第27話
次の日、俺は朝一番でカノンの様子を見に、治療院へと向かった。
病室へ入ると窓の外を見ていた彼女が、短い方の髪を揺らしながら振り向き、満面の笑みで出迎えてくれたのだが、俺はその白い肩に残った傷跡が気がかりで、素っ気ない挨拶を返す事しか出来なかった。
そんな俺の様子に気付いたカノンは肩を抑え、思い出が一つ増えたね、とあざとく微笑んだ。呆気に取られてしまった俺の顔は、なんとも微妙な表情をしていたのだろう。カノンは俺を指さして、笑っていた。
俺が弱かったからカノンを危険にさらしてしまったと言えば、貴方が居なければ探検者は助からなかったと返して来る。それに傷跡が残ってしまったことの謝罪をすれば、命の恩人だと感謝の言葉が返って来てしまう。俺は、いっそ責めて欲しいと心のどこかで思っていたが、彼女の口からは
胸焼けのような気持ちの悪さが残ったままカノンを見つめていると、責任を取らせちゃうぞ、と冗談めかして言って来たが、俺は真に受け取るべきか、笑い飛ばすべきか分からず、ただ俯いてしまう。その反応を見たカノンは、つまらなさそうに、辛気臭い、と言いながら呆れていたようだった。
しばらくの沈黙が続いていたが、衣擦れの音とシーツを払い除けた音が聞こえ、俺が顔を上げれば、ベットから抜け出したカノンは、俺の目の前で何か言いたげな顔で立っていた。短い溜息を付いたカノンはゆっくりと手を伸ばして俺の頭に手を乗せたかと思えば、俺の身体を引き寄せた。
どうせなら逆側の肩を寄せてくれればいいのに、とも思ったが、それはカノンの事だから敢えてそうしたのだろう。それを見ながら、抱きしめられたまま、カノンの言葉を聞いていた。耳元で囁かれる言葉は感謝ばかりだ。そして最後に、自分自身を赦しなさい、と言われてしまった。
しみじみと考えていると、俺の頬に口付けして悪戯に笑うカノン。それを見れば、なんだかもうどうでも良くなってしまったというか、気が動転してしまったというか、有耶無耶にされている内に、心の曇りをカノンに取り払われてしまっていた。
それから退院したカノンの後をついて、二人でギルドに昨日の報告をしに行くことになった。グレーターワームが現れたことや、探検者の救助活動、怪我を負ってしまって治療院に一日泊まっていたことをギルドの偉い立場の人にカノンが報告しているのを隣で聞いていたのだが、カノンは報告上手というか、俺が持て囃されるように上手く言い過ぎていた。
カノンの話を首を傾げて聞いていたが、結果的にカノンは療養も兼ねて一日休みを、せしめてしまった。初めからこれが狙いだったのだろうと分かった時に、ちらりとカノンの顔を覗けば、ちろりと舌を出して笑っていた。昨日、助けた探検者の報告もあったようで、ギルドに貢献してくれた、と最後には礼まで言われてしまうほどに、カノンは話し上手だった。
報告を終え、昨日採集した薬草や細々した魔石の換金をしてから、ギルドを後にした。そうして休みを手に入れたカノンに言われるがまま、露店でカノンの軽食を買って歩いていると、気が付けば知らない宿屋のような家に連れて行かれていた。
受付の無いアパートメントような造りの家屋、その一室の前で立ち止まったカノンに、ここは誰の部屋かと問えば、カノンは言うまでもないとポーチから鍵を取り出してチラつかせて見せた。
俺が、部屋には入るのはマズイと尻込みしていれば、カノンは無理に招き入れ、いや、押し入れようと俺の背を押した。何故と問えば、言わせないでよ、と意味深に微笑むカノンに、終ぞ、小奇麗に整えられた部屋の中まで招かれてしまった。
ベットにテーブル、ドレッサーにカーペット、小さな棚に小さな窓しかないこじんまりとした部屋。甘い花のような香り、小窓から差す疑似陽光、釣られたままの洗濯物、一人暮らしの女性の部屋へ通されたと理解した瞬間、俺は眩暈のような感覚に襲われた。
座って待っていて、と促されるはいいが、何処に座ればいいかも分からず立ち尽くしていると、カップを二つ持って来たカノンに笑われてしまった。揶揄われているのが癪に思い、カーペットに腰を降ろし、低いテーブルの上で手を乗せて、俺はリラックスしている風を装った。
だからと言っても見透かされてしまっているのだが、見栄を張るべきだと男の矜持が言うのだから仕方ない。勧められた水出しの香茶で気を落ち着かせながら、テーブルの上に並べられて行く朝食を眺めていた。カノンが食べるには多いと思っていたが、俺の分も買ってくれていたようだ。
