第2話 アンとあかり

 ぼくと目が合うと少女は慌てて顔をそらした。

 ぼくも反射的に顔をそらしてしまって、お互い気まずい雰囲気になってしまう。


 どうしてぼくはここで眠っていたんだ?

 何があったんだ?

 気を失ったことなんて初めてで、ここに運ばれて来た記憶がないのは変な感じがした。

 

 今ある一番新しい記憶は体育の授業でドッチボールをしていたところまでだ。

 それでボールを受け止めようとして……顔面に当たって……しまったんだ。

 

 そうだ、そうだった。

 それで……体に力が入らなくなって……。

 そこからの記憶がない……。


「あ、起きた」


 保健の先生がぼくが目覚めたことに気が付いた。

 四十代くらいの小太りの女性の先生で、遊びで怪我をしたときとか、よく消毒をしてくれる。


「ぼくは……」


「ボールが顔に当たって、脳震盪のうしんとうを起こしたのよ」


 先生はぼくの顔を両手で包み込んで、目の中を覗き込んだ。


「うん、頭は打っていないから大丈夫だとは思うけど、念のため今日一日はここで休んでいなさい」


「ぼく、もう大丈夫だよ」


「休んでいなさい」


 先生は念を押すようにして同じ言葉を言った。

 子供のぼくが大人の先生に歯向かえるわけもなく、ぼくは力ない声で「はい……」と答えた。 

 本当に大丈夫なのに……。


「今給食を持ってきてあげるから、待ってて」


 そう言うと保健の先生は保健室を出て行ってしまった。

 もう給食の時間か。

 僕は保健室の壁にかけられたアナログ時計を見て時間を確かめた。


 短い針が一で、長い針が一を差している。

 え~っと、つまり一時五分か。

 体育の授業があったのは午前中だから、ぼくは二時間くらい眠ったままだったんだ。


 下校時間までまだ二時間くらいある。

 休んでいろと言われても、何もすることがなくて、二時間もじっとしているなんて暇だな。


 休め、なのだから何もするなと言うことを言っている訳で、だから何もしてはいけない。

 気を失っていたから、もう眠くないし。


 となりのベッドにいる少女のことが、再び気にかかった。

 となりをゆっくりと見ると、少女はビクッと肩をすくめて顔を背ける。

 確か……いつも空席の席の子ではなかっただろうか。

 

 話をしたことはなかったけど、教室で何度か顔を見ていたから、間違いない。

 名前は確か……きらあかり……あかりちゃんだ。

 いつも遊ぶのは男子ばかりで、女子に話しかけることなんて滅多になかったのだけど、ぼくは後先考えずにあかりちゃんに話しかけていた。


「あかりちゃん……だよね?」


 すると飛び上がらん勢いで、今まで以上に肩をビクつかせた。

 か細くて弱々しい声でぼそりとつぶやいた。


「ご、ごめんなさい……」


「何で謝るの……?」


「……ごめんなさい」


「謝ることないよ」


 不思議な子だな。

 

「ぼく、その……二年になってから同じクラスになった、れんだよ。知っているかな?」


 あかりちゃんは小刻みに震えながら、ゆっくりとうなずいてくれた。

 知ってくれているようで一安心。


「わ、わたし……あかり……」


 言葉を返してくれたのが嬉しくて、一気に距離感が縮まった気がする。

 ぼくはここからどうやって話題を広げようか、小さな頭を絞った。

 すると彼女は本を胸に抱えていること気が付いた。

 

 同じ本を読んだことあれば話題にできたのだろうけれど、ぼくはあいにく国語の授業のときしか何も読まないから、当然あかりちゃんが持っている本なんて読んだことがあるわけない。


「本好きなの?」


 彼女はコクリとうなずいた。


「その本、何て本?」


「アン……」


 声がとても小さいのだけど、子供にしては活舌が良くて、あかりちゃんの声は聞き取りやすかった。


「アン?」


「……わたしとは正反対な性格の、赤毛の女の子のお話」


 赤毛のアン、名前なら以前どこかで聞いたことがある。

 ぼくが知っているくらいなのだから、とても有名な作品であることはまず間違いないだろう。

 

「どんなお話なの?」


 あかりちゃんはどう説明したものか、というふうに十秒以上も黙った。

 答えたくないのかな、と思ったとき彼女は口を開いた。


「ある孤児院から、とてもおしゃべりなアン・シャーリーっていう女の子が老兄妹の家に引き取られるの……だけど、老兄妹は男の子が本当は欲しくて、アンを孤児院に帰そうとするの……」


 そのときだった。

 保健の先生がトレイに給食を載せて戻って来た。

 

「お待たせ」


 せっかく話しているところだったのに……。

 あかりちゃんは先生が入ってくると同時に、まるで肉食動物を見て隠れる草食動物のような俊敏さで押し黙ってしまった。


 空気を読んでよ先生……。

 ぼくの気持ちなんてつゆ知らず、保健の先生はベッドの手すりのところにテーブルらしき長方形の台をセットして、その上に給食を置いた。


「ゆっくり食べなさい」


「ありがとう」


 コッペパンと野菜たっぷりの焼きそば、牛乳とデザートに半分に切られたオレンジが添えられていた。

 ぼくはコッペパンの真ん中に裂いて、その中に焼きそばを詰めた。

 焼きそばパンの完成だ。 

 

 焼きそばの香りと、ソース、野菜のシャキシャキ感が、コッペパンのしっとりとした生地によく合う。

 牛乳も意外に焼きそばパンに合った。

 半分まで食べたところで、ぼくは気が付いた。


「あかりちゃんも食べる?」


 彼女はブンブン首を振った。


「た、食べた……」


「そうなの。いつもここで食べてるの?」


 気まずそうに一回うなずいただけで押し黙る。

 給食はいつも全校生徒が食堂に集まって食べる。

 

 だけどあかりちゃんの姿はごくたまにしか見なかったから、どこで食べているのか不思議だったけれど、ここで食べていたのか。

 ぼくはここで一人で給食を食べるあかりちゃんの姿を想像した。


「寂しくない? みんなと一緒に食べた方が美味しいよ」


 だが、あかりちゃんは何も言わず、うつむいた。

 子供ながらに何か事情があるのだな、とぼくは思った。

 それ以上は訊いてはいけない気がして、ぼくは黙って給食を食べることにする――。

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