取引
鏡を持った男は辟邪だ。血の臭いは見た目では消せない。小さな子ども――少年は分からないが、辟邪の仲間だろう、とジンリーは思った。この世のものではないような、複雑な色の瞳をしている。
司天社の方は、血まみれのジンリーと天呉を見て、怯えたように後ずさった。護衛もそのありさまだ。可笑しくて笑った。
「……玄武門のジンリーか。横取りに?」
首肯すると、スーツの男は顔を歪めた。それから、ぼうっと突っ立っている塔子を見て、眉をひそめる。
「誰だ」
「――青泰グループの?」
そう言ったのは、司天社の若い男だった。その言葉でようやく、塔子は我に返ったように目を瞬く。
「どうしてあなたが、ここに」
若い男は驚いたように言い、それから不安げに周囲の護衛を見る。塔子は口を開いたが、何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。言葉はまだ分かっているのだろうか。
「横取りは犯罪行為だ。我々の取引を邪魔するな」
スーツの男がそう言う。ジンリーは笑う。
「そんなこと言って、聞くと思う?」
「……思わんな。だが、死にそうじゃないか」
もう戦えないんじゃないか、と男は嘲笑う。そして、鏡の紐を解いた。
まさかこんなところで青龍を放すのかと思ったが、鏡から出てきたのは、四つの翼を持った蛇、
鳴蛇が鳴いた。脳に直接響くような、厭な声だ。男は顔をしかめた。
「相変わらずこいつはうるさい。まあでも、弱くはないだろ?」
「青龍、というのは、嘘?」
「鳴蛇でがっかりしたか?」
スーツの男は胡散臭い笑みを浮かべた。ジンリーは答えず、残った左腕で天呉の背に手を置く。足元には二体の水落鬼。
――取引の契約をした妖怪を使うわけがない。
鳴蛇はカモフラージュのつもりか、あるいは護衛代わりか。どちらにしろ、まだ合わせ鏡はあるはずだった。
しかし、鏡を探すのは後だ。取引場所を変えましょう、と男は司天社に言っている。逃がすか、と思ったが、泥のように身体が重かった。自分の身体ではないみたいだ。一歩も動けず、浅く呼吸を繰り返す。
状況を飲み込めないのか、塔子は鳴蛇を見て、それからジンリーを見る。
「――青龍?」
塔子がそう呟いたのが聞こえた。違う、と言えなかった。喉が引き攣れて、声が出なかった。
塔子が駆けだした。でも、バランスを失った身体のせいでふらふらしている。スーツの男が怪訝そうに塔子を見て、それから無造作に鳴蛇に向かって、「行け」と言う。
鳴蛇が塔子に向かって飛ぶ。塔子は立ち止まり、片腕で鳴蛇の翼を捕らえた。
へし折れる音がした。鳴蛇が甲高い悲鳴を上げる。翼を一つ失った蛇は、塔子に長い身体を巻き付けた。
締め殺そうとしているのだろう。塔子は拳で蛇の側頭部を殴る。でも、血を失い過ぎていた。塔子はいっそう白い顔で、不意に、がくりと頭を垂れた。
塔子の綺麗な顔が、醜く膨れ上がった。足が歪む。いびつな獣のように、関節が逆を向く。
ジンリーはどうにか天呉を動かした。噛み千切られそうになった鳴蛇は、塔子から離れていく。天呉はそのまま塔子を食べようとした。制止する。不満そうに見つめられたが、無視した。
――可哀想だから。
そう思った自分が不思議だった。
「――あんたも可哀想だとか、思うんだ」
その声に、ジンリーは顔をしかめる。反対側の通りから、ハオランが来ていた。
いびつな形で死んでいる塔子を見て、僅かに眉をひそめる。明るい茶色の目がジンリーを見る。
「私じゃない」
「知ってるよ。
なんだ小僧、とスーツの男は苛々したように言う。邪魔ばかり入って鬱陶しい、と思っていることがよく分かった。隣の少年は反対に、興味深そうにハオランを見ていた。
「変なのが憑いてるね」
少年が言う。ハオランは苦笑した。
ハオランは、生まれた時から憑かれている。だから鬼子と呼ばれた。日本でいう狐や犬神などの憑き物筋とは違う、もっと別の、天与のものだった。
だから厄介だった。使役する制約を受けない。ジンリーは自分の足元に溜まった血を見た。耐えられるだろうか。
「天呉」
天呉は唸る。ハオランを警戒している。
勝てるだろうか。
ハオランが左腕で曲刀を構えた。
ジンリーは一瞬、目を閉じる。死の予感が、いつもより濃く感じられた。
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