並べ終えたカノンは食事に手を付けず、洗濯物を片付けると、摘まんで待っていて、と言い残して出入口とは別の扉の奥へと消えて行った。一人だけで食べるにも申し訳ないと思い待っていると、少ししてカノンが消えた扉の方から水の滴る音が聞こえ始めた。
それは、きっとシャワーを浴びる音だろうと理解したその瞬間、俺の鼓動が跳ね上がった。俺は鼓動を静めるために息を止めて見たが、何の効果も得られず、苦しいだけだった。それすらも、カノンにバレてしまっている、と分かっているのだが、抗わぬわけにはいかなかった。さりとてこの状況はマズイ。俺の心が、羞恥に耐えられそうにない。
目を瞑って見ても、良い効果を得られぬどころか悪影響を及ぼしてしまうし、鼻歌で誤魔化すにしても恥の上塗りだろう。穴があれば入りたい、尻が出てしまうとしても、穴でなくとも何処かに入ってしまいたいと思えた。だけども、行動に移せば扉の向こうのカノンに笑われてしまうのだろう。
だから俺は、ただ神に祈った。両手の指を組んで、この世に生を受けた事、生きる為の糧を与えてくださった事、感謝も懺悔も、夢も希望も、今日の予定も明日の予定も、好きな食べ物も嫌いな食べ物も、俺の全てを神に報告して過ごしていた。
扉の開く音、湿った足音、カノンが短く笑う音が聞こえて来る頃には、俺は悟りを開いていた。カノンが戻って来たのを気に留めぬ様子で、窓の外に見える遠くの岸壁が何に見えるか、頭の中で例えていると、衣擦れの音が後ろから聞こえて来たその瞬間、悟りを開いたつもりだった俺の煩悩が弾け飛んだ。
だが俺は、耳が熱くなるのを感じながらも、心頭滅却すれば火もまた涼し、を念仏代わりに唱え続けた。しかし、悪魔が耳元で、エッチ、とだけ囁いた。エッチってなんだ。意味が理解出来なかった。何も考えられなかった。
そして、そんなに意識されたら流石に恥ずかしい、と恥じらうカノンの言葉を最後に、俺は死んだ。
いや、死んだと思った瞬間から、意識が遠のいたような感覚があり、それからは余りよく覚えていない。粘土みたいな固形物を口に入れ、咀嚼して、色の付いた水で流し込むので精一杯だった。カノンが言うことを全て、頷いて返していたように思う。
それと、これがあって気付いた事が一つあった。それは前世の欠けた記憶の一つだが、恐らく俺は多分、童貞だった。前世では童貞のまま、清い身体のまま異世界転生されたことを何故だか今になって気付かされてしまった。
それから俺が正気を取り戻したのは、食事を終えてしばらくしてからだろう。後から流石にやり過ぎたと思ったのか、俺の肩を揺さぶりながらカノンが謝って来たが、謝る理由も意味も、分からないと突っぱねた。分かってしまえばそれは罪を認めることになるからだ。
あぁ、時を戻したい、とそう強く願ったことだけはしっかりと覚えている。
それからカノンが髪の毛を乾かし、花から取ったという香料を塗っているのを眺めていると、俺が落ち着いたのを見計らったカノンが昨日の事を尋ねて来たから、
グレーターワームを倒す前から倒した後、能力を得た事、ドロップアイテムはどんなだったか、治療院に運んだ経緯までを隠すことも無く伝えた。治療院の代金を支払うというカノンの申し出を断ると、カノンは口を尖らせて不満気にしていたが、どうしても、と付け加えると納得してくれたようだった。
それまでのふざけた雰囲気は何処へやら、俺達はこれからの事を含めて真面目に話をした。まだ未熟な俺についてダンジョンに来るべきではないと言えば、カノンは俺に自信が付くまで待つと言った。それがいつになるかは分からないし、そうならないかも知れないと言えば、それならそれでもいい、と言う。
それにカノンは、覚悟はあるとも、何れ必要になるだろうから訓練を積むようにするとも言っていた。
何故そうまでしてダンジョンに昇る必要があるのかと聞けば、そうしたくなったから、とだけ言って微笑み、それからカノンは少女時代の夢を語った。
この世界では、伝説や御伽噺になってしまっている上の世界への憧れ、飽くなき探究心を満たせぬほどの世界を見てみたいという夢と、受付嬢になる前となった後のカノンの話、諦め挫折するに至った過去の出来事を教えてくれた。
