第36話


 真っ白な空間。この場所はどこ。身体が動かない。


 あぁ、そうだ。眼球だけが動く。だけど何もない。


 誰も居ない。まだ朝じゃないのか。あぁ、退屈だ。


 冷たい。なんでだろう。冷たい。冷たい。冷たい。


『冷っ、……ン? ゥぇえっ!?』

「あ、起きたー」


 あの白い部屋で寝そべっていた筈が、瞬きした直後、薄暗い灯りの場所へと視界が切り替わった。


 視界の半分に人の顔が見え、それがポルカであるということを理解し、飛び起き、離れたところで、夢から覚めたと気付く。


「汚れがついてたのが気になっちゃったからー。それに暇だったしー」


 濡れた手拭いを見せながらポルカが言う。その手拭いは泥と血が混ざりあったような浅黒い染みが出来ている。


『……それで拭いてくれてたんですか? ……だから、冷たかったのか』


 目線を手拭から下げると、ポルカの太ももが濡れている。俺の頭を抱え、覗き込むようにしていたのは、そのせいだ。だから、夢から覚めた瞬間の俺は飛び退いてしまったんだ。


「あれー? 熱は無かったはずなのにー……」

『いやッ、これは寝起きだからッ!』


 怪訝な顔を見せたポルカが、言わんとしたことを察した俺は、言葉が出ぬうちにすぐさま遮り、否定的に、理由付けする。


「ふーん、そっかー」

『そうそう、……あ、色々と、ありがとうございます』

「いいよー、気にしないでー」

『あ、それとポルカさんは怪我ないですか?』

「全然大丈夫ー、頭がジンジンするくらいー」

『……頭? それって俺のせいで?』

「ううん、団長がやり過ぎってー、こうっ、したの」


 険しい顔付に変わったポルカが、自らの頭に拳骨を落とす振りをした後、痛みを思い出したように頭を摩っていた。それを見た俺は、なんだか気が抜けたように、息を吐いてしまっていた。俺の最後の足掻きでさえも、届かなかったと言うことだ。


 だとしても、落ち込んでいても仕方のないこと。例え、雲泥の差であっても、万里を行く為の道筋が見えたと思うようにするしかない。


『……なるほど、……で、ここってー……どこですか?』


 汚れた手拭をしまい、代わりに何やら取り出したポルカに、先ほどから気になっていたことを改めて聞いて見る。


 俺がポルカと戦った場所は、大きな洞窟の空間だった。だけれども、目を覚ましたこの場所は、見覚えの無い場所だったからだ。洞窟であるという点では変わりないが、壁や土の色合い、質感までもが違っている。岩というよりも土や泥で作られたような小さな洞だった。


「おんっ、じゅっ、かいほーの、へーふてぃだお?」

『はい? 口に物入れすぎて、何言ってるか分からないです』


 俺がそう言うとポルカは手を前に出し、携帯食料を口に詰め込んだまま頷く。一生懸命に咀嚼して、顎を動かしているのか、首を動かしているのか、分からない位に頭が揺れているのを眺めていた。


「もむもむもむ、んっ、もうひょっと、まっへね、もむもむもむ……」

『あ……、ゆっくりでいいんで』

「……はぁ、四十階層のセーフティだよ」

『――はぁあッ!? よんっ、四十階層!?』


 あっけらかんと言い放ったポルカの言葉に、俺は耳を疑った。


 先ほどまで居たのが三十階層で、今いるのが四十階層。そう、頭の中で繰り返して見ても、理解が追い付かなかった。俺は気絶している内に十階層昇ったということだ。


『ア……アァ、……そ、そんな』


 その驚愕の現実を、小さな洞の穴の入り口から外を見れば、否が応でも理解させられた。そして俺の口から落胆の声が漏れ出た。


 洞の外には空が広がっていた。そして、辺りを見渡せば黄土色の斜面に、荒れ果てた山岳路のような道まである。草木が殆ど生育していない山の風景がそこには広がっていた。


『……嘘じゃん』


 その風景を目の当たりにして、現実逃避の言葉が衝いて出る。苦労しながらでも自らの足で昇り、まだ見る景色や新たなモンスター目にし、着実に攻略することを楽しみにしていたからだ。


 どう見ようとも目に映る景色は変わらない。俺は、これ以上見ていられないと、洞の中へと戻り、崩れるように座り込んだ。


「大丈夫、大丈夫っ」


 ポルカは俺の落胆する様子を見て、何を勘違いしたのか、任せてくれと言うように胸を叩く。


 察するに、この状況の不安や心配を取り払ってくれようとしているのだろう。この善意に何を言っても仕方がない。俺が弱かったからこうなってしまったのだ。見捨てずに連れて来てくれただけ有難いと思うようにしよう。後先考えず博打を打ったのが悪い。


「はいっ。これ食べて元気出してー」


 俺があれこれ反省していると、ポルカが黒光りした携帯食料を差し出して来た。


『あ、ありがとう。……なんだこれ、初めて見、……る』


 黒光りする携帯食料を受け取り、眺めていると、仄かな甘い香りが鼻腔を擽った。漂うその香りに言葉が詰まる。肌が粟立ち、身を震わせた。気が付けば背筋が伸びていた。


「コゲてるみたいだけど、おいしーよ。チョコって知ってる?」

『し、知らない。でもッ、頂きます』


 俺はポルカに嘘を付いたが、罪悪感など微塵も無かった。それよりも早く口に入れたくて堪らなかった。チョコレートが美味くない訳が無いからだ。そのことも十分に知っている。この新しい人生で諦めていた物の一つだ。


