなれなかった。
夕方までのリクルートスーツに戻っていた怜子は、明日また綺麗なスーツ姿で面接にいくために"一刻も早くアイロンをしないと"とか思いながら帰り道を速足で下宿まで辿って行った。いつもは20分ぐらい歩けば着くのが、速足のお陰か5分程短縮されたのは若干嬉しい。
帰宅。
電気を点ければ、なけなしの小遣いで買ったエレキギターとアコースティックギターが迎えてくれる8畳間のアパート。住み慣れた部屋の、整理された引き出しから部屋着のキャミソールやパーカー、ショートパンツを取り出し、部屋の中に干してあった下着を手に取ると風呂場の前へと即刻向かう。
湯舟を用意するのが面倒なので、その日はシャワーで済ませた。
風呂から出て、体を拭いたタオルを洗濯機に投げ込んで、細かいモノを洗濯機ネットに入れて洗濯機のスイッチを押す。液体洗剤と柔軟剤を仕込み、もう1度スイッチを入れれば後は勝手に何もかもやってくれる。
夜の9時半ぐらいだが、洗濯物を干してしまえば今日はもう寝るだろう。
待っている間に、リクルートスーツのアイロンをかける。
最初にスカートをアイロンがけした所で、怜子のスマートフォンが震える音。手に取ると画面には古浦の名前が書かれているのが視えた。
(やっぱり私がアルバイトしてたの、気づいてたかな…)
話をする機会は無かったが、まあそんな所だろう。わざわざそういう事を言ってきそうな人ではある。
『古浦です、久しぶり。』
「ええ、お久しぶりです」
『"AMANDA"でバイトしてるの見かけたから、ちょっと連絡だけしとこうと思って。』
「そんな事をわざわざ」
以前は仲良く話せていたハズだが、怜子の方が壁を作っていた。
『あとは、あれから心配してたから』
「その辺は、何とかやれてます」
『就職も、大変だろう?でも何とかなると思うから頑張って』
「…はい、ありがとうございます」
自分が就職活動をしているのも、古浦からすればお見通しだろう。グラビアの契約解除があったから生活に困る、そうしたら自ずと今更の就職活動をする事ぐらいは目に見える。
『それはそうと、怜子ちゃんが"後輩に暴言を吐いていた"って言うのを"わわわ"に伝えたのが誰かって言うのを言っておかなければと思って。』
「それを知ったとして、もうグラビアに戻る事は無いと思いますし。別に構わないです。」
"それでも、ちゃんと伝えとかないと"と、変な義理立てを押し付けられる。そもそも自分には身に覚えのない事なのにも関わらず、一方的に"パワハラをした"と判断する点をまずはしっかり考えて欲しいものだと心の中で毒づいた。
『君の事を告発したのは、君と同じ"被害者"の1人だよ。…詳しくは言えないけど、少しでも罪滅ぼしになればと思ってヒントだけ出しておくよ。』
「そうですか」
そんな事よりも、"君は何もやっていないのだろう?"とでも言ってくれた方が何倍も嬉しかった。怜子が後輩に暴言を吐いて辞めさせた事が嘘だと言うのを、古浦は確実に知っているだろうというのに。
"ありがとうございます"を言う前に、古浦は"何かあったらいつでも電話してくれれば話は聞けるから"と年明けの頃と変わらず一方的に言って電話を切った。本当に勝手だと、また心の中で毒づくとベッドの上にスマートフォンを放り投げてスーツのジャケットをアイロンがけし始める。
"被害者の1人"と言われれば、それが誰かなんてすぐに分かる。…しかし、知った所でどうしようもないから"この事"は特に何か掘り下げて生きていこうなんて考えは"今のところ"無かった。
それよりも大事な"これから"を決める明日の面接の事で少しだけ緊張していた怜子は、その夜アイロンがけを終えてすぐに浅い眠りについた…。
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