カノンは探検者を目指し、挫折して、それでもと探検者のサポーターになったはいいが見捨てられて、そして受付嬢になってからも良いように利用され、最後にはダンジョンに取り残された過去をカノンは語った。17歳と若くして壮絶な経験をし、そんな過去があったからこそ、信頼足り得ると分かるまではマネージメントの依頼は断るようにし続けていたらしい。
だけれども夢は諦めきれず、いつか信用できる人が現れる、と信じて待っていたそうだが、そんな時に、純真無垢で、素直そうで、育てがいの在りそうな少年が現れたから、物は試しにマネージメントしてみようと思ったと言っていた。
嫌な大人の考えが生まれる前であれば、信用させることもできると打算的な考えもあり、裏切られることも少ないと思ったからそうするに至ったようだ。俺はその時、もしカノンが俺の心の中まで読めていれば出会ったとしてもそうなることはなかったのだろうと考えながら聞いていた。
互いに信用と信頼を確かめるために昨日ダンジョンを昇っていたのだ。そう気づいた時にはもう、俺は頼れる人間としてカノンの事を見てしまっていた。明け透けに何でも話すカノンを嫌うことも無い。よくもまぁ、ここまで隠さずに腹の底を見せられるものだ、と関心すら覚えるほどだった。
信じる、というカノンの言葉に応えられる探検者になる。それが俺の目標の一つとして新たに加わった。そう考えれば、俺の強くなるという漠然とした目標、遠く長い道のり、遥か先の景色の中に、見知った人の顔が並ぶようだった。
新たな目標が出来たことで活力に沸いた俺は、装備や道具不足の解消について、カノンに相談を持ち掛けた。と言うのも、金は無いが、ダンジョンで得た新たな能力の真価を見定めたからだ。【バック】の魔法を自分自身でも全てを理解した訳では無いが、俺が思う通りに行けば、石を黄金へと変える錬金術にも似た効果があると言える。
試しにカノンの目の前で【バック】の能力を用いて、実験をして見ることから始めた。茶筒に入った香茶の葉を一枚取り出し、砕いてテーブルの上に撒き、粉々になった茶葉に【バック】を掛けて見れば、砕く前の姿に、あっという間も無く元の形へと戻った。続けて【バック】を掛ければ、茶色の葉が瑞々しさを取り戻し、緑色の葉に戻る。
驚くカノンに、まだこれは予想の範疇だと伝えてから、俺はカップの中で揺らぐ、香茶の葉を掬い取り、テーブルの上に置き【バック】を掛けてみる。すると、水気を帯びて広がっていた茶葉が縮まって小さくなり、乾燥した姿へと戻っていた。だがしかし、驚くことにカップの中の香茶は、茶色いままだった。
この事から【バック】は【ネクスト】と対極だということが分かった。【ネクスト】は過程をスッ飛ばす代わりに、結果を齎す為の準備が必要だが、【バック】はその準備を必要としない。物体にしか直接作用しないのは同じだが、物体その物を前の状態へと戻す能力だ。
そして【バック】の真価とは、過程で起こった現象を無視して物体を復元してしまうという点だ。香茶の葉に使えば一枚の葉で、永遠に香茶を味わうことが出来るということだ。この魔法が発現した時は、俺期待に反した効果で、勝手にハズレ魔法だと思ってしまっていたが、これも使い様によれば立派なチート能力である。
如何せん、戦闘においての有効性を見出すのにも、一捻り必要そうなところが難儀ではあるが、癖のある個性であったとしても手が掛かるほど可愛く思えるものだ。【
ともあれ、時間に関する魔法がまた一つ増えた。時間と言えば、このまま使い続けていてもいいのかという問題に突き当たる。どうしても気になってしまうのはバタフライエフェクトのような不都合が起こりうる可能性だ。
そう、バタフライエフェクトとは、蝶がはばたく程度の非常に小さな撹乱でも遠くの場所の気象に影響を与える、という考えになぞらえて、ほんの些細な時間でも弄ってしまえば、未来が変わるかも知れない、とされる考えだ。
とは言え、それが起こったとしても気付かない可能性の方が高い。この世の理、まして異世界の理なんて、理解しようが無い。不思議な魔法の力が何なのかさえも、分からないのだから。
つまるところ、俺の魔力を対価にバタフライエフェクトが、起こらぬように作用しているのかも知れない、と呑気に考えたところで、ふと俺の頭に沸いた疑問は霧散した。学者でも無い俺には、興味があろうとも生涯を賭しても分らぬだろうことを、調べようとは思わない。
俺が今考えるべきことは【バック】を如何に活用するか、ということだ。カノンと話し合い、相談して出た答えは、ゴミ置き場でゴミを漁って復元して売る、鍛冶屋や商店に掛け合って装飾品や美術品の修理、錬金術の廃棄物を収集して再利用する、というものだった。