「大丈夫、変なものじゃないから、安心してー」

『じゃ、じゃあ、……頂きます』


 俺の手が震えていることを心配して、ポルカが声を掛けてくれているが、そうじゃないんだ。


 もう二度と味わえないと思っていた物に出会えた喜びに震えているんだ。


 ゆっくりと香る匂いを堪能しつつ、そして俺は、一思いに噛み付いた。


『――ッ!? ……ぅ、……ン゛、んまァああああいッ!』


 この人生で初めて口にするチョコレートの味は、想像していたよりも美味かった。


『なんッ、だこれッ!?』


 口に入れた瞬間、迸る電気信号に脳が打ち震え、身体中の細胞が喜び踊っている。


『はぁー……美味いッ』


 また一口齧り、十分に味わいながら咀嚼して、鼻腔を抜ける香りを堪能し、喉で感じる甘味の余韻を愛おしむ。


 少しずつ、飲み込むのが勿体ないと言う理性に、口いっぱいに、もっと寄越せと叫ぶ本能との駆け引きを前に、冷静な振りして、携帯食料の残りを照らし合わせる。


 そう考えていても、あっという間に消えてしまう。残ったのは指先に着いたチョコレートの名残だけだ。卑しい行いだろうと分かっていても、この誘惑に勝てる者がいるだろうか。同じ味、香りに加え、仄かな塩味が加わったチョコレートの味を最後に、束の間の、儚き願望の一時を終えた。


『……はぁーあ』

「もう一つ、いる?」

『――い゛る゛ッ!!』


 取り出されたチョコレートに這い寄るようにポルカの元へ寄る。


 そうして分け与えられたチョコレートを頬張り、他愛の無い会話を重ねつつ、俺達はボス討伐に向かったというポルカの仲間が返ってくるのを待つことにした。


 俺が気絶してからは、ポルカが俺を背負ってここまで連れて来てくれたらしい。それと傍らに置かれていた魔槍に加え、投げっぱなしのダガーまでも拾い集めて、持って来てくれていたようだ。


 何故、40階層にいるのかという問いに対しては、最近クランに加入した新人の腕試しをする為だと言う。そういったクランの都合もあり、上まで一緒に連れて来たそうだ。一応、引き返す案も出たらしいが、団長のウエストさんが連れて行くと言って聞かなかったらしい。


 上の階層に行けば行くほど、モンスターの脅威度が上がる。だけれども、40階層程度であれば、俺に怪我させることも、死なせることも無いという確固たる自信が、この一団にあるが故に、決断が覆されることはなかったそうだ。


 それに怪我人が出たという想定の訓練に、気絶したままの俺は知らぬうちに活用されていたようだ。そうしてウエストさんが新人を焚き付けていたらしいが、怪我人が出たとすれば普通は下を目指すのでは、という点に誰の指摘も無かったのだろうかと訳を聞かされた俺は疑問に感じながらも、敢えて口にはしなかった。


 それから俺達は改めて互いの自己紹介をし、敬称敬語不要のやり取りを経て、のんびりとした時間を過ごしていた。のほほんとしたポルカの雰囲気は、戦闘中の彼女とはまるで別人のようだ。そんな少女が、まだ18歳だと知った時には、余計な一言が口を衝いて出そうになった。


 見た目から若いとは思っていたが、その見た目以上にもっと歳を重ねているものだと考えていた。それは、この世界で良くあることの一つとして、見た目だけで年齢は測れないからであり、エルフ族、小人族、その他にも亜人と呼ばれる種族、そうでなくとも混血であれば、20歳代頃に見えたとしても、実年齢が40歳を優に超えているなんてことは往々にしてあるからだ。何はともあれ、精神年齢12歳+αの俺が、ポルカを見て少女だと思った、その直感が正しかった訳だ。


 何かと質問をすれば、ポルカは嫌な顔一つ見せずに、明け透けに答えてくれる。それはまるで押せば反応を返してくれる機械のように淡々と、言う必要もないこと、言いたくないであろうことも含めてだ。


 機械のような反応を見せる彼女だったが、雷魔法について聞けば、髪の毛がはねるという不満を零したり、身に着ける物や体臭が独特な匂いを発するという悩みを持っていたりと、人間臭さも持ち合わせていた。


 そんな悩めるポルカが、独特の匂いを嗅いでくれと求めてきた。


 遠慮すると拒んだのだが力の差は歴然。先の戦いで打ち負かされた俺が敵う訳も無く、鼻先に髪の毛を無理矢理に押しつけられた。それは新品の電化製品の匂いで、オゾン臭と呼ばれるものだった。これもチョコレートと同様、俺は無意識下に、この世界に無い匂いだと思っていたからか、懐かしい、と言う感想を零してしまった。


 懐かしいと言った俺の言葉に、ポルカがきょとんとした顔を見せ、そして笑う。そんなことを言う人は初めてだったらしい。そしてポルカが不意に、今は君からも同じ匂いがすると言った。


 何の気なしに言っただけなのだろうが、その言葉に慌てた俺は、要らぬ誤解を招かぬようにと考え、電気には除菌効果があるだとか、それによって発生する匂いだとか、電気は良いものだとか、なけなしの聞きかじっただけの知識をひけらかし、知る筈もないポルカに言うべきではない余計な事を口走ってしまっていた。


 そうして更に慌てた俺は、深堀されぬようにと話を逸らし、何気ない些細な会話を交わすように専念して話した。


 何の会話の糸口からだったか、ポルカの口からほろりほろりと、独り身であること、年の離れた弟が居たこと、ボスと戦っていた俺をその弟と重ねて見たということを話してくれた頃になってようやく、一団の騒がしい声が洞に帰って来た。


「戻ったぞー……、お、ボウズの目が覚めたみてぇだな」

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