日用で使う消耗品を復元する案もあったが、無から有を生むにしても、安価な物を復元していては益を得られないとして、その案は棄却された。ゴミ漁りも似たような案ではあるが、掘り出し物があるかも知れないから、念の為、候補として残した。
ここまでの相談をして、やはり、カノンの存在が活きた。探検者ギルドの繋がり、贔屓にしている店に掛け合うと言ってくれた。それに各エリアに点在するゴミ収集所も、何処を探せば高価な品が見つかるかを具体的に教えてくれる。
王族や貴族が住まう階層には流石に行けないが、一般層が住む階層の店屋が集う箇所から近い収集所に、早朝までに行けばダンジョンへと打ち捨てられる前に何か拾えるかもしれない、と言うような知恵だ。
万が一、鍛冶屋などの店に引き合わせられなかった場合、ゴミ漁りをする、と二人で決めた。それ等の案、一先ずの行動目標を話終えたころには、昼時になっていた。
何処か二人で食べに行くかと話している時に、カノンの部屋を女性が訪ねて来た。二人で何やら話しているのが聞こえて来たのだが、その女性はカノンの同僚らしく、カノンが怪我を負ったと聞きつけて顔を見に来たようだった。
その同僚と話している内に、二人は扉を押し引きしてせめぎ合い、なにやら揉めているようだった。どうやらここはギルド職員の寮らしい。
連れ込んだとかなんとか、顔を見せろとかなんとか、言う話し声が聞こえて来て、俺は気まずい思いをしながらじっと待っていた。しばらくの押し問答の後、見に来て損したと言い残して同僚は帰って行った。
事なきを得たと一仕事終えた様子のカノンが戻って開口一番、初めて男の人を上げたのよ、と言って恥ずかしそうにしていたのは、なんだったんだろうか。齢12歳の少年であり、この世界でも童貞の俺には関係の無い話に思えた。
そうして二人で、スニーキングミッションのように寮を出て、職員の来ない穴場という店で昼食を取った。頑張ってくれた魔槍にも何か注文してやろうと思い、手を上げかけた時にグレーターワームのドロップ品を持ったままだったことを思い出した。
カノンと報酬を分け合おうとも思って取っていたのだが、彼女に断ってから魔槍にご褒美として食べさせることにした。カノン曰く、魔法道具の材料になるもので魔法珠と呼ばれているらしい。特定の魔法の元素が詰まった玉であり、魔法珠を用いた道具を使えば、魔法を使えぬ人でも魔法を発動させられるようになると言う。
グレーターワームが落としたのは土の魔法珠だったらしい。何でもとはいかないが、加工すれば一種類の低級土魔法を俺でも使えるそうだ。それに、売ればそれなりの価値にはなるらしいが、ここまで聞いても魔槍に与えるという俺の決断は変わらなかった。初めて与えるから食べるかどうかも分からないし、それが褒美になるかも分からないが、気持ちとして受け取ってもらうことにする。
いつものように与えて見れば、魔槍は繭に包まれ、新たな姿へと進化した。笹の葉のような穂先の形や赤黒い色味は変わりはしなかったのだが、穂先と柄の間にビー玉サイズの珠が埋め込まれた姿へと変化した。だけれども、茶色かった魔法珠の土の元素は何処へやら、変化した魔槍の珠は無色透明で、向こうを透かして見れるほどの透明度の高い珠が、魔槍に一つ加わっただけだった。
魔法を使えるようになる訳でも無く、それがどう作用するのかも分からない。現状、分かるのは綺麗な玉の装飾が付いた事で、魔槍の高級感が増したという位のことだ。しかしながら、俺は満足していた。魔槍が成長する事自体もそうだが、魔槍がこうなることを選んだ意味が分かる時まで、また一つ楽しみが増えたとも思えたからだ。
早く試したい、と思いながらも俺は、逸る気持ちを閉じ込めるように、魔槍を布に包んで仕舞った。流石に店内で振り回す訳にもいかないし、柄も折れたままだし、試すのはまたの機会にする。
そうしてる間にも、カノンお勧めの料理が運ばれて来た。のんびりとした時間を過ごしながら、ゆっくりと食事を堪能した。
そんなただの日常が、ダンジョンから離れて見れば、色濃く映る。まだまだお勧めの料理があると言うカノンに、また明日もここで食べようと予定を取り付けてから、俺達は二人で店を出ることにした